■1931(昭和6)年 30歳 母方の祖父母の死、中野アパートへ?
祖父母の死、帰省
1月
★九十に届いた利助がやっと亡くなった。その二、三日前に「ともかく祖父の工合が悪いらしいので、知らせる」という簡単な葉書を東京の次男へ出したが、ひと月も経たぬうちに、「祖母が悪い」との報せが、汽車賃と一緒に母親から届いたので、董生は久振りに我家へ帰ってみた。(「父と子」『大全4』p.164)
☆同書p.165には、祖父の死の1カ月後、祖母が87歳で亡くなったとある。「白昼見」(『大全4』p.176)に、祖父が「八十翁」とあるが、これは亡くなるときのことではないのだろう。上の記述からは、祖父の死に目には帰省していないと思われる。
☆「彼(祖父)は顫える手先で七十近くまで客を相手にしていた」(「地球」『大全4』p.258)とある。
★「祖父さんのぐあいが正月以来わるいようだ、帰ってくるに及ばぬが何ぶん高齢のことだから一応知らせておく」チビ筆でかいたこんな葉書が父から届いた時、わたしには別にどうする気も起きませんでした。その数週目に母から汽車賃が届きました。「祖母さんのぐあいが少し悪い。それに祖父さんの骨をお寺に埋めねばならんから、それまでに間に合うように」とあります。……その晩わたしが汽車に乗ったのは、滞納一ケ年の借家人が出てしまったあとに自分ひとり取残されて、どうにも出来ず、と云って、どうにかしなければならぬ破目にあったからです。海辺の町に帰った三日目に、祖母は亡くなりました。(「白昼見」『大全4』p.182〜183)
☆萩原氏の年譜の「1月」は、祖父母が亡くなった月か、タルホが帰省した月か、明確でない。以下は仮説。祖父の具合が正月以来悪いとあるので、最初の父からの葉書を1月中旬だとする。その数週目に母から汽車賃が届いたとあるのを2月上旬とする。その母からの知らせには、すでに祖父が亡くなって納骨をしなければならないとあるので、祖父の死を1月下旬とする。すると、祖母の死は祖父の1カ月後であるから、2月下旬ということになる。タルホが帰省したのはその3日前であるから、それは少なくとも2月中旬から下旬になる。
☆「滞納一ケ年の借家人が出てしまったあとに自分ひとり取残されて」とは何の住まいを指すのであろうか。池内姉妹方のことではないか。
☆西巣鴨にはこの1月までいたのではないか?
☆「わが庵は都のたつみ」(『東京遁走曲』p.113)に、「池内姉妹の家に十数年間居候を続けた」とあるが、姉妹のもとに移ったのが大正12年であるから、足掛け9年間ということになり、「十数年間」は誤り。
☆「北落師門」(『大全4』p.101)に「九十歳に届いた別居の祖父母が相継いで亡くなると、一年置いて父だった。此時に帰省したまま、格別何処にも用のない私は、ずるずるべったりに滞留して、こうして迎えた三度目の夏の、八月も半ばに近い頃、夕刊紙面にならんだ写真の中に、テュルゴオを見つけたのだった」とあるが、祖父母と父の死亡年の間隔が違い、「此時に帰省したまま云々」も事実と異なるので、これは創作上の年月だろう。
★この天保と弘化生れの祖父母が相ついで世を去ったのは、わたしが三十歳になった時です。(「白昼見」『大全4』p.180)
☆同書p.182には、「この九十に達した老夫婦がひと月を隔てて前後して亡くなった折、古箪笥の奥からは金百四十円也が現われただけでありました。……わたしの姉には、東京の大学に行っている二人の息子のほか、中学生と女学生があって、手前勝手な火のくるまを廻しています」とある。
☆同様の記事が「地球」(『大全4』p.259)に。ここでも「羊助夫婦が互いに一ケ月を隔てて世を去った」とある。
1月2日
★祖父が八十九歳の正月二日に亡くなった……(「雪融け」『大全5』p.162)
☆ここでは日付を記している。
お正月
★あくる年のお正月、相つぐ祖父と祖母の喪のことがあって、私は淡路島を正面にひかえた海峡の町へ帰った。(「松風」『全集12』p.312〜313)
1月
★董生はその(父の死の)前々年の一月、祖母が死んだ時に帰省したまま海峡の町にとどまっていたが、……(「地球」『大全4』p.262)
☆父の死は昭和9年であるから、「前々年」というと昭和7年となり矛盾する。
☆ここでは祖母の死は「1月」とある。
1月 ★「蓬莱問答」<週刊朝日>[12-227]
