1936(昭和11)年 35歳 最後の上京



正月
★このお終いの年の正月には、もはや誰一人としてわたしらの敷居を跨いではくれませんでした。(「白昼見」『大全4』p.193)

正月
★この同じ年のお正月に、彼女(小川繁子)は東京の親戚へ遊びに行って風邪をこじらせ、父君が迎えに行って連れて帰ってきたが、以後彼女はベッドに横たわる身となった。静養中の無聊をまぎらわせる一助に、ひとつには批評を乞いたい意もあって、私は活字文を二、三見せたが、これがきっかけになって、マキニカリスに入れるべき作を彼女に決めて貰おうと思ったのである。自分の小学一年第二学期以来二十六、七年に亙った明石生活(明石を根拠地にした時代)がそろそろ限界に近付いていたことがあった。小川夫人は浄書にそなえて、「ヰタ・マキニカリス原稿用紙」と欄外に入れたのを千枚作ってくれた。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.23)
☆「この同じ年」がいつを指すのか不明。前頁に「昭和10年頃」とあるが、ここは前段の、彼女が『ヰタ・マキニカリス』の選定をしてくれた年のお正月、という意味であろう。「美しき穉き婦人に始まる」(『多留保集1』p.247)では、「火事の直後に、奥さんが彼女のきょうだいに逢う目的の下に上京した。去る夏、私が和尚に荷担して見合わさせた筑紫への帰省の代償だったから、彼女は我を通して東京行を実行した。子供連れだったから疲れが重なり、あちらに着くなり床に就かねばならなかった」とある。

1月 ★「新版一千一秒物語(II)」<児童文学>[→「一千一秒物語」1-3]

1月中旬
★和尚は一月中旬に上京して妻子をつれて戻った。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.248)

2月 ★「郁さんの事」<文芸汎論>[1-504]

2月 ★「新版一千一秒物語(III)」<児童文学>[→「一千一秒物語」1-3]

3月 ★「兎の巣」<羅針>[12-268]

3月 ★「新版一千一秒物語」<児童文学>[→「一千一秒物語」1-3]
☆ナンバーないが(IV)

4月 ★(津村信夫詩集『愛する神の歌』の広告文)《四季社》[13-423]

4月 ★「新版一千一秒物語(V)」<児童文学>[→「一千一秒物語」1-3]
☆未見

5月 ★「私の散文詩」<児童文学>[「仙境」→「夏至近く」1-73、「犬の館」1-71]
「1 仙境」「2 犬の館」の2編を収載

5月1日
★母親は気疲れで床に就いていたが、こんどは恢復の模様がなかなか見えなかった。その由をお哥さんが知らせたので、姉がやってきて、泣きじゃくっている老母を追い立てるようにして、大阪へ連れ去った。父の三周忌になった。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.254〜255)
☆この文脈からは、母親が大阪の娘(姉)のところへ引き取られたのは、三周忌の少し前のことか? 父の死亡が昭和9年5月1日とすると、三周忌は昭和11年5月1日となる。

★未だ元の住いに居た頃でしたが、母はからだを損ねて一時姉の許に引き取られたことがあります。連れて行かれる晩、信玄袋一つを下げた老母は子供のようにしゃくり上げていましたが、ひと月も経たぬうちにけろりとしたふうで戻って来て、……(「白昼見」『大全4』p.194)

父の三回忌
★父の三回忌がやってきた。その夏の初めに、董生の家の目立たぬ隅に仮執行の札が貼られた。老母と息子は、横町の履物職の離れ六畳に、わずかに残った調度と炊事道具を運ばねばならなかった。──この雪隠わきの部屋から、一ケ月後に、すでに落した頼母子講の掛金や、飲屋米屋からの催促がやかましい折から、「こんな所にいつまでもおられるものか」と云って、董生の母は、盆石道具をくるんだ風呂敷包みを片手に、あたふたと出て行った。行先は、その輿入れの時に臍繰を祝ってやったという孫娘の許である。……月の終りに、……董生は、薄暗くなってから停車場に飛び込んだ。東京行の切符と急行券を購うと、あとに金二円が残った。観艦式のために神戸沖に集合した軍艦のサーチライトの光芒が、行手の雲を焼いて入り乱れている宵であった。(「地球」『大全4』p.262〜263)
☆父の三回忌から明石脱出までの経緯が要約されている。5月1日の三回忌の後、ここでは「夏の初め」となっているが、自宅の仮執行。履物屋の離れには母親は1ケ月いたことがわかる。

