1937(昭和12)年 36歳 横寺町・旺山荘へ



1月 ★「真夜中の会話」<児童文学>[1-373]

1月24日〜28日
☆「馬込日記」は、1月24日〜28日の日付になっている。すでに室生犀星とも交流があった様子(犀星とは大正11年神泉時代から知り合い)。那須辰造(不明)、マーブル食堂の服部少年らが訪ねてくる。タルホは衣巻の息子のためにカーチス複葉機の模型作り(模型作りのことは「早春抄」にも)。28日に横光利一のラジオ講演「文学と科学」を聴いている。
☆「白昼見」(『大全4』p.202〜)、「たげざんずひと」(『多留保集5』p.68〜)に同時期の記述あり。

★昭和十二年頃、私は旧友の愛息のために、カーチス式複葉の工作を久しぶりにやったが、この時になって初めて翼布問題が解決した。……銀座うらの材料店へ出向いたら、主人が頭上にぶら下っていた独逸戦闘機を指して、次のようにいった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.570〜571)
☆「私が二十年後に手をつけたカーチス式複葉では、直立四気筒水冷式グリーン発動機を木型で作って、銀ラッカーをかけた」(「同p.574)
☆「自分が手がけた模型の中でとにかく完成したのは、二十年振りに取組んだカーチス式だけである」(同p.578)
☆「このようにお馴染のカーチス式であったが、ともかくもその全体をまとめ上げたのは、やはり二十年間を置いて迎えた機会に於いてであった」(同p.587)

★ある夜、衣巻省三宅へ招かれた一群の中で、石川淳の激越な文学論と、伊藤(整)自身の嘆息ぶりが、僕の頭に残っている。(「わが庵は都のたつみ」『大全5』p.70)
☆この会合は、石川淳の芥川賞受賞より前であろうか?
☆この年4月発表の「石川淳とJUNBAG」参照。
☆石川淳には1928(昭和3)年5月に初めて会っている。(「1928年5月6日」の項参照)

2月5日
★衣巻と室生さんを訪れる……今度の芥川賞は石川淳に決りそうだと云う事を聞かされる。立原(道造)氏、昨日軽井沢から帰ったと云ってやって来る。(「早春抄」『星の都』p.178)
☆「早春抄」は「文芸懇話会」昭和12年3月号掲載。すなわち、同年2月5日から9日までの出来事を日記風に記す。「田端時代の室生犀星」(『大全6』p.610、『全集11』p.174)に、「もう一回、それは馬込時代の話になるが、「美少年は君、ホータイをするものだよ」と彼から聞かされて、この時にも降参した」とあるが、この頃のことか?

★「早速その君の古着屋の話とやらを書いて、二百金懐にするんだね!――いや失敬」こう云って室生さんが、野路の曲り角で向うに去って行ったのは、昭和十二年の早春であった。私は衣巻省三と連立っていた。(「山風蠱が発表されるまで」『全集8』p.230)
☆これは、「早春抄」の2月5日の項にも似たような記事があるので、同じ日のことであろう。

★あの冬、衣巻宅の近所の慈眼山に住んでいる室生犀星が、僕について云った。「苦労が遅すぎたワイ」(「わが庵は都のたつみ」『大全5』p.73)

★室生犀星に連れられて徳田秋声の家におじゃました晩、主人は「羅針」で見た「犬の館」を持ち出し、……(「タルホ=コスモロジー」『全集11』p.476)
☆この話もこの頃のことか?
☆『タルホ=コスモロジー』では「犬の館」の掲載誌が「旗魚」となっていたのを、萩原幸子氏によって『全集』版で「羅針」と訂正された。

★こうして文春の十年祭だか十五年祭だかが来た時、(ちょうど当日に芥川賞を貰うことになった石川淳が切符をくれたので、私は衣巻省三と打ちつれて会場へ出かけたのであるが)「見よや菊池の」とか、「この菊池」とかレフレーンのついた佐藤春夫作詞の歌が楽隊で鳴っていて、先生がいつのまにか文春の喇叭卒に成り終っていることを、私は知ったのだった。(「佐藤春夫を送る辞」『大全6』p.539)
☆衣巻方に寄寓中のことと思われる。なお、この文章の後に、「そればかりか彼は芥川賞銓衡委員にもなって、ある時など投票を前もって覗いたということまで、明石の私へつたわってくる始末である」とあるから、上京前の明石時代にも東京の情報は入ってきていたようである。同p.542に、「私が破門になったことには、例の「文藝春秋の喇叭卒」及び「佐藤先生は田舎貴族で、東京へ家を建てに来た」が祟っているが、……」とあるのは何年に書かれたものか? 同頁にある「「理由は云わぬ。もう逢わないことにしようではないか」先生の門前で面と向かってこう云い渡された時、……」とあるのは、つまりそれが掲載された以後ということになる。
☆文藝春秋創立は1923年1月なので、15年祭は1938年1月では?
☆『全集12』(筑摩書房)に初めて、「道草の大家 佐藤春夫」(「日本文芸新聞」、昭和15年4月)という文章が掲載された。この中に、「佐藤春夫は文藝春秋の喇叭卒である」という記述がある。

