1938(昭和13)年 37歳 東京高等数学塾へ転居



正月
★わたしはそのお正月このかた、今まで全く知らなかった恐ろしいものに襲われていたからです。(「白昼見」『大全4』p.214)
☆文脈の順序からいくと、この正月のことであろう。

★然しその冬じゅう、自分は両袖が硬ばり光った着物のまま柏餅の中で送ったではないか。(「白昼見」『大全4』p.213)
☆この「冬じゅう」も、この年のことであろう。なお、「柏餅」とは蒲団を指すが、とすればこの冬にはまだ蒲団があったことになる。

1月 ★「木魚庵始末書」<新潮>[7-308]
☆これは旺山荘時代のことに属する。

2月 ★「懐中時計奇談」<蝋人形>[→「アブストラクト」1-408]

2月 ★「カツギヤノモクベヱサン」<コドモノクニ>[12-292]

梅の便りが聞え出した頃
★その年があれやこれやの裡に暮れて、翌年の梅の便りが聞え出した頃、広島から一人の紳士が私を訪れた。綿谷嘉人と云う易の研究家で、八卦に関する書物を購入の為に上京した序だとの事であった。(「山風蠱が発表されるまで」『全集8』p.231)
☆文脈からすると、この年の早春。
☆この人物がくれた易の本によって、「美しく穉き婦人に始まる」というタイトルを「山風蠱」に改めた。
☆「タルホ=コスモロジー」(『全集11』p.480)では、「岐阜県の田舎から易学の本を買うために上京した若い読者」となっている。しかし、書かれた時期からいえば、「山風蠱が発表されるまで」の内容のほうが正しいであろう。

3月 ★(アンケート:特集・当世百戦術――三等車安楽術)<新青年>[13-460]

Saintの啓示
3月13日
★もう三月であった。その日一日じゅう、鬼に責められた彼は、夜になると勇気を出して、よろめきながらも銭湯へ出向くことにしたが、……石鹸を使うまでの気力は到底なく、ようやく湯槽から引き上げた身体を脱衣場に運んで、所々を抑えるようにして拭いていたが、この時突然Saintという五字が脳裡に閃いた。(「弥勒」『全集7』p.278)

★横寺町のうらに移って二年目の三月のことだった。其日、彼は朝から悪霊にさいなまれ、汗びっしょりになってもがいていたが、夜が落ちた時、これは不可ないと勇気を奮い起してよろめきながら、表通りの銭湯に辿りついた。躯を洗うどころの話でなかった。……それから鏡の前に出て行って、力なく躯を拭いていた。だしぬけに後頭部の方から、電気のようにSaintという響きが閃いた。(「世界の巌」『全集7』p.423)
☆「もがいて」は「足偏」に「宛」。

★わたしは漸く湯ぶねから匍い上って、所々をおさえるようにして、力なく全身を拭っていました。電光のように、いまの今まで思いもかけなかったイデアが、頭の中に閃いたのでした。曰く、“SAINT”自分がそれでなければならぬなどと、云うのではありません。世にはそんな聖なる種族があって、その中には磔刑になった者さえあるでないか。……数日経ってこよみを繰ってみたら、聖者ということに気がついたのは、三月十三日で、サー=ウィリアム=ハーシェルが天王星を発見した日だ、とありました。(「白昼見」『大全4』p.215〜216)

★この三角錐の頂点が聖者である。よし、ひとつ、機会ある毎にこれを研究してみよう。このときから鬼は私の枕辺に出なくなった。たった一ぺん、遠方の母が亡くなって、旅費を送ってきたとき、それが電気ブランに変った――このときより以外にない。だから、三月十三日、セイントに気づいた日は私の記念日になっている。(「神・現代・救い」『全集8』p.321)
☆同様の記事は「たげざんずひと」(『多留保5』p.87)、「神・現代・救い」(『多留保8』p.41、『全集8』p.319〜321)に。
☆初出の「たげざんずひと」にも「ハリツケになった者」とあり、このSAINTはキリスト教聖者、なかでもイエス・キリストを指しているのであろう。

