1月 ★「うすい街」<セルパン>[→「薄い街」2-246]
1月 ★「ブレリオ式の胴」<ROMAN年刊小説(「詩と詩論」別冊)>[→「飛行機の哲理」2-204]
1月 ★『明治・大正・昭和文学全集 第55巻 現代作家篇』《春陽堂》
収録作品(2編)「天体嗜好症」「青い箱と紅い骸骨」
1月18日
★私は先日ちょっとした負傷をして今日まで二十日間、未だもって歩けないでいるような事からしてその何処にでもいるという死を一層考えてみた。(「英吉利文学に就て」『星の都』p.142)
☆「英吉利文学に就て」の末尾には「1月18日」の日付があり、この作品は「新文芸時代」昭和7年2月号に発表されているので、この年の1月のことであろう。なお、この「負傷」は中野アパートの階段から滑り落ちたことを指しているのではなかろうか(「滝野川南谷端」<『大全6』p.599>、「鉛の銃弾」<『鉛の銃弾』p.111>参照)。とすると、負傷したのは前年昭和6年12月末ということになる。たしかに、「滝野川南谷端」にはクリスマスの前日に雉を食べたのが祟ったのだろうとあるから、時間的経過のつじつまは合う。ただ、「二十日間」(「鉛の銃弾」では「半カ月」、「滝野川南谷端」では「1週間」)を経た1月18日現在、「未だもって歩けない」状態だとあるので、下記の「1月中旬」の都落ちとは矛盾が生じる。
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★中野アパートは私が二回目の帰省中に焼けてしまった。これで、田中啓介が亡くなる十日前に、江古田の療養所のベッドから預かってきて、押入の隅に保管してあった詩文集『モル氏の酒場』は灰になってしまった。(「滝野川南谷端」『大全6』p.608)
☆この「二回目の帰省中」というのがいつのことか不明。おそらく「中野アパートに移ってから二回目の帰省中」ということではないかと思われる。その後、中野アパートに戻って住んだのだろうか。あるいは、この二回目というのはひょっとして明石への都落ちのことを指すとも考えられる。その場合は、中野アパート焼失は明石で聞いた(便りなどで)ことになる。
☆『マネキン・ガール』(p.61)によると、丸山薫夫妻は昭和7年4月に滝野川アパートを引っ越しているようだが、火災のことには触れられていない。したがって、火災はそれ以降のことであろう。
明石に帰省
1月中旬
★四十数枚の(「赤い鶏」の)原稿を(文藝春秋の)佐佐木宛に送付してから、書き落としたことが続々と頭に浮んできた。このメモを取った手帳を懐ろにして、私は生涯における何回目かの西下の夜行に乗った。数えてみると、今日まで自分の東海道線往復は都合八回である(京都へ越してから三回が追加されるが、これは京都名古屋間である)。それは一種の都落ちであった。以後、昭和十年(11年の誤り)末の最後の上京に至るまで、自分は約四年間明石にとどまることになったからだ。……その夜は沼津署の刑事部屋で外套をかけて貰って過し、翌午前中は調書を取られて……、一月中旬のこととて、終着駅の神戸へ着いた時は真暗であった。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.96〜97)
☆この「1月中旬」と、上記「1月18日」付の記事との兼ね合いは?