3月 ★「馬込日記」<文芸>[7-138]

3月 ★「早春抄」<文芸懇話会>[12-269]
☆ここに登場する人物は、上記のほかに、明石三郎、梅木米吉、真鍋元之、城左門、岩佐東一郎、笹沢美明、そして佐和ちゃん。
☆この中で、城左門と岩佐東一郎は雑誌『文芸汎論』を主宰。タルホは昭和8年から10年頃までに「MAGIC BOX」「螺旋街」「空の寺院」「時計奇談」などを『文芸汎論』に発表している。
☆笹沢美明は詩人、作家・笹沢左保の父。
☆最後に出てくる宮本武蔵の言葉は、当時、吉川英治が朝日新聞に連載(昭和10年8月〜14年7月)していた「宮本武蔵」からであろう。


★馬込村の九十九谷の径を歩いていた時に、菫の匂いがする独逸の哲学者が彼の頭に甦った。あの三冊揃いの青表紙の本をこんな春の日に読んでみたいものだ、と彼は思った。(「世界の巌」『全集7』p.425)
☆ショーペンハウエル著『意志と現識としての世界』(全3巻、姉崎正治訳、博文館)

★二十余年が流れた。ある春の午後、私は馬込村の九十九谷を歩いて、堀割のあいだの道に差しかかった。両側は赤土が露出した崖で、その上には穂の出揃った青麦が並んでいた。ここから上向きに写真を撮って、麦穂の上方に日野大尉のライト式飛行機を仰角的に置くのはどうであろうか、と考えてみた。その写真は引き伸ばして、セピアに焼き付けらるべきであった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.618)
☆「二十余年」とは武石墜死(1913年)からを指す。すると衣巻方時代のことであろう。

4月1日
★今日は、ヨーロッパへ飛ぼうとする飛行機の命名式が行われる日だ。(「格子縞」『全集12』p.277)
☆これは朝日新聞社の飛行機「神風号」のこと。この日命名式が行われ、4月6日にロンドに向けて東京を飛び立ち、飛行時間の世界記録を樹立した。

4月
★馬込(衣巻方)には翌年四月までお世話になった。……伊藤整が『イタガキさんとニシガキさん』という短文の中に紹介している僕は、主としていまの数ケ月間の馬込居住中の話である。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.113〜114)

★馬込滞在中に、『夢野抄』という五十枚余りのものを書いたので、新潮の楢崎勤に買って貰った。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.118)

★私は昭和十一年末に明石から最後の上京をして、翌年四月まで馬込の衣巻省三方に厄介になったが、(「夢野抄」は)その期間に書いた作である。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.135)

★衣巻はこの晩、法事の為に郷里の丹波へ発ちましたが、……衣巻の帰京まで泊めてくれる手筈だった山上は、これも未だ独立していませんでした。牛込北町の古い暗い下宿の四畳半には……(「白昼見」『大全4』p.204〜205)
☆衣巻宅への居候も限界に近づき、主人の留守中は山上二郎のもとや、簡易宿泊所を利用していたようである。

4月末
★最後の上京をした彼は、大森の奥に居る旧友の許に、十二月の上旬から翌年の四月末まで厄介になった。それから牛込北町うらに下宿する男に身を寄せて、近くにある出版社へ通う途次に青甍の手頃なアパートを見付けたのだった。(「世界の巌」『全集7』p.421)
☆この男は山上二郎。

4月 ★「似而非物語」<文芸汎論>[2-217]
★更に十年後、序曲の不要に気がついた。「一定点を過ぎる直線が円周上を回って生じる曲面と、その円とのかこむ立体」が円錐に他ならぬのであるから、何時だって同種の円錐が二個向い合せになっているわけだ。……一旦、こんな拡散宇宙が成立すると、先のユートピアとは縁が切れて、模型彗星を破裂させるわけに行かない。で、この双曲線宇宙は別な創作『似而非物語』の枕として使用することにした。(「私の宇宙文学」『大全1』p.153)
☆これは、『近代物理学とパル教授の錯覚』(昭和3年4月)、あるいは『P博士の貝殻状宇宙に就いて』(昭和5年9月)をもとにして、「更に十年後」という意味であろう。正確にいえば、前者からは9年、後者からは7年であるが。
☆たしかに、『似而非物語』とほとんど似た形式であるにもかかわらず、『P博士の貝殻状宇宙に就いて』にはこの双曲線宇宙はいまだ登場していない。
☆『彗星問答』(多留保集6、p.31)のカットにある円錐宇宙と、「文藝汎論」掲載の『似而非物語』のカットにある円錐宇宙が違うことに注意! 前者は円錐の頂点への集合体であるが、後者では各円錐が軸対象になっている。