★次の日、マルガレエテ(美しき穉き婦人のこと)の兄がやってきて、「明朝引っ起すから、ついでがあったら遊びにきてくれ」と云って、紙きれにアドレスを書いて行った。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.259)
☆彼女が神戸に引っ越して行ったのはいつか? 「次の日」とは雷が鳴りはためいた豪雨のあった明くる日のことなので、季節としては梅雨明け期の7月ごろとも考えられる。
☆「夢野抄」(初出)25日の項には、「小夜ちゃんとは五ケ月遅れて僕もこの土地を売(去?)る訳だ」とある。タルホが明石を去ったのは10月25日なので、逆算すると5月頃となる。

夏至近く
奥さんは寺の用事が済まないと出てこられなかったから、彼女と私が仕入れに出かけるのはたいてい夜だった。それは思い出の夜々である。何故なら生涯に再び繰返されるようなことではないからだ。……たぶん私の心の中に、いつかはこの景色も見られなくなってしまう……それはもう間近にきているという自覚があった故か? 夏至近い夜、丘々を埋めた燈火はこちらの移動に連れて、中間の物象に遮られて瞬き交していた。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.236〜237)

★当時私は明石駅前通りに古着屋を経営していて、日が暮れてから、(店の方は番頭に一任して)兵庫西宮口の問屋まで、O夫人といっしょに仕入れに出掛けることがあった。そんな晩に、汽車(ディーゼルカーはまだ無かった)の窓から、鷹取山麓、月見山方面の灯入り夜景を眺めて思い付いたのである。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.112、『全集11』p.477)
☆これは上の記述と同じ内容を指している。
☆『コスモロジー』に出てくる、「夏至の夜の夢」これも「夏至近く」の題で「旗魚」に発表された……は誤りで、「仙境」の題で「羅針」に発表された、と『全集』版で萩原幸子氏により訂正された。


★最後の夏であった。それでも五、六回は私に海水浴の機会が与えられた。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.237)
☆この「最後の夏」の記述は、O夫人との「夏至近い夜」の後に置かれている。この季節の推移が同じ年のこととすると、「夏至近い夜」は同じ昭和11年ということになるが、仮執行まで間がない時期になるので、あるいは前年昭和10年のことか?

8月 ★「新版一千一秒物語(VI)」<児童文学>[→「一千一秒物語」1-3]
☆最終回

自宅の仮執行
8月
★「三回忌さえ済んだら、ええということや」屡々母親は洩らしていましたが、これは何事を指したのか、ともかく家そのものでなかったことは確かでした。三年目の八月になった時、わたしと母親とは三十年間住み馴れた住いを明け渡さねばならなくなったからです。(「白昼見」『大全4』p.193)
☆3回忌が済んだ年の8月ということであろう。この8月は仮執行のことを指すのであろう。

★その翌日執達使がやってきて、此辺がいいでしょう、なるべく人目につかぬようにしておきますと云いながら、欄間の上方へ仮執行の札を貼って行った。(「美しき穉き婦人に始まる」『多留保集1』p.258)
☆仮執行を受けたのが8月ということであろう。「愚かなる母の記」(『多留保集1』p.185)に同様の記事。

★私の家の欄間の後ろ側には既に仮執行の札が貼られていた。こんなにして毎晩のように飲んでいるビールだって、正直な所、あと一週間は続かない筈だった。和尚は云い渡した。「君もそれまでだと思う。今後駅前辺りでどんな噂を聞こうとおれは知らん。好きなように遣り給え」。私が曾て知っている最も寛容にして優雅な婦人でさえも、私の前でこう云ったものだ。「もう一ぺん信用を取戻してごらんなさいな」(「北落師門」『大全4』p.111)