★ところが牛込に移ってSaintという文字に気がついて間もなくであったが、『意志と現識としての世界』の第二部を、某所で見付けたと云って彼にくれた人がある。然し、聖者と苦行者について縷述された部分に目が通されたばかりで、直ぐ古本屋に預けられ、そのまま流れてしまった。お盆の墓地を見て婆羅門を連想したところで、これを調べてみることは彼には出来なかった。(「世界の巌」『全集7』p.425)
☆この記述は重要である。なぜなら、“Saint”の発見はショーペンハウエル影響下のものではなかったことが判明するからである。むしろ逆で、Saintに気がついたからこそ、ショーペンハウエルの本の「聖者と苦行者」の部分に注目したことになる。
☆この一節は、「弥勒」中の「例のヒルティーの愛読者が、雑誌代りに読むがよかろうと云って、新宿の夜店で買ったという菊判青表紙の古本をくれた。これは彼もずっと昔に持っていた、ショーペンハウエルの訳本三冊中の一つであった……」(『全集7』p.287)に対応する。ただし、こちらの記述では「ニイチェにも劣らぬ熱心さで、彼は眼を通した」とある。この記述の後に「――こうしてこの秋が去って……」とあるが、この本を読んだのは、何月頃だったのだろうか?
☆「偏見と誤謬」(黄表紙、昭和3年4月、『全集12』p.179)に、ショーペンハウエルが出てくる。昭和の初めにショーペンハウエルを読んでいた形跡はないようだが、何を根拠にして言っているのだろうか? 「私は近くショーペンハウエルの時代がくることをここに確信の下に云える」と、自身の昭和10年代を予言するようなことを述べている。ほかにも、クインシィ、カリガリ博士など、「弥勒」に登場するキーワードが取り上げられていて興味深い。

4月 ★「虹の入江の美観」<婦人画報>[8-206]
☆この中に、「……木星の表面をじりじりと瀕死の蠅の様に匍って行く遊星の影、又、三日月形になった金星が、その細い尖った先をプラチナみたいに輝かせているのを見る時程、天体と云うものが持っている寂寥と幽婉さを感じる事はないと野尻抱影氏が云って居られるが、……」とある。これは「弥勒」第2部の末尾に出てくる記述と非常に似通っているが、それが野尻抱影からの借用だということが明かされている。

5月
★五月になった時、青甍のアパートには間代が滞納して、これ以上住んでおられない情勢が迫っていた。ヒルティーのファンは、この時五円を都合して、彼が以前に間借していたという飯田橋近くの家へ交渉してくれた。……さすがに彼は思案をめぐらして、一週間目に九段上の出版屋を訪れることにした。(「弥勒」『全集7』p.279〜280)
☆旺山荘から東京高等数学塾へ移るまでの1週間。この間に第一書房の長谷川巳之吉を訪れたのである。

★彼には少しゆとりが生まれていたので、人に貰った書き損じの原稿用紙の裏面を使って、細かな字でかなり長いものを綴っていた。このさき講演のベンチで夜を明かすようなことになっても――と彼は本気にそう思っていた――それより前にこの下書だけは清書しておこうと。この用件を、一面識があったH氏の前に持ち出したのであるが、たぶんそんな陳述の声は顫えて、しどろもどろであったろう。(「弥勒」『全集7』p.280)
☆この「下書」とは「山風蠱」(美しき穉き婦人に始まる)の原稿。

★せめて下書でも書いておこうと思ったのであろうが、果してそれが出来上って数日目に追出しをくらった。こうなると欲望が出るもので、私はせめて下書の清書を済ませたいと思った。他に宛がなかったので九段に長谷川巳之吉氏を訪ねた。第一書房には、もう文筆は絶って了う心算で仕上げた私のクラシックが六百枚ほど預けてあった。それは出版される様には見えなかったけれども、そんな事情があったから、私は細字の下書を見せて意中を出版家に聞いて貰う事にした。私は一時間余りも長谷川氏の御説教を聞いたが、彼は同情してくれて、前後合せて六十円也を私は借りる事が出来た。(「山風蠱が発表されるまで」『全集8』p.231)
☆この「下書」とは「山風蠱」のこと。「旺山荘」からの追い出し。

★この(「山風蠱」)清書のために、九段上の第一書房主から五十円ほど出して貰った。百四十枚余だったが、発表の宛はない。「同情はするが本を出すわけに行かない。あなたの本を出さなければならないとなると、商人としては甚だ困る次第です。ひとつあなたの作品が好きな出版屋を探すことですな」と長谷川巳之吉は云った。(「山風蠱の頃」『全集11』268)