4月 ★「石川淳とJUNE BAG」<作品>[12-273]
☆この中に出てくる「庵文蔵」とは石川淳の『普賢』の登場人物であるが、「鉛の銃弾」(『全集10』p.341)によると、そのモデルは「TY」だとされているが、おそらく山ノ内恒身のことだろう。これを発表した当時は、そんなことを断らずとも、常識だったのであろう。

5月 ★「格子縞」<作品>[12-275]
☆この中の「K」とは衣巻省三のことであろう。これを書いていたときは、まだ衣巻の所へ居た模様。
☆この中に「菜の花の飛行機の翼に及す影響」という言葉が出てくる。これが初出だと思われるが、それはタルホが実存主義に触れる遥か前のことになる。

横寺町・旺山荘へ
5月上旬
★五月上旬になって、山上二郎の下宿から電車道をへだてた高台に、やっと自分の居場所を定めることが出来ました。衣巻の住いで書いた短篇が売れたことがありましたが、百円など何の役に立つかとわたしは思っていたので、二日間で費いはたしてしまいました。そこで、改めて、旧知の江戸川乱歩に金三十円を無心し、ほかに玉虫色の背広と夜具の上下の寄附を受けました。……わたしがこの横寺町の一隅に住いをきめたのは、飯塚という酒造家が経営している縄のれんがあったことに依ります。旧臘の或る晩初めて山上に案内されて……(「白昼見」『大全4』p.207)
☆馬込の衣巻省三方から牛込区横寺町の旺山荘アパートへ転居したこと。「わが庵は都のたつみ」(『東京遁走曲』p.120)に、旺山荘に入居後1年と3日経った翌年5月10日に次の東京高等数学塾に移ったとあることから、逆算すると、旺山荘に住みはじめたのは昭和12年5月7日ということになる。
☆「山風蠱が発表されるまで」(『全集8』p.230)には、「桜が咲く頃に牛込のアパートの一室へ移ったが、……」とある。これは「5月上旬」とは1か月の誤差がある。
☆「わが庵は都のたつみ」(『大全5』p.73)に、「馬込滞在中に、『夢野抄』という五十枚余りのものを書いたので、新潮の楢崎勤に買って貰った。原稿料の百円なにがしが直ちに酒に化けてしまったので……」とあるので、この「短編」とは『夢野抄』のことであろう。
☆飯塚酒店を初めて訪れたのは、前年暮れに「山上二郎」の案内によるものであったことがわかる。

★このたび上京してから、牛込の片辺りの崖上の旧館に部屋を借りるまでには、約五ヶ月間を要した。(「弥勒」『全集7』p.267)
☆前年12月上旬の上京から、5月上旬の旺山荘入居までは、ちょうど5か月間。

★通りかかりの女とそして塀越しの若葉とが、この初夏ほどに瑞々しく美しく見えたことは、今迄に無かった。(「弥勒」『全集7』p.268)
☆旺山荘に移った年の初夏であろう。

★原稿料の百円なにがしが直ちに酒に化けてしまったので、改めて旧知のたれ彼から五円十円と借り集めて、新潮社近くの横寺町のアパートに一室を借りた。先に萩原朔太郎を通して江戸川乱歩を知っていたので、彼に事情を訴えて、金三十円也を借金し、他に一組の銘仙夜具を寄附して貰った。……このたび無心に出掛けたのは、現在の池袋の立教前の住いである。(「わが庵は都のたつみ」『大全5』p.73〜74)
☆乱歩が池袋三丁目の立教大前に引っ越したのは昭和9年7月。

★最後の上京をして、横寺町のアパートの一室に落着くなり直に取りかかった作(のちの「水晶物語」のこと)である。というのは、明石滞在中に「鉱物についての記憶」という着想を得ていたからである。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.118、『全集11』p.479)
☆このアパートは旺山荘のことであろう。
☆この作品はずっとのち戦時中になって「非情物語」としてある文芸誌に発表されたとあるのは、「月刊文章」の昭和16年11月および昭和17年4月発表のこと。