★二十余年が経過して、僕は、表戸を鎖した家の中にひとりぼっちであった。二階の欄間には執達使の紙片が貼られていた。いまは残り数本になった軸物の中に、月と猪と秋の七草をあしらった、細かなタッチの彩色画があった。……だからといって「応挙だなどとは滅相もない!」──そんなことを云いながらもひつっこく日参する商人に負けて、とうとう先方の云い値で譲らねばならなくなった時、僕は、この掛軸が、あの旅廻りの奇術師から贈られたものだということに、気が付いた。(「雪融け」『大全5』p.171)
☆奇術師とは贋天一一座の座長。小学生のとき、一座のお姉さんに夢中なった。

盂蘭盆
★盂蘭盆の灯が本堂に点っているのを見たい、忠郷がそう洩らしたので、いっしょに出掛けた晩、……ちょうど旧暦の十五夜と一致し、それゆえに松の梢に懸かっているまん円い月を見て、薄靄に潤んだその赤いお月様に向って、寺への出入も此辺で止そう、そうあるべきだ、と内心に誓ったのであった。(「北落師門」『大全4』p.112)

★そこでいよいよの場合となり、以前この裏に住んでいた履物職人が、いまは近所の表通りに店を開いているのに、人を介して頼み込んで、当分その離れの六畳に母子二人が寝泊まりさせて貰うことになったのですが、此処に移ると間もなく、二口あった頼母子講の掛け残り、その他、わたしがあっちこっちのカフェーや飲屋に作っている借金の催促の前に居たたまれなくなって、母親は、大阪郊外に住む孫娘夫婦の許へ、女中代りという名目の下に発ってしまいました。(「白昼見」『大全4』p.193〜194)
☆これは自宅が仮執行を受けた後であろう。
☆「夢野」(『大全4』p.115)に、「この二ケ月間寝起きした下駄屋の離れに帰って」とある。8月に自宅が仮執行を受け、下駄屋の離れに母親と住んでいたが、母親が孫娘夫婦のもとに引き取られてからは、タルホだけが明石脱出までの2カ月間そこに寝起きしていたことになる。
☆「横寺日記」(『大全1』p.175、『全集7』p.348)に、「其後二十年近い間、円天井における最もドラマチックな区廓は忘却されていたが、ふと気付いて、昔変らぬさそりの主星の燦めきを幾宵かに亘って眺めたのは、家を失って横町の履物職の離れに寝泊りしていた折であった。……今度の上京直前の話で、その頃自分には明日がなかった」とある。さそり座が出ているというので夏であろう。

★私が過去二十五年間の根拠地だった明石を離れようとしていた時期、馴染の野辺や空地に続々と安アパートが建ち、新しいカフェーや喫茶店に荒涼索莫の女どもが見かけられ出して、自分がさすがに移り変る世の味気なさを感じていた頃……(「轣轆」『鉛の銃弾』p.17)


★去年の秋の或日、私は、殆んど忘れていた三日月少女を新らしく思出したと共に、多分その弟妹と云える一群の少年少女に逢った事がありました。……私が晴れた午後、山の手の一角に新らしく出来た回教寺院を訪れたのは、以上の様な動機からなのです。(「新月抄」『全集12』p.290)
☆「新月抄」は昭和12年12月「むらさき」発表なので、この年のことか?
☆「三日月少女」とは、池内舞踏場時代にダンスを教わりに来た回教教会学校の少女。
☆この「新らしく出来た回教寺院」とは、神戸市中央区中山手通りに昭和10年に竣工した「神戸回教寺院(神戸ムスリムモスク)」のことだろう。
☆「夢野」には、この話は出てこないので、それより前のことか?

秋も深まる日
★十五年が経ち、この夏場に、いまは普通の医学士に輿入して既に二人の母となった彼女(Bのお嬢さん:伴時子)が、海辺の町へ避暑に来ていた。……昔馴染の夫人去って秋も深まる日、董生は上京をいまだに躊躇しながら、……(「父と子」『大全4』p.174)
☆この「十五年」は、彼女と観世宗家との縁談が破約になってから、という意であろうが、それがいつかは不明。また、この文脈は父が亡くなった後のことであるが、この「秋も深まる日」は、「上京をいまだに躊躇しながら」とあるので、明石脱出の年の昭和11年のことか?

