■1939(昭和14)年 38歳 雑誌「コギト」の弥勒に出会う
正月
★正月の三日間、彼は全く何も食べなかった。二月になると夜具が失くなった。(「弥勒」『全集7』p.288)
☆この記述の少し後(p.290)には、「立春直後に布団を手離してしまった」とある。
☆「世界の巌」(『全集7』p.416)に、「今度の上京のしたてには、旧知から貰った銘仙の夜具があった。これは一冬と、その次の冬の中頃までしか身辺に置くことが出来なかった」とある。最初の冬が昭和12〜13年、次の冬が13〜14年なので、つじつまが合う。
☆同作品(p.423)には、「立春直後の最も冷たい風が日々立てつけの悪い硝子戸をゆすぶり、何人もやってこなかったからして、そんな辛抱が止むを得ずに為されたのだった」とあるが、これはその前の「七日間の絶食レコード」を指す。またこの後に「茣蓙」云々が出てくるので、絶食レコードと夜具が無くなったのは、同じこの立春直後のことになる。
★私は、日華戦争が始まった頃から、京都住いをするようになる迄、即ち一九三七年から一九五〇年まで、夜具無しで過した。(「唯美主義の思い出」『大全6』p.424)
☆日華戦争は昭和12年7月からだが、夜具無しは、正確にはこの年(昭和14)の2月から。
★日中戦争が始まった年から、昭和二十五年二月に京都へ引越すまで、途中で早稲田戸塚グランド坂上の宿屋に居た僅かな期間をのけて、私は足掛十四年間夜具なしの日々であった。(「ユメと戦争」『全集11』p.309)
★蒲団無しに暮してみようと思って、日華戦争が始まった頃から、京都へ越す前夜まで、約十五年間それを実行して、ともかく挫折しなかったからだ。(「本ぎらい」『大全6』p.619、『全集11』p.170)
★今は蒲団の中へはいって夜を過しているが、曾ては十五年間にわたって夜具なしの日々を送った。(「ボクの剪定法」『全集11』p.109)
☆昭和14年2月から25年2月までなので、正確には11年。
★ヒルティーの愛読者がお正月に伴ってきた隻眼の人が、ヤマニ酒場で云った沈痛な響きの言葉が彼の耳に残っていた――(「弥勒」『全集7』p.291)
☆「隻眼の人」とは津田季穂。
☆「弥勒」で、T(津田季穂)の友達だというトンヤン・メーランファン≠フ異名を持つ女性は、「唯美主義の思い出」の中ではW嬢≠ニされており、また「酒につままれた話」には渡辺勝子≠ニある。
1月か2月
★一月か二月のおそろしく寒い夜更けに、『非ゆうくりつど幾何学』を懐ろに酔払って馬込の衣巻省三宅の門前に辿りついたまま、そこにぶっ倒れて明方まで眠ってしまったことがあった。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.135)
☆同p.136に、「しかしこの夜懐ろにしていたのは明石以来の梶島本でなかった。自分も同人に加入していた『カルト・ブランシュ』の若い連中が、……私の畳の上に置いて行ったもの」とあるので、この話は「カルト・ブランシュ」に書きはじめた昭和14年以降の1月か2月のことであろう。ちなみに昭和14年2月に「カルト・ブランシュ」に発表した「あべこべになった世界に就て」は非ゆうくりつど幾何学について書かれている。
★ちょうどこの時分、東北の旅から帰ってきた友人の画家が、仙台の古本屋で稀らしいものを見つけたと云って、本を貸してくれました。物理学者フェヒナーの小著のことはケーベル博士の随筆中にも紹介されていたので、早速読んでみましたが……(「白昼見」『大全4』p.217)
★この本は、ケーベル博士の随筆中で教えられていたのを、たまたま友人が東北旅行中に古本屋の棚に見つけた。小形の訳書(草間平作訳)である。原著者フェヒナーとは、実験心理学の始祖であり、且つ「フェヒナーの法則」で知られているグスタフ=テオドル・フェヒナーのことである。(「『死後の生活』」『全集11』p.210)
☆この「友人の画家」とは津田季穂であろう。津田と最初にあったのは昭和14年の正月(→ 筆者の「弥勒が弥勒になるまで」参照)なので、この話はそれ以後のことであろう。
☆この小著とは『死後の生活』のこと。
☆『死後の生活』(丙午出版社、明治43年9月刊)の訳者は、草間平作ではなく平田元