★最後の上京をしてやっと牛込横寺町に落着き、さて何を書こうかなと、神楽坂上を考えながら歩いていた時に、「古典物語」を思い付いた。この仕事と前後して、「非情物語」「美しき穉き婦人に始まる」の発想があったが、その順序はどうだったかよく思い出せない。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.138、『全集11』p.488)

★横寺町に居場所が決って鉱物の話(「水晶物語」の初稿のこと)に一段落が着くなり、西洋紙に向って虫のような細字を綴って行った(「山風蠱」の原稿のこと)。第一書房の長谷川巳之吉に見せて援助を乞うたのは、この草稿のことである。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.119、『全集11』p.480)

★この草稿(「山風蠱」)は数カ月後、新潮社の帰途に見付けて移り住んだ横寺町のアパートの一室でぼつぼつと考えながら書かれた。西洋紙を次々に埋めた蟻のような細字である。(「山風蠱の頃」『星の都』p.302、『全集11』p.268)
☆「山風蠱」(戦後に「美しき穉き婦人に始まる」と改題・改訂)にとりかかったのは、旺山荘である。
☆長谷川巳之吉に「山風蠱」の下書を見せたのは翌昭和13年、東京高等数学塾に移ってから。

夏の初め
★夏の初めになると、友人は彼を相手にせぬようになった。兵児帯を質に入れたので、彼は金具の外れた布製のバンドを腰に巻いた。それでも次の年の五月まで、どうやらおし通した。(「世界の巌」『全集7』p.421)
☆この友人とは、文脈から山上二郎のことであろう。

7月 ★「夢野抄」<新潮>[→「夢野」7-120]
★私は昭和十一年末に明石から最後の上京をして、翌年四月まで馬込の衣巻省三方に厄介になったが、その期間に書いた作である。(「タルホ=コスモロジー」『全集11』p.487)
☆「夢野抄」のこと。室生犀星に付き添われて原稿を文藝春秋に持って行ったが、結局「新潮」の楢崎勤に買って貰ったとある。

★日華戦争が始まった頃、筑土八幡うらの或る家で(辻潤と)ひょっくり顔を合わせたが、……これをきっかけとして、彼はちょくちょく横寺町の露地奥に私を訪れるようになった。(「唯美主義の思い出」『大全6』p.423)
☆日華戦争は1937(昭和12)年7月勃発。

8月
★八月に入ると、三日間なにも口へほうり込まない日を迎えました。九月になると、湯屋の計り台に乗ってみて、十五キログラム体重が減っていることが判りました。(「白昼見」『大全4』p.208)


★夏になると何物も口に入れない日を度々迎えるようになった。(「わが庵は都のたつみ」『大全5』p.74)

秋の初め
★……女が立ち上ったとたん、その口から胡瓜のヘタがつまみ出されて傍に投げ棄てられた。それは未だ暑い、秋の初めのことで、それ故つるりと彼女の喉元を滑り込んだ胡瓜のずいがどんなに冷たく、且つおいしいかを察せしめた。(「弥勒」『全集7』p.272)
☆文脈からすると旺山荘時代のことであろう。

9月 ★「よりどり前菜」<新青年>[12-281]

10月 ★「危難の飛行場」<蝋人形>[→「矢車菊」2-309]

10月 ★「浄土とは何処?」<浄土>[→「あべこべになった世界に就て」8-208]
☆この中に「弥陀の声が筬の様に呼び返されてゐるやうに……」という記述があるが、同様のものが「弥勒」第1部の末尾に出てくる。

10月 ★「僕とライオン」<スタイル>[12-286]
☆この話は、戦後の作品「河馬の銃殺」(新思潮、昭和23年9月)の第「四」に挿入されている。

12月 ★「よりどり前菜」<新青年>[12-283]

12月 ★「新月抄」<むらさき>[12-287]

年の暮れ
★こうして外界では、一般自動車の剥き出しになっていた放熱器の前に、一様に撃剣の面頬のような覆いが取付けられ始めたということだけが分って、その年が暮れた。が、新年早々彼はとんでもないものを、自ら引っぱり出すことになった。(「弥勒」『全集7』p.273)
☆これに続く「鬼」の出現から「Saint」発見までの経緯からすると、これは1937(昭和12)年の暮れから1938(昭和13)年の新年でなければならない。
☆「香なき薔薇」(『全集11』p.25)には、「自動車の正面についている夢の巣箱、ラジエーターの上に、撃剣のお面に似た保護カバーが被せられたのは、太平洋戦争直前のことであるが」とあり、時期が若干食い違っている。


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