1月 ★(アンケート:打てば響く(一九三一年問答録))<新青年>[13-459]
2月 ★「蓄音器の逆行について」<マンガマン>[12-232]
3月 ★「星じるしエロナン見本帖」<マンガマン>[12-236]
3月 ★「びつくりしたお父さん」<新青年>[→「青い箱と紅い骸骨」2-231]
3月 ★「印度の神様のいたずら」<週刊朝日>[12-239]
☆冒頭に、「私の住んでいる所は滝野川です」とある。これは祖母が亡くなって帰省している時期に書いたものかもしれないが、この「滝野川」が「中野アパート」を指しているのであれば、帰省する前にすでに「中野アパート」に住んでいたことになるが。
☆この中に探検家アムンゼンのことが出てくるが、アムンゼンの来日は昭和2年6月。その遭難死はちょうど1年後の昭和3年6月。
3月の中頃
★三月の中頃、午後おそく、Aさんへの所用のついでだと云って、Iが玄関へかおを出した。(「松風」『全集12』p.313)
☆「I」は「松風」に登場する須磨住まいの女性。
☆文脈からは、祖父母の喪のことで帰省したあとの話なので、同じ年の3月になる。
☆ただし、この後の「おととしの冬の、ワラ葺屋の回想が……」(そうすると昭和4年に明石に居たことになる)など、「松風」の内容には、時制の上で不明瞭な点がいくつかある。
春
★僕は滝野川の奥にある小さなアパートの一室に住んでいた。今よりもっと早い頃の春の或朝であった。僕と一緒に暮していた身寄りのない娘はまだ布団を引被っていた。(「格子縞」『全集12』p.278)
☆これは「アパート」とあるので「中野アパート」のことであろう。「格子縞」はその内容から4月1日前後に書かれているので、「今よりもっと早い頃の春」というと、2〜3月頃か。すると、この頃すでに中野アパートに住んでいたことになるが。
4月 ★「鬼」<現代>[1-350]
4月 ★「小牛のある話」<今日の文学>[全集不掲載]
☆未見
中野アパートへ?
初夏
★わたしはその初夏に東京へ戻り、その次の正月にまた帰省しましたが、それからずっと続けて海辺の町に滞在していました。そして更に翌年の秋遅く、今度はこちらで知り合った年少の友の葬式に列しました。(「白昼見」『大全4』p.183)
☆祖父母がなくなった後の上京のこと。祖母の死の後、初夏まで明石にいたことになる。
☆その後の記述は他の記事とつじつまが合うが、最後の明石帰省が「正月」となっている。
☆このとき東京に戻ってからの住まいが中野アパートであろうか? 先の帰省前の住まいは「滞納一ケ年の借家人……」とあり、同じ所に戻ったとは考えにくい。
夏
★昭和の初め、(独逸の大飛行船の訪れがあった頃)僕は滝野川の奥に住んでいたが、ある夏の宵かたに、町内催しの仮舞台の前に立止ったことがある。そこでは今しも奇術の弟子のような若い男の前座が始まったところで……、腹立たしくなってきたものだ。ところがあとになって、彼は実は伝統に忠実であったのだと気が付いて、無性にうれしくなってきた。(「雪融け」『大全5』p.164)
☆ツェッペリン飛行船の霞ヶ浦来訪は、昭和4年8月だが。
☆丸山三四子(丸山薫夫人)著『マネキン・ガール』(昭和59年、時事通信社)によれば、丸山薫は昭和6年の夏の終り頃に上京して、滝野川アパートにいる足穂を訪ね、そこに住むよう誘われたとある(p.39〜42)。そして「昭和六年秋、薫は単身上京し、東京市外・滝野川南谷端(やばた)「滝野川アパート」に移りました。……私は、荷物などを整理したのち……薫のもとへまいりました」(p.45)、「私どもは、二階の稲垣足穂さんのすぐ前の部屋を借りた……」(p.54)とある。足穂と丸山薫はいつ知り合ったのだろうか。同書p.56には、「いつ、どこで二人が親しくなったのか、私は知らないのですけれど、足穂さんは佐藤春夫さんのお宅で書生のような立場をされていたことがあると、のちに耳にしました。薫は、私と結婚する以前、三好達治さんだかに誘われて、佐藤春夫さん宅に顔を出したことがあるそうですから、そうした折にでも知り合ったのではないでしょうか」とある。同p.57に、薫夫婦の留守中に、足穂が持ち物を質入してしまったエピソードが述べられている。
10月 ★「ジェキル博士とハイド氏」<週刊朝日>[1-353]
