1934(昭和9)年 33歳 父の死、古着屋を営む?



1月 ★「螺旋街」<文芸汎論>[12-249]

?月
★お寺では私は毎日、風呂焚きを受持っていた。……ある午後、湯かげんを見るために何回目かに裏口を出てみると、そこの黒光りのした広縁の上に、A2型、白クロース張、天金の『非ゆうくりつど幾何学』がほうり出されているでないか!(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.129)
☆同P.130に、「(数学)少年は既に前年の十一月下旬に……亡くなっていた」とあるので、この話は昭和9年か。
☆「A2型」は「A5判」のことであろう。『全集』版では「A5型」と訂正されている。

★次の日の午後、何気なしに庫裡を抜けて裏へ出てみると、そこの縁側に、麻表紙、天金のガッチリした『非ゆうくりっど幾何学』がひらいたページを上にして載っけられているではないか!(「「非ユークリッド」との因縁」『全集11』p.367)

★彼(父)が世にあったまでの費用は、死の前日彼の云いつけによって私が某所から受取ってきた金銭によってやっと支払われた。……六甲道の骨董商人の許まで出かけた午前、景色がどんなに映じたかを私はよく憶えている。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集』1,p196〜197)
☆同様の記事が「白昼見」(『大全4』p.185)、「地球」(『大全4』p.262)に。

父の死
5月1日
★翌五月ついたちの明方、……そして数刻後に、一八七〇年生れの贋紳士は、他愛のない、覚えず吹き出さずには居られぬ惨めなかたまりになってしまった。……六十六歳であった。(「父と子」『大全4』p.172)
☆1870年生まれだと、1934(昭和9)年は、数えで65歳、満で64歳となる。
☆「地球」(『大全4』p.250)に、「羊助はこの少年を見込んで、彼の娘よりは一つ年下であったが、その十八歳になるのを待って、養子に迎い入れることにした」とある。これによれば、父の生年を1870年とすると、父母の結婚は1888年ということになる。翌1889年に姉が生まれたとすれば、1900年生まれのタルホとは11歳違いとなり、何度も出てくる「10歳以上年の違う姉」という記述とだいたい符合する。なお、同書同頁に、父は「三男」とある。また同書p.252には「董生は、姉が小学校を卒える頃に生れた」とある。

5月2日
★その第三回目がわたしの父でした。これは(数学少年の死の)次の年の五月二日のことです。(「白昼見」『大全4』p.183)
☆ここでは父の死が5月2日となっている。

★わずか十日間床に就いたばかりで父は死んでしまった。おとがいに出来た腫物のためであったが、……(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.196)
☆同書p.199にも、父は「六十六の生涯を閉じてしまった……」とある。

★こんな花見の或る日、董生の父は町の床屋で、目にとまらぬ程の剃刀疵を貰ってきた。……床についてちょうど七日目の夜明け方に、彼は、たあいもない骸に一変してしまった。(「地球」『大全4』p.262)
☆この「花見時」は、この年のことであろうか。

5月 ★「象徴的表現」<『日本現代文章講座4 構成篇』、厚生閣>[1-496]
☆6月か?

初夏
★ともかく近所の医者へ行くことしたが、診て貰うなど自分には二十年振りの話であった。初夏の正午近い日差を受けて眼にまぶしいアスファルトの上を行き交うている自転車、人々、一切が幻燈のようであった。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.206)
☆何年かは不明。ただ、このあとの医者の言葉に「父君はそうでなかったのに、あんたはいつからこんな酒呑みになったのか」とあるので、父の死後のことか。同様の記述が「白昼見」(『大全4』p.189)に。ここからは、父の死後、数日のことと思われる。

6月 ★「東洋更紗」<羅針>[13-58、1-377]

七夕頃
★僕が大抵いる所はこのお寺、明石の西はずれ、海辺近くにある月浦山無量光寺です。寺男でも修業でもありませんが、これで三年になるからお寺の用事も大体判って来ました。……二三日したら本当の七夕ですね。(「明石から」『星の都』p.176〜177)
☆「明石から」は「詩法」昭和9年9月号掲載なので、「七夕」はこの年のことか。
☆「三年」は、「足かけ三年」の意。

