1927(昭和2)年 26歳



1月
★……其後、彼女(Oさん)はもう一ぺん、昼間にやってきた。……ちょうど第三半球物語のページに挟む四枚の着色画の見本が刷上がってきた時であった。……只私が婦人公論に書いた「黒猫と女の子」(例の渋谷の三階建の怪談)を読んで、「怖かった」と云ったことがあるくらいであった。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.198)

★武蔵境から天文台への道は、両側に杉林が続いて、月が照っていたならば二人連れにはお誂え向きの帰途だ。そういうことを洩した時、やはり前のダンス仲間の女子大の水泳選手から天文台行きを再三ねだられたが、それは実行に移らなかった。その頃の十年間は、私の創作年代記ではブランクである。(「新感覚派前後」『大全6』p.415)
☆三鷹の天文台行きのこと。「その頃の十年間」とはいつ頃のことか?

1月 ★「童話の天文学者」<新青年>[2-177]
☆小石川伝通院裏からややっこしい所を突き切って、普通の邸宅の畳敷の上にテーブルを置きならべた編集局をたずね、主幹森下雨村に「原稿料を少し上げてくれ」と頼んだことを憶えている。(「「新青年」発表作品への回顧」『全集12』p.424)
☆「新青年」は昭和2年3月号から横溝正史が2代目編集長。

1月 ★「夜の好きな王の話」<文芸時代>[2-292]

1月 ★「或る倶楽部の話」<近代風景>[12-135]

1月 ★「カオルサンの話」<若草>[12-139]

1月 ★「タルホ一家言」<新潮>[12-134]

1月 ★「星を喰ふ村」<文芸公論>[1-301]

1月 ★(アンケート:年頭感)<文芸公論>[13-450]
☆この号の「最近文士録」欄に、タルホの現住所が「東京市外西巣鴨新田八一七、池内舞踏場」とある。

1月 ★(合評会)<文芸公論>[全集不掲載]
☆これはタルホ他7人による合評会

2月 ★「Little Tokyo’s Wit」<文芸時代>[6-362]

2月 ★「Little Tokyo’s Witに就いて」<文芸時代>[6-368]

2月 ★(新人画譜1:)「大変です」<文芸公論>[12-141]

2月 ★(「マイクロフォン欄における「新青年」への提言)<新青年>[13-422]

3月 ★『第三半球物語』<金星堂>
収録作品(28編)「バーの一夜」「Aの壁紙」「カブト虫にやられた話」「THE MYSTERIOUS CATCHER」「THAT'S NOTHIN'」「何もすることのない男の話」「へんなオモチャをもらった話」「不思議なボール紙の筒に就て」「インキを飲んだ話」「潜航艇爆沈」「馬をひろった話」「追っかけられた話」「北郊奇談」「土星とオートモービル」「ペッケル博士とチョウチョ」「張紙事件」「北極星に油をさした話」「星の病院」「夜がもえた話」「口のなかへネヅミをねじこまれた話」「A TRADE MARK」「天文台」「へんなところを突きぬけた話」「三日月をまわす機械」「コニャックに酔っぱらった男の話」「月へ行きそこねた人」「坂の怪異」「星同志が喧嘩したあと」(自筆イラスト4点、「A NIGHIT AT A BAR」「SUTARN AND AUTOMOBILE」「ROADMAN'S ADVENTURE」「MYSTERY OF ASCENT」)

★一九二四年に、同じ金星堂から続編『第三半球物語』を私は出した。この題名はダンセーニの“Tale of three hemispheres”をもじったのであるが、表題名が理屈っぽくなったように、内容において既に一千一秒のムードを取戻せなくなっている。(「病院の料理番人の文学」『大全6』p.558)
☆この「一九二四年」は、一九二七年の誤り。

3月 ★「天文台」<文芸時代>[12-142]

3月 ★(アンケート:大正十五年間に現れたる作品のうち、最も記憶に残れるもの)<文章倶楽部>[13-450]
★佐藤春夫破門について、一言する。それは文壇の諸事をたねにしている小新聞に、「佐藤春夫は田舎貴族で、東京へ家を建てに来た」と僕が書いたのである。「佐藤春夫は文芸春秋の喇叭卒になっている」とも述べた。僕が文学少年をつれて関口台町を訪れた時、玄関口で師匠は云った。「理由は云わぬ。逢わないことにしようではないか」これだけの話である。(「わが庵は都のたつみ」『大全5』p.78)
☆この話がいつのことか不明。佐藤春夫が小石川区関口町207の新居に移ったのは、『佐藤春夫全集』(講談社)によれば、昭和2年3月である。

4月 ★「白衣の少女」<現代>[13-37]

4月 ★(アンケート:創作一人一評―衣巻省三作「敷布のテント」―)<文芸時代>[13-451]

