1月 ★「染料会社の塔」<月曜>[1-288]
☆「私はいつか、飛行者の白いオーヴァオールが空の青に染った話を書こうとしたことを思い出した。それは出来なかった。機体も青く変色させねばならなかったからだ。それで、染料会社が高い塔を立てて空の青を採集する話を思い付いた。『青空が褪せてしまったが、いつもその褪せている所から雨が降ってくるんだ』とつけ加えたのは、佐藤春夫先生だった」(「飛行機の墓地」『大全6』p.347)
1月 ★「タルホの手紙」<文党>[→「「文党」への手紙」13-27]
☆『全集13』《筑摩書房》では、「「文党」への手紙」と改題。
☆猪原太郎のことが書かれている。
1月 ★「木犀」<文章往来>[3-198]
☆戦後、昭和21年9月「四季」発表の「星は北にたんだく夜の記」の初出。
1月 ★「大谷先生の話」<不同調>[12-62]
1月 ★(アンケート:大正十五年の文壇及び劇壇に就て語る)<新潮>[13-448]
2月 ★『星を売る店』《金星堂》
収録作品(6編)「黄漠奇聞」「星を売る店」「チョコレート」「星を造る人」「『星使ひの術』に就て」「緑色の円筒」
2月 ★「海のかなた」<新潮>[→「紫色の35mmのきれっぱし」2-171]
2月 ★「相馬先生の問題」<文藝春秋>[12-65]
☆茨城県土浦町の小学校教員、相馬先生のこと。この中で、生徒の作文の一つが、この年11月に発表した「村の騒動」の物語のきっかけになっていることが分かる。
☆「タルホ=コスモロジー」(『全集11』p.477)参照。
2月 ★「芸術派の立場」<文芸時報、2月5日号>[1-429]
2月 ★(アンケート:このハガキを御落手になった前後の一日の日記)<文章倶楽部>[13-448]
3月
☆萩原氏の年譜では、3月に「文芸時代」の同人に加わる。
3月 ★「星」<若草>[12-68]
3月 ★「滑走機」<月曜>[6-360]
4月 ★「われらの神仙主義」<新潮>[→「われらの神仙道」1-431]
4月 ★「天体嗜好症」<女性>[2-156]
★私の短篇「天体嗜好症」は、大正年代の終りに雑誌女性に発表されたが、これから数カ月後に、江戸川乱歩が「旅順会戦館」という随筆を書いている。それは、「天体嗜好症」を彼が読んで、その中に出てくる旅順海戦館に並ならぬ懐かしさをそそられたというのだった。(「旅順海戦館と江戸川乱歩」『全集11』p.247)
☆乱歩の随筆は、この年の雑誌「探偵趣味」8月号に掲載されている。
4月 ★「黒猫と女の子」<婦人公論>[12-74]
4月 ★「月光密輸入」<虚無思想>[1-270]
★「月光密輸入」は、浅草帝国館で観た「月夜村のハム」という二巻喜劇がタネになっている。
☆「月夜村のハム」の封切りは?
4月 ★「芸術派の意義」<新小説>[1-439]
4月 ★「ラリイの夢」<文芸道>[12-71]
4月 ★「空の美と芸術に就いて」<文芸時代>[6-355]
4月 ★「ちょいちょい日記」<文芸時代>[1-202]
★当時三高生であった武田麟太郎が(「ちょいちょい日記」を)読んで、手紙をくれた。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.146、『全集11』p.492)
☆同様の記述が「新感覚派前後」(『大全6』p.414)にある。
4月 ★「武石氏続記」<文党>[1-292]
☆『星の都』p.95では、(猪原)太郎の手紙として、武石浩玻の墜死(1913<大正2>年5月4日)の年が、タルホ13歳として書かれている。また、p.96には、「私はすぐる十二年まえの五月の四日のことを……」とあることから、おそらくこの原稿は1925<大正14>年に書かれたものであろう。
5月 ★「僕はこんなことが好き」<驢馬>[1-88]
5月 ★「あの頃の飛行機」<文藝春秋>[→「わが一九二三年のマニフェスト」1-274]
5月 ★「月光騎手」<辻馬車>[2-168]
5月 ★「忘れられた手帖から」<文芸時代>[13-28]
5月 ★「ソシアルダンスに就て」<文芸時代>[12-84]
☆この中に、現在の住所が「府下西巣鴨新田八一七池内舞踏場(大塚下車)」とある。
5月 ★「無性格論」<虚無思想>[→「かものはし論」3-268]
5月 ★「妄執」<新小説>[12-86]
6月 ★「彗星問答」<虚無思想>[→「彗星?楽部」1-251]
★それから三年目の夏、今度は嫌々ながら一字づつ刻み込むように綴って、やっと二十四枚を書き上げた。これは「自分」が、事件審査員から訊問される形式である。(「私の宇宙文学」『大全1』p.151)
☆これは「彗星問答」(のちの「彗星倶楽部」)のことを指していると思われる。3年前の夏に一度とりかかったが、そのときは完成しなかったとある。3年前というと大正12年で、その夏には明石に帰省している。
☆同p.155には、「都市が或る瞬間に、其処に寝そべっているそんな途轍もない巨大な骸骨に見えた、ということを書き加えようと思ったが、それは見せ物じみているので、止した」とある。この「骸骨」は、のちに『弥勒』で「弥勒菩薩」に置き換えられる重要なもの。ここで、「止した」とあるが、実際には「彗星問答」発表時から、「骸骨」を登場させている。
6月 ★「滑稽二つ」<文章往来>[12-93]
6月 ★「地獄車」<現代>[13-29]
6月 ★(アンケート:はがき評論─三十一氏―文壇名家の人物と芸術とに対する諸方面人士の観察感想及び想像―「佐藤春夫氏」)<不同調>[13-449]
7月 ★「新道徳覚書」<文芸時代>[12-95]