7月 ★「夢の中の紳士」<現代>[13-59]

7月 ★「ココア山の話」<前線>[→「ココァ山の話」2-315]

8月 ★「真面目な相談」<新青年>[12-256]
☆この七色のファンシー・マッチのアイデアは、すでに「新青年」の昭和2年2月号(『全集13』p.422)で一度漏らしている。「最近には急に戸主になったので一そう真剣にやらなければならないハメに陥っている……」とあるのは、父親が亡くなったことを指しているのだろうが、このアイデアが商売になるかもしれないという考えには、案外「本音」の部分もあるかもしれない。
☆「「新青年」発表作品への回顧」(『全集12』p.425)には、「北海道の某氏が、出資してもよい、人を差し向けようかという手紙をくれた」とある。

8月 ★「空間放語」<国民新聞、8月15日−18日>[1-501]

9月 ★「明石から」<詩法>[12-258]
☆この中に、「近頃は福原、竹中さんなどがいらっしゃいます。先日、山村、福原、竹中、それに僕がお酒を飲んでいたら……」とあるのは、福原清、竹中郁、山村順のこと。

9月21日
★其の後、武石記念館は、あの四天王寺の五重塔を倒した大台風の時(昭九、九、二一)に、武徳殿と共につぶれてしまったことが明らかにされた。(「武石記念館」『全集12』p.386)
☆昭和9年の室戸台風。

古着屋開業?
10月初め
★十月の初め、……この駄菓子屋の店先に、その朝、私は一人の別な乙女を見かけた。十四、五歳だった。……何故にそんな店(古着屋)を開いたかという理由は、思うにあの秋のあさ少女を見たからなのである。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.192〜194)
☆「美しき穉き婦人に始まる」のモデルとなったこの少女に遇ったのは、この年のことか?

(ひさご屋は)「……一任してくれれば年末には開店費用をきっと取戻してみせよう」その後二、三回顔を合わすうちに、私の心は動いた。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.219)
☆この話が何年か不明。古着屋を始めたのは何年か。この「年末には云々」、および同書p.224に「万引きを用心し、貸売さえしなければ開店費くらいは年末には回収された筈だ」とあることから、この「年末」以前に店が始められていたと思われる。また同書p.223に「ひさご屋という気紛れ男がいたからこそ、ともかく二年の月日を誤魔かす下地が作れたのだ」とあることから、父の死後、店が昭和11年まで続けられていたとすれば、昭和9年中に始められていたということになる。

★この折に大型ワットマンを三枚水張りした趾が、玄関の戸棚の戸の裏側にそのまま残っているのを、十五年ものあとで発見した。住いの表側を、古着屋に改造した折のことである。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.343)
☆「この折」とは、大正9(1920)年秋の二科に出品した「空中世界」と、完成しなかった「相生橋」「夜の散歩の記憶」を描こうとしたときのこと。

O(小川)夫人との散歩
10月
★奥さん(小川繁子)は、手を引いたとは云いながらも、夜分にはやってきて、商品をたたんだり、私が時々気紛れに記入している帳面を調べたりした。それはなに云うともない愉しい十月であった。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.226)
☆この記述に続く、奥さんと星座を見上げながらの散歩は、のちに『弥勒』に挿入された重要なエピソード。
☆この秋からきちんと星座を覚えようとして、大体の見当がつくまでに、丸一年かかったと言っている。
☆この記述の後、「第二部」として「ひさご屋」の話が続くので、古着屋を始めた年のことか?

12月
★私には女性なるものが如何なる役目を果し、何のために重視されるのか、その意味が星繁き幾夜にあって首肯されるようであった。……そのように不思議な十二月であった。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.228)
☆p.226から続く奥さんとの星空の下の記述であるが、「十月」が、ここでは「十二月」となっている。

大晦日
★大晦日が近づくと客足が増した。……でも品々は半減し、年末の諸払いには差支えがなかった。残金があった。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.228)
☆この年のことか?


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