4月2日
☆『室生犀星文学年譜』(明治書院、昭和57年)には、昭和2年4月2日に、稲垣足穂が室生犀星を訪ねたことが出ている。

芥川龍之介と会う
4月中旬
★「大きな三日月に腰かけて……」巻紙にこんなスミの字を達筆に認めた手紙を、芥川龍之介から貰ったことがある。しかし本人に逢ったのは、いよいよおし詰ったあの年、昭和二年四月中旬のことである。(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.186)
☆同書p.188に、芥川を訪ねた日の晩にそこへやってきた北原白秋が、「その頃彼が主宰していた『近代風景』に私が寄せた原稿についてお礼を述べられた」とあるのは、1月の「或る倶楽部の話」のことであろう。なお、芥川の死は昭和2年7月24日。

★「いったい文学が人生について何らかの教師あるいは指導役をつとめようとするのは明らかに文学の虚栄である」私が、田端の芥川の書斎で洩したとき、彼はその言葉をいま一度云ってくれるように頼み、自らそれを心のうちで反芻するかのようであった。(「唯美主義の思い出」『大全6』p.419)
☆「佐藤春夫を送る辞」(『大全6』p.541)に、佐藤春夫に対する批評を芥川龍之介に告げたとあるのも、この日の折のことか。

★私が逢った其日、四月の半ばだというのに、芥川の書斎には行火が設けられ、彼はまだ寒そうであった。(「唯美主義の思い出」『大全6』p.420)

★僕は龍之介の最後の年の四月に逢って半日を語り合ったが、その時、彼は何かのついでに、「生活のうまい奴が、こうしてしばしば生れ更ってきているのだろうね」と洩した。(「永劫流転」『大全6』p.485、『全集11』p.113)

★「生活のうまい奴だけが、こうして生れ直してきているんだろうね」芥川龍之介が、その最後の年の春にボクに云いかけたことが思い出される。(「心霊学流行に因んで」『全集11』p.74)

★曾て芥川龍之介が、ピーター・パンの作者の言葉として、「将来の映画はタイトルばかりになってしまうだろう」と私に洩らしたことがある……(「私の宇宙文学」『大全1』p.170)
☆この話も、この折のことであろう。

5月 ★「月星六話」<若草>[12-158]

5月 ★「つけ髭」<新潮>[1-189]
★昭和二年前半期であったが、「つけ髭」が載った時、主幹の中村武羅夫は警視庁へ召喚された。「発禁であるが、お前の所は純文学物ばかり出す出版社らしいし、部数も知れているから今回に限って特に許す、以後こんなことがないように」との注意である。武羅夫は「つけ髭」について、どの部分がいけないのか問うたところ、全文が不可であるとの答えだったと云う。(「プラトーン以後」『全集12』p.417)
☆稲垣志代著『夫稲垣足穂』(p.214)に、同様の記事が。

6月 ★「形式及び内容としての活動写真」<新潮>[1-447]

6月 ★「僕の五分間劇場」<文芸公論>[1-307]

6月 ★「宇宙に就て」<手帖>[1-310]

6月 ★「WC」<文学祭>[12-163]

6月28日
★ところがはからずもウインネッケが地球のそばをとおった二十八日の夜である。僕は近くの原ッパで立小便をしていたが、そのときむこうの方に二十度ほどの高さのところにうすぼんやり光った卵形のものが出ていた。(「彗星一夕話」『全集12』p.170)

6月29日
★次の二十九日の晩、田端のくらい坂の上から室生さんと灯のついた街の上にもの狂わしくのしかかったかずかずの星座の方へ、順々に小手をかざしてみたが、ポンス氏はいなかった。(「彗星一夕話」『全集12』p.171)

6月30日
★三十日の夜、しょっちゅうリーマンとかミンコフスキイによるとどうとか云ってる人に会った。この人は僕と同じ二十八日の夜北方に親愛なるウインネッケ氏をみとめたと断言するのである。(「彗星一夕話」『全集12』p.170)

7月1日
★これを書いているきょうからはゆうべに当る七月一日の夜、いつも世に常ならぬ事共ばかりを話して帰って行く窓からの訪問者を迎えた。「ホーキ星見ましたか」と彼は云った。(「彗星一夕話」『全集12』p.170)

7月 ★「生命に就て」<手帖>[1-311]

7月 ★「『ラリイ将軍珍戦記』を観て」<不同調>[12-165]

7月 ★「『田園の憂鬱』に就て」<改造社文学月報>[12-168]
★この冒頭に、「「ウェールスという作家は僕はあまり好きでないが」とこの間芥川龍之介氏が私のまえで云いました「すべての作家の作品というものはその処女作以上に決して出るものではない――そんなことを云ってるのには感心したね」」とあるが、芥川の死の前に書いたものだろう。

8月 ★「物質に就て」<手帖>[1-313]

8月 ★「鹿が沈んだ淵」<若草>[12-172]
☆「海浜漫談」(大正14年8月20日)の中に、同様の記述がある。

8月 ★「彗星一夕話」<文芸公論>[12-170]
☆この中で、6年前のあのポン彗星接近が「大正10年」だったことが、タネ明かしされている!