初夏
★初夏になって私は九段上に長谷川巳之吉(第一書房主人)をたずねた。ちょうど『美しき穉き婦人に始まる』の下書が出来ていた折である。ぎっしり細字が詰った十数枚の西洋紙を見せて、「これを仕上げるために」を理由にして、先方から五十円ほど出して貰った。マキニカリスの束はこの日引取ったが、以来、この六百余枚を新聞紙にくるんで、その上から細紐をかけたのが私の夜々の枕になった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.67)
☆この「初夏」が昭和12年でなく、昭和13年であることが、上の「山風蠱が発表されるまで」から判明する。
☆「ヰタ・マキニカリス」の出版社遍歴については、「1947(昭和22)年上半期」の項参照。

東京高等数学塾へ転居
5月10日
★アパートへはいって丸一年と三日経った翌年五月十日に、旺山荘を不払いのために追い出されて、近所にあった「東京高等数学塾」という古い建物の二階へ引移った。此処では最後まで夜具無しであった。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.120)
☆萩原氏の年譜では、東京高等数学熟の住所は牛込区横寺町37番地。
☆この計算でいくと、前の旺山荘アパートへは前年昭和12年5月7日に移ったことになる。
☆夜具が無くなったのは、翌1939(昭和14)年2月から。

★一年前の同じ日にはいったアパートから一年後のちょうど同じ日に追い出されてしまった。(「世界の巌」『全集7』p.421)
☆ここでは「一年後のちょうど同じ日」になっている。

★結局要求は容れられ、その日の正午まえには、再び元の横寺町へ帰ることができた。……この時にもヒルティー紳士が助勢を買って出て、青甍アパートの横の小路の突当りにある、古い、巨きな空箱のような建物へ話をつけてくれた。私立幼稚園だったが、反対側には「東京高等数学塾」という札が懸かっていた。(「弥勒」『全集7』p.280)

★その五月になって、前に述べた通り、横丁の塾に移ったのであるが、此処で悪霊に襲われたのは一度きりである。その代りこの墓畔の家では、七日間の絶食レコードが作られた。(「世界の巌」『全集7』p.423)

5月
★五月の墓地には、その石塔にそれぞれ鮮やかな影がついて、其等が日射しと共にゆつくりと廻つてゐる。(「弥勒」【新潮】初出)
☆【小山書店】【作家】までは〈五月〉とあったが、【大全/タルホスコープ】で〈五月〉が削除された。
☆前後の文脈から、この〈五月〉もこの年のことであろう。

★ちょうどこの墓地の中央から窓の正面の所に、一本の若い桐が、燦燦と金粉を振り撒くような五月の陽光を思う存分に吸って、眼に見えて日毎に大きくなりつつあった。(「弥勒」『全集7』p.284)

★彼は思わず呟いた。「われは観たり、五月の墓地に墓を乗りこえて進まんとする一本の若き桐を!」(「弥勒」『全集7』p.285)

6月 ★(アンケート:当世女十傑)<新青年>[13-461]

七夕の日
★ちょうど七夕の日だったが、あの時以来の I が、ホイスラー張りの数寄屋橋の堀割を背に、ジョッキを前に置いて、例の検事の口吻で彼に向って云いかけた。「吾々はカントから出発しなければならぬ。であるからして文学は困難である。若しカント以上に出られないならば、酒を飲んで布団をひっ被って寝ておれ! その方がよっぽど増しだ」と。(「弥勒」『全集7』p.285)
☆これと同じ I (石川淳)の言葉が、「あべこべになった世界に就て」(「カルト・ブランシュ」1939(昭和14)年2月号)に見えるので、この「七夕の日」はその前年、すなわち1938(昭和13)年のことだろう。

7月
★斯くて「山風蠱」は成って、七月の暑い日、私は一枚四銭か五銭する大きな封筒を都合して、近所にある大日本印刷会社の受附に届けた。校正の為にそこへ出張していた文芸の記者に渡したのだが、これは仲々読んでくれそうになかった。(「山風蠱が発表されるまで」『全集8』p.232〜233)
☆「斯くて「山風蠱」は成って」とあるので、これは最初の「十数枚の西洋紙」に書いた下書でなくて、原稿用紙に清書し直したものであろう。