晩秋
★この(『ヰタ・マキニカリス』の)原稿の六百枚余りは、「最後の上京」の年であった昭和十年晩秋までに浄書を終えていた。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.65)
☆「最後の上京」の年は、昭和10年でなく、昭和11年である。明石脱出の10月および続く神戸滞在の1か月まで含めるとすれば、この浄書は「昭和11年晩秋まで」としても成立する。

?月
★『ヰタ・マキニカリス』七百枚の浄書が終って、第一書房の春山行夫宛に送られた。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.25)

★春山宛に送ってから、その原稿のカタをつけてくるというのを名目にして、私は小学初年二学期以来の根拠地であった明石を脱出した。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.66)

★只、今日まで書いてきたものの中から差支えなしとされる作品を選んで整理して置こう、という考えが起きたのです。この仕事に二年程かかって、仕上った約六百枚の草稿が九段のさる出版家の許に送られていました。……東京へ行って金を借りてくる、と云ってわたしは汽車に乗りました。(「白昼見」『大全4』p.202)
☆『ヰタ・マキニカリス』の編纂・作品改訂に2年ほど要したとあるが、「兎少年」の生前の日記に「ヰタ・マキニカリス」の言葉があったとあるから、明石に戻った頃から構想はあったのであろう

★私の胸は詰っていた。私はいよいよ二、三日後に迫った海辺の町への訣別を感じるのだった。姉の為にはサラサーテ、弟のためには、ムソルグスキーの『裸山の一夜』のレコードを幾度か聴いた座敷の前には、灯を受けた雁来紅が切紙細工のように突立っている。そして虫すだく正面には、さそりも射手も、ヘロデ王の幕営を想わせる白い銀河と共に西方におしやられて、木立がくれの島山影の上にぴかつく南の魚があった。(「北落師門」『大全4』p.113)
☆雁来紅はハゲイトウ。「虫すだく」などから、季節は夏から秋、9月か。
☆明石脱出直前の様子が「白昼見」(『大全4』p.194〜199)に。

★あすは頼母子講の掛金を渡すと約束した日だ。そうだ、今夜じゅうにこの町を去ろう。蒲団だけは神戸の方へ廻すように、これから古物商へ行って頼もう。(「白昼見」『大全4』p.199)
☆おそらく、これに続くのが「夢野」の25日の記述であろう。

明石から神戸へ
10月25日
★いま再び西に向って取って返している。けれども往復はもうこれ以上繰返されないだろう。昨夕、神戸へ出る折、僕は車内で靴紐を取換えて、古い緒を一ノ谷の窓外へ投げ棄てた。身代りの心算だった。……この二ケ月間寝起きした下駄屋の離れに帰って、古物商Fを呼ぶことにする。(「夢野」『大全4』p.114〜115)
☆「昨夕、神戸へ出る折」とあるから、おそらく24日の夕方神戸へ出て、O(初出では岡崎)に2、3週間泊めてもらう約束を取りつけて、その晩は神戸に泊まった。明くる25日は明石(下駄屋の離れ)に戻って古物商に荷造りを頼み、その晩いよいよ明石に別れを告げ、再び神戸へ出た、という順序であろう。
☆「夢野」(『大全4』p.114〜)の日付は、10月25日〜11月5日までとなっている。ただし、初出の「夢野抄」(昭和12年7月、新潮)では、それが9月25日〜10月5日となっている。そのあいだに、『山風蠱』(昭和15年6月、昭森社)、「作家」(昭和31年10月)の改定があるが、いつの時点で日付が変更されたか? 「夢野」(『大全4』p.115)に、2カ月間下駄屋の離れにいたとあり、それが8月以降のことだとすれば、「夢野抄」の日付は10月25日〜11月5日とするほうが妥当だと思われる。

★こうして、三、四年が経過した。小学一年の二学期から向う二十五年間にわたって馴染んできた海峡の町明石に訣別を告げた日にも、唯一の持物として『非ゆうくりつど幾何学』が残っていた。最後の上京の第一日に、まず下北沢におたずねした萩原(朔太郎)さんを前に、早速「擬球」を語ってみたが……(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.133)