8月 ★(アンケート:自分の作品に対する批評をどう観るか)「信ずる友人」<文芸公論>[13-451]

8月 ★「サギ香水」<太陽>[→「鷺香水」1-319]

9月 ★「人間に就て」<手帖>[1-315]

9月 ★(アンケート:女性の作家に対する希望)<若草>[13-452]

10月 ★「薔薇(ダンセニイ)」<手帖>[1-317]
☆これは翻訳?

10月 ★(アンケート:わが二十歳の頃)「空界への憧れに」<文芸公論>[13-452]

10月 ★(アンケート:新人の印象(3)鈴木彦次郎―その人間・その仕事─)「新選組のやうな顔」<文芸公論>[12-174]
☆鈴木彦次郎(1898-1975)は『文芸時代』の同人で新感覚派の一人。

10月 ★(アンケート:1.私の好きな人物 2.私の好きな書籍 3.私の好きな花 4.私の好きな作中の女性)<文章倶楽部>[13-453]

10月 ★ 「瓶詰奇談」<新青年>[→「円錐帽氏と空罎君の銷夏法」13-61、→「我が棲いはへリュージョンの野の片ほとり厭わしきカルニアの運河に沿うた地下墓地だ」1-383]

11月 ★ 「詩人対地球(ダンセニー)」<手帖>[1-318]
☆これも翻訳?

11月 ★ (アンケート:既成文壇の崩壊期に処す)「関心をしない」<文芸公論>[13-453]

11月 ★ 「へんてこな三つの晩」<薔薇魔術学説>[1-393]

11月 ★ 「星澄む郷」<新潮>[2-151]
★武者小路氏は初めて私に向き直って、「君は知っているかね」と云いかけた。ちょうど新潮に『星澄む郷』という短編を発表した時だったが、……(「随筆ヰタ・マキニカリス」『東京遁走曲』p.185)
☆「私の宇宙文学」(『大全1』p.169)に、「星遣いの術」について「『あれにはやられた。終りになって谷崎、芥川の名が出てきたので、やっと嘘だと判ったがね』当人が私に向って述懐された」とあるのも、この折のことであろう。

★私はブカブカドンドンの席へ出ず、部屋にこもってベルグソンをよんでいる宵がある。耳たぶに紫水晶をつるした宇野千代さんがやにわに飛びこんできて、「はいらしてちょうだい」と云いざま炬燵にあたった。私は或る函数の最大値を考えていた。「せっかくあたしが行ったのに、なんて××さんは無愛想なんでしょう」その帰途に、千代子女史はつれの萩原朔太郎夫人に洩らしたとか。(「美少年時代」『星の都』p.248)
☆ダンス場時代のことであるが、何年のことか不明。「ベルグソン」「或る函数の最大値」などから、作品を特定できるか?

★「あなたはどこかサーカスの雑魚寝といったところがありますよ」昔、詩人の丸山薫君に云われたが、そのころ私はダンスホールの居候兼用心棒として、毎晩六畳の部屋に若い女性たちと枕をならべて寝ていた。しかし、彼女たちは最も多い時で、私を入れて七人であった。(「我が家の女たち」『全集11』p.184)

12月 ★「この機会に」<新潮>[1-454]


★田辺君は夜更けに、タマの一箇を火鉢の中へほうり込んで夜具をひっ被った。こうして一箇乃至二箇が夜毎に処分され、大正九年早春から昭和二年冬まで持てあましてきた厄介者は、二週間のうちにきれいに片付いてしまったのである。(「鉛の銃弾」『鉛の銃弾』p.200)
☆同様の記述が「滝野川南谷端」(『大全6』p.600)にある。青レッテルを貼った紙の小函に入った数十個(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.326では36箇)の鉛の銃弾は、明石のLa Mise(三瀬ツタ子:「鉛の銃弾』p.55)のお母さんにもらったもの。大正10年9月上京の際の手荷物の一つであった。ただ、この「大正九年早春」が何を指しているのか不明。もらったのはもっと以前(関西学院在学中)ではないか? なお、田辺君は中野アパートの住人であるが、タルホ自身はこの時期、まだ中野アパートには住んでいなかったと思われる。巣鴨新田のダンス場から遠くない滝野川の中野アパートには、丸山薫らが住んでおり、日頃から行き来していたと考えられる(丸山薫は昭和6年秋からの住人)。


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