★自分は三十すぎの時、西下の急行列車の食堂で上毛新聞某と名乗る男と喧嘩をして、浜松署に一晩お世話になったことがある。翌午前中は調書を取られ、こうして遅れおくれて夜の神戸駅のフォームに降り立った。事件のさいちゅうに紛失した大事の手帳を遺留品係りの窓口に求めて、それがなかったことからむしゃくしゃして頭の髪をひき毟った。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.19)
☆ここでは沼津署が浜松署になっている。
2月 ★「英吉利文学に就て」<新文芸時代>[1-491]
2月
☆萩原氏の年譜には、「2月、明石に帰省」とある。
2月21日
★昭和七年二月二十一日の夜も十二時をすぎて、私は一少年(数学好きの少年。「石榴の家」に登場する少年のモデルか)と肩を組んで、冷たいレモン形の月の下、おそろしく凍てついた坂路を影法師と共に、明石の北郊から町の方へ帰っていた。……彼との友誼は一年八カ月しか続かなかった。正確には二月に始まり、夏休みを挟んで十一月中旬までであった。あとは彼の病床への日々の見舞いということになっている。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.127)
★大陸の夜明け前、彼我の射ち合いのさいちゅうに、三人のソルジャーが爆薬を詰めた太い竹筒を抱えて飛出し、敵の鉄条網の下へおし込んだ年のことである。この春頃から私は数学好きの中学生と知り合って、毎日のように、ピタゴラスの定理や天文学上の「三体問題」について語り合っていた。(「「非ユークリッド」との因縁」『全集11』p.366)
☆上海事変における「肉弾三勇士」のこと(昭和7年2月22日)。
3月 ★「夜の好きな王の話」<文科>[2-292]
4月 ★「リビアの月夜」<新青年>[2-252]
☆「『リビアの月夜』がやはり「新青年」発表で、荒井君の挿絵が付いている」(「滝野川南谷端」『大全6』p.605)
5月
★ある夜十時すぎに、私はO夫人の案内で、五月闇の中を矢車草を採りに行ったことがある。そこは明石の西外れにある無量光寺の裏畠で……その夜の夢がすなわちこれ(「矢車草」)である。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.100〜101)
☆「矢車草」が昭和7年の12月に発表されているから、この話はこの年の5月のことであろう。「美しき穉き婦人に始まる」(『多留保集1』p.211)に同様の記述あり。
☆「美しき穉き婦人に始まる」(『多留保集1』p.208)に、「五、六年前、まだ女学生めく彼女がいまの夫の許へくる折にどんな冒険譚があったか、私はだいたい知っている」とある。いつの時点をもとにしているかは不明だが、この明石帰省後のいつかの時点から「五、六年前」に小川夫妻は結婚したのであろう。「蜩」(『多留保集1』p.163)に、「足掛七年が経っています」「六年前の晩秋」などの語句があるが、これは夫妻の結婚当初のことを指しているのではなかろうか。
8月 ★「電気の敵」<新青年>[2-300]
☆「私の『電気の敵』が「新青年」に発表されたのはこの頃で、各ページの下方には荒井義毅君のカットがついている」(「滝野川南谷端」『大全6』p.605)とある。この荒井君は中野アパートの住人。このことから、「リビアの月夜」と「電気の敵」はタルホが明石に帰省後に発表されているが、ひょっとして書かれたのは帰省前、すなわち昭和7年「1月中旬」以前ということも考えられる。
8月 ★「お化に近付く人」<文芸汎論>[→「お化けに近づく人」2-263]
夏
★その夏私は本堂の障子を張替えたが、この一週間じゅうに台所の揚板の下に溜ったビールの空壜は百五十本であった。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.212)
☆この話は何年のことか不明。ただし、このすぐあとに「そして続く数年間に、私はどれくらい和尚のいわゆるおみきをきこし召したことだろう」とあるから、この明石時代でも初めの頃であろう。
9月 ★「赤い鶏」<文藝春秋>[→「赤い雄鶏」2-270]
秋
★昭和七年の秋、(数学少年は)運動会から間もない日の午後おそく、疲れて帰って風呂から上ったとたんに喀血した。そのまま一カ月半を床に就き……(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.127)
☆11月中旬のことか。「菟」(『大全4』p.73)では、「彼女」が倒れたのは、「11月末」となっている。
★秋の運動会があって間もなく、少年は喀血に見舞われて病床の身となった。そこは彼の亡くなった母の里の離れ二階で、ちょうど私の窓と向かい合ったところであった。(「「非ユークリッド」との因縁」『全集11』p.366)
12月 ★「矢車草」<文学>[→「矢車菊」2-309]