★自分の明石脱出の折の唯一の荷物で、中には数冊のノートと、丸めた原稿と、梶島本の『非ゆうくりつど幾何学』がはいっていた。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.136)

★干蛸は明石に「おさらば」を告げた当日、神戸から迎えにきてくれた友によって初めて教えられたものである。しかもそれはつい先日までの我家の向いの乾物問屋にあった。翌日早速、友人の宅で、固めに炊いた御飯のおかずにしてみた。なぜもっと早く気付かなかったのであろう?」(「明石」『全集8』p.422)

11月5日
★“THINGS TO COME”というのは、片道切符の上京(もう帰るべき家郷がなかったからで、それもすでに十年の昔になる)の直前に、神戸の三ノ宮神社境内の常設館で観た、H=G=ウェルズ原作のフィルムである。(「工場の星」『大全6』p.349)
☆この映画を観たのは、「夢野」(『大全4』p.130)では、「11月5日」となっている。

★私が一等おしまいに小林氏(菱谷文七の本名)に逢ったのは、旧海軍最終の大観艦式が神戸沖に行われ、第一回港祭があった秋遅くである。自分は家郷を失い、もはや帰る場所のない最後の上京にまで追いつめられ、夢野の平岩宅に約一カ月間を過したのであるが、ある午後、広大な夢野共同墓地を抜け、山づたいに二中うらの小林氏をたずねた。(「未来派へのアプローチ」『大全1』p.355)
☆「夢野」(10月25日〜11月5日)には、この話は出てこないようなので、それ以後のことか。

★これより先、神戸もずっと西部の、夢野近くに住んでいる小林義政というバチェラーの応接間で、僕は、シガレットをくわえて卓上のマッチを取ったところ、そこに三ツ四ツ投げ出されていたマッチが、いずれも軸木の上に、ちょうどマッチ箱の大きさの硝子の小片を嵌めていたことがある。戸惑うていたら、「それは使えません」といって、主人は自身のポケットからガラスの嵌っていないマッチを取出してくれた。(「オブジェ・モビール」『全集11』p.90)

★上京の直前に一ヶ月ほど神戸市の西北郊にある夢野という大きな共同墓地に、その片ほとりの二階家に住んでいた。……この夢野時代が峠だった、と彼はいまになって思う。(「世界の巌」『全集7』p.421)

★其の後沿線には家々が建ち詰って来たが、あの旧海軍最後の観艦式のサーチライトと裏山の電飾とを見納めに自分が此の地を去る時まで、煉瓦造りのチャペルと校舎はまだ家並のあいだに隠見していた。(「蘆の都」『大全5』p.191)

★こうしてずるずると一ケ月が過ぎると、もうこの煉瓦横町突き当りの家の誰もが、わたしに対して返事すらしなくなりました。……或るお午まえ、寒い裏山おろしが誓文払の旗を吹捲っている街から帰ってくると、わたしの夜具には、持ってきた折のおおいをかけて、その上から細紐で荷作りがしてありました。これはこのまま売払わるべきであろう、とわたしは考えました。そして須磨にいる金持の友人の家に出向いて、汽車の切符を買うに足りない分を貰い、その晩遅く酔いつぶれて東京行急行列車に乗りました。(「白昼見」『大全4』p.201)
☆神戸の友人のもとに身を寄せてから1カ月過ぎたとあるから、11月下旬であろう。ただ、誓文払は10月20日だというから1カ月食い違うが、それが陰暦10月に行われるのだとすれば、11月下旬でつじつまが合う。「寒い裏山おろし」とあることからも11月下旬のほうが妥当であろう。
☆そして東京行急行列車に乗ったのは、月が替わって「12月上旬」ということになるのだろう。

★骨拾ふ人にしたしき菫かな……ボクは約三十年前、買ったままで抛ってあった文庫本の蕪村句集に見つけたいまの一句を頭に残して、最後の上京をした。(「僕の蕪村手帳」『大全6』p.432、『全集11』p.42)
☆「僕の蕪村手帳」初出は昭和32年。したがって「約三十年前」は『大全』用改訂時(昭和45年)からの勘定か。
☆「夢野抄」(昭和12年7月初出、新潮)には、副題として蕪村の「骨ひろふ人に親しき菫かな」の句が引用されている。