7月 ★「ベニスの思出」<不同調>[→「ちんば靴」1-77]
7月 ★「ライオンと僕」<戦車(甲栄舎)>[13-31]
7月 ★「風呂」<週刊朝日、7月11日号>[13-33]
8月 ★「海べの町」<文章倶楽部>[12-101]
8月 ★「白いニグロからの手紙」<文芸時代>[1-117]
8月 ★「戦争エピソート」(アンケート:Up to dateに就いて―真夏真昼に描く科学的なブリキ製のオモチャのような幻想と感覚―)<文芸時代>[13-449]
8月 ★(編輯後記)<文芸時代>[13-421]
8月 ★「二十世紀清談」<住宅>[1-296]
8月 ★「PREFACE」<正岡蓉著『風船紛失記』所収>[12-109]
8〜9月 ★「STAR PITCHER」<読売新聞、8/29、9/1、9/2>[12-106]
9月 ★(アンケート:忘れがたい作品)<若草>[13-449]
10月 ★「習作」<文芸時代>[12-110]
10月 ★「映画美と絵画美」<文芸時代>[1-443]
11月 ★「牡蠣」<新潮>[12-115]
11月 ★「滑走機」<文芸時代>[6-360]
11月 ★(映画随筆:)「タイトルに就て」<若草>[12-128]
11月 ★(アンケート:はがき評論―予は何新聞を愛読するか及びその理由―)<不同調>[13-450]
11月 ★「村の騒動」<女性>[→「お化けのムーン」1-245]
★(「夜の好きな王の話」の)原稿を取戻し、神田今川小路の金星堂に立寄って、「文藝時代」に載せる手続きを取った。その帰途に音羽九丁目の佐藤春夫へ顔を出すと、ちょうど客間の籐椅子に倚って主人と話をしていたのが、谷崎潤一郎である。彼は……近ごろ「女性」誌上で読んだ私の「村の騒動」を持ち出し、「君の書くものにはおつりきな所があって、面白いよ……」とも云った。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.98)
☆「新感覚派前後」(『大全6』p.406)に、「『あれ(江森盛弥)はひどい野郎だ』谷崎先生がずっと昔、私の前で漏らしたことがある。江森のために下宿代の尻ぬぐいをさせられた件であった」とあるのも、このときに出た話か?
★先生(佐藤春夫)が音羽通りの橋ぎわの裏に住んでいた頃で、先生と(谷崎)潤一郎、傍に私がいた。夕刻が来て谷崎が帰りかけようとした時、「何か取ろうか」と先生が口に出したところ、「僕は昔から君の家では何も食わないことにしている」と潤一郎は云って、さっさと帰ってしまった。(「佐藤春夫を送る辞」『大全6』p.543)
☆この話も上記と同じ日の出来事であろう。佐藤春夫の音羽(9丁目18)住まいは、大正14年11月〜昭和2年3月。
12月 ★「タルホ入門」<不同調>[1-444]
12月 ★「HOSHINOさん」<若草>[12-130]
12月 ★「まづこの四つ」<新潮>[13-421]
12月 ★「サハラの月」<文藝春秋>[→「リビアの月夜」2-252]
☆「タルホ=コスモロジー」(『タルホ=コスモロジー』p.185、『全集11』p.511)に、「ツータンカーメンの塋窟が発見された頃、「飛行少年」のページにCLEOPATRAの象形文字を見て、……私は明石から東京の中学生に手紙を出して、「飛行少年」の発行所までバックナンバーを買いに行って貰った」とある。
☆ツタンカーメンのミイラの発掘は1922(大正11)年。この明石帰省はいつのことか?
12月 ★(アンケート:大正十五年度の作と人)<近代風景>[13-450]
クリスマス近く
★もう十年以上になります。その年のクリスマス近くに、ひょっくりと、曲りくねった小路の奥にある舞踏教習所を訪れた愛らしい異国の少女があった事なのです。(「新月抄」『全集12』p.288)
☆回教教会小学校の少女。
☆この年かどうか不明。「新月抄」は昭和12年12月「むらさき」発表なので、「十年以上」というとこの頃のことか?
☆この話は「新月抄」より先に「新月挿話」として昭和4年3月に「クロネコ」に発表されている。
☆「美少年時代」(『全集12』p.340)にも。
大晦日
★大晦日の晩に彼女(女子大の水泳選手で、女流飛行家志望のOさん)は私の部屋に宵の口からねばり続けて……それにOさんは正月には大阪に帰って結婚する身の上である。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.197〜198)
☆同様の記述が「美少年時代」(『星の都』p.249)に、「大晦日の夜に、かの女は私の前にポケットウィスキを差し出した」とある。
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★大正期の終り頃に、松山中学を卒えるなり私の所へとび込んできたのが仙波重利で、これはのちに京都の映画撮影所に入り、(大陸のクリークで戦死した)山中貞雄のアシスタントディレクターとして、黒澤明とは同輩であった。この仙波がいつしか私の影響で星座通をひけらかすようになり、仙波の天文趣味上のお弟子が即ち草下英明なのである。(「銀河鉄道頌」『全集11』p.280)
★松山中学を出てすぐに私の許へやってきたのが、読者の仙波重利で、私はダンス場と向い合った小さな借家に住んでいたTYに頼んで、そのお勝手に附属した三畳に置いて貰うことにした。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.192、『全集10』p.429)