11月 ★「シカゴ氏の芸術」<作品>[→「人工戦争」1-110]
11月 ★「青い箱と紅い骸骨」<文科>[2-231]
★「文科」の二号だか三号だかに、寄稿の件を依頼してきたのは、刊行元春陽堂からの手紙だったと憶えている。それは自分のカンで、私を指名したのはたぶん牧野信一だった筈である。他の同人らはいずれも知らん顔をしていた。この事情は現今でも変っていない。私の手許にはちょうど「愛すべき丘々の話」という六十余枚の短編があった。これを二回に分けて「文科」に出すことにした。発表された時、別に反響はなかったが、只、「堀辰雄があれを読んで泣いたそうだ」という話が、私の耳に入ってきた。(「「文科」の頃」『全集11』p.425)
☆「愛すべき丘々の話」は「青い箱と紅い骸骨」の最初の題名。「「文科」の頃」には、この作品は最初「中央公論」(嶋中雄作)に送って、送り返されたとある。
☆同じく、「文科」の会合に一度だけ出席し、嘉村礒多と牧野信一を初めて見たこと、会合の帰りに喫茶店で牧野から坂口安吾を紹介されたことが書かれている。
11月
☆萩原氏の年譜には、「この年11月「文科」に見られる住所、滝野川南谷端2100中野アパート」とある。
☆「滝野川南谷端」(『大全6』p.594)に、「丸山薫君の短編『蝙蝠館』には、昭和のはじめ頃、東京都下滝野川の奥にあった原始アパートとそこの住人とが取扱われている。……実は私も蝙蝠館の一員だったが……」とある。巣鴨新田からこの蝙蝠館(中野アパート)に移ったのはいつのことか?
☆上記『マネキン・ガール』には、「十月には牧野信一主宰の『文科』が春陽堂から創刊されまして、薫も、坂口安吾、三好達治、井伏鱒二、川上徹太郎、小林秀雄、稲垣足穂、瀧井孝作、堀辰雄、上林暁といった方々とともに寄稿することになりました」(p.52〜53)とある。昭和6年か。
12月 ★「青い箱と紅い骸骨(承前)」<文科>[2-231]
12月 ★「机上同盟成立奇談」<週刊朝日>[→「真夜中の会話」1-373]
12月 ★「怪談」<前線>[12-242]
クリスマスの前日
★クリスマスの前日、私はトゲ抜き地蔵の通りの鳥屋にぶら下がっている雉を眼にして、それを料理して貰って持って帰った。……これが祟ったのであろう。のち程、懐手をしたまま階段を駆け下りようとして、丸味のついたかどで辷った。……それからの一週間は、同じ姿勢を取ったまま、勿論着のままで、寝返りをすることも出来なかった。(「滝野川南谷端」『大全6』p.599)
☆これは「蝙蝠館」すなわち「中野アパート」でのこと。
?
★いつか江戸川乱歩が、湯島の待合で、法律家の浜尾四郎と鳥羽の岩田準一を引き合わしてくれた夜、私は白兎のデッサンを懐に入れて持って行ったが、そのままになっている。たぶん乱歩が持っている筈である。(「滝野川南谷端」『大全6』p.608)
☆この「白兎」とは、中野アパートに出入りしていた年増少年。したがって、乱歩たちとの会合は、中野アパート時代ではなかろうか。同様の記述が「幼きイエズスの春に」(『タルホ=コスモロジー』p.229)にあるが、会合当日に着て行った「じゅばん」について「十年間の苦楽……云々」の言葉がある。しかし、当該箇所はおそらく昭和19年1月28日のことであろうから、10年前というと昭和9年で明石帰省中のことになり、会合時期に矛盾が生じる。
★『男色文献書誌』の編者、岩田準一に初めて逢った機会に、先方からネリギについて質問されて、私は、「それはヒマワリの根を乾して、粉にしたものだ」と返事をした。(「「後庭花」雑話」『全集11』p.390)
☆この話も、同じ折のことか。
?
★私は岡本梅林近くの谷崎潤一郎をたずね、夕方から潤一郎、丁未子さんと共に阪神電車上筒井終点のアカデミーという酒場へ出かけ、「須磨行き終電車だ。早く早く」という潤一郎の声をうしろに聞いて、動き出した市電に飛び乗ったことがある。うとうととしたと思ったら、もう須磨だった。なるほど、こんなこともあるんだなあ!(「酒につままれた話」『全集11』p.272)
☆谷崎と丁未子は昭和6年4月に結婚し、翌7年12月にはもう別居しているので、この話はその間のことになる。祖父母の死で明石に帰省していた昭和6年の初夏までの間か、あるいは翌昭和7年1月に明石に帰省して以降(12月までの間)のことだろう。