盂蘭盆
★何時であったか、ちょうど盂蘭盆で、眼下の墓地じゅうが線香の煙に立罩められている時だった。……此日から彼の頭の一隅に、婆羅門の三字が座を占めるようになった。(「世界の巌」『全集7』p.424)
☆これに似た盂蘭盆の記述が「弥勒」の末尾に出てくるが、これは昭和13年か14年のどちらかの盂蘭盆であろう。


★夏、明治末に建てられたという古い、黒ずんだ館の周りは守宮だらけであった。(「弥勒」『全集7』p.266)
☆東京高等数学塾に引っ越した最初の夏のことであろう。
☆「1939(昭和14)年夏」の項参照。

8月のかかり
★この明方以外に、八月のかかりに清風吹いて月影澄んだ夕べがあっただけで、依然としてはっきりと晴れた日は無かった。(「弥勒」『全集7』p.286)

8月 ★「フエヴアリツト」<新潮>[3-177]

8月 ★「円錐帽氏と空罎君の銷夏法」<蝋人形>[13-61]

お月見頃
★今まで綴ってきた順序による秋の、お月見頃に、大阪の姉の家に引取られていた老母が亡くなった、ということを申し上げねばなりません。わたしはその折、姉から送ってきた汽車賃を他の用向きに費ってしまって、鬼に襲われました。然しこれが、鬼らしい鬼が出た一等終りでした。(「白昼見」『大全4』p.216)
☆順序を追うと、この年のお月見頃ということになる。母親は、「大阪郊外に住む孫娘夫婦の許へ」(同書p.194)引き取られたとあるが、これは「娘夫婦」(タルホの姉夫婦)ではあるまいか。母親は3年間病床にあったとある。

お月見頃
★それは私の上京後に大阪に残した老母が亡くなり、葬式に帰るようにと姉から十円が送られてきた折であった。横寺の数学塾へ移った年か、その翌年かのお月見頃の話である。十円ではどうにも仕様がなかった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.60)

★去年のお月見頃に、母は、私の姉の家で亡くなりました。(「愚かなる母の記」『多留保集1』p.187)

9月下旬
★数年後の九月下旬に、お初(母)は癌のために死んだ。……三年間は、長堀橋畔の狭苦しい姉の住いの二階で過された。或る夜訪ねてきた未知の紳士から、董生はその由を報告された。……その夜の紳士というのは、姉の家に永いあいだ居た傭い婆さんの子息である。これがいまは東京住いしているのに依頼して、ブリ(姉)が弟の居所を探させたのであった。(「地球」『大全4』p.263)
☆この記述の後に、切符を無くした夜、数学塾の窓越しに眺めた月が、「二日前には名月であった」とあるので、その日は9月17日ということになる。
☆同書p.265に、「姉の家には五人の子女があり、男の子二人は正規の医者で、一人が歯科医である」とある。

10月 ★「お化に近付く人」<蝋人形>[→「お化けに近づく人」2-263]

この冬
★この冬、私は寒さの為に動かない手に息を吐きかけ乍ら、手元にあった下書を元にして二回目の「山風蠱」を書いて、武田麟太郎を通じて文學界に送った。これは長すぎると云う返事であった。そこで代りに採用してくれたのが「石榴の家」である。(「山風蠱が発表されるまで」『全集8』p.233)
☆「山風蠱が発表されるまで」の最後に、「「山風蠱」は……三年前の作なので不満が多い」という記述がある。「山風蠱が発表されるまで」は昭和16年3月「意匠」掲載であるが、それを書いたのも昭和16年とすると、「三年前」とは昭和13年になる。つまり、第2回目の「山風蠱」の原稿は、昭和13年中に出来上がっていたことになる。すなわち、「この冬」とは昭和13年中の冬である。
☆「石榴の家」は、昭和14年3月「文学界」掲載。

降誕祭
★こうしてこの秋が去って、降誕祭がやってきた晩、それは江美留の三十何回目かの誕生日の前夜でもあったが、……(「弥勒」『全集7』p.288)
☆12月26日はタルホ38回目の誕生日。


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