最後の上京、衣巻宅へ
12月10日
★旧臘十日頃に、私は、ほうり放した無尽の掛金の催促に追われて、神戸を逃出して、金二円也をたもとの底に残して衣巻の家へとび込んだのであったが、困憊疲労その極に達し、私の容貌は二三日間はこの世の人とも見えなかったであろう。(「山風蠱が発表されるまで」『全集8』p.230)

12月上旬
★日華戦争が始まる前年の十二月に、僕は神戸から最後の上京をした。西巣鴨新田で窮して、いったん都落ちをしてからはちょうど六年目の冬である。……十二月上旬の息の白い朝、馬込の衣巻省三の住いへ飛び込んだ。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p113)
☆この「都落ち」の真相は判然としない。「西巣鴨新田で窮して」とあるが、実際には新田の後に、滝野川の中野アパート時代がある。
☆「都落ち」は昭和7年1月であろう。
☆「滝野川南谷端」(『大全6』p.609)に、「彼(伊藤整)が多少とも私に関心を示すようになったのは、足掛七年の明石滞在を経て最後の上京をして、馬込の衣巻省三の家にいた時で、それはもう昭和十年の暮のことである」とあるのは、それぞれ「足掛五年」、「昭和十一年の暮」の間違い。

12月中旬
★でも、その年の十二月中旬に、私は東京へ逃げた。馬込の級友の許にころげこんだが、この宿も翌春になると出なければならなくなった。(「神・現代・救い」『全集8』p.319)

12月中旬
★十月になって、私はいよいよ明石脱出という土壇場を迎え、神戸滞在一カ月を経て、十二月中旬に上京、大森奥の馬込の旧友、衣巻省三方へ転げ込んだ。以来十年間、即ち昭和十二年から同二十二年まで、『ヰタ=マキニカリス』は都合十一の出版社を転々した。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.25〜26)

12月
★明石から、続いて神戸から追われて、吐く息の白い十二月の早朝、大森馬込の衣巻省三の玄関へ転げ込んだ頃、……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.119、『全集11』p.480)

★年に一回だから、私の一年間の確実な収入は五十円前後であった。昭和六年にいったん都落ちをして、再度に上京したのが昭和十一年末で、以後太平洋戦争勃発まで自分は年収五十円で過し、それからは昭和二十五年二月まで、年収も月収も日収も皆無であった。(「本ぎらい」『大全6』p.618、『全集11』p.168)
☆この五十円は、「新潮」の楢崎勤が年に1度は原稿を買ってくれたことを指している。「昭和六年」は「昭和七年」の誤り。また、正確には昭和19年11月から20年11月までの1年間、すなわち、いすゞ自動車への勤務期間は月給をもらっているのでは?

上京後数日目
★昭和十一年来、最後の上京をして、馬込の衣巻省三方へ転げこんでから数日目の夜、早くから布団を引被っていた私は、やがて首を出して天井を見ながら、自分にはせいぜい二十枚なのにみんなにはどうしてあんな長い物が書けるのだろうと頭をひねってみて、「そうだ、彼はきっと考えながらぼつぼつと筆を運ぶのに相違ない」と思い当った。自分と云えば何も考えないで一気に書き飛ばし、あとでテニヲハを多少念入りに修正するに過ぎない。こうしてまず「美しき穉き婦人に始まる」という題だけが出来たのである。(「山風蠱の頃」『星の都』p.302、『全集11』p.268)
☆『星の都』『全集』ともに「昭和十一年来」となっているが、「昭和十一年末」の誤植であろう。
☆同様の記述が「白昼見」(『大全4』p.203〜204)に。
☆上京後、九段上の出版社に出向いたと「白昼見」(『大全4』p.202〜203)にあるが、第一書房のことか。春山行夫、長谷川巳之吉?
☆「山風蠱が発表されるまで」(『全集8』p.230)、「タルホ=コスモロジー」(『全集11』p.480)にも同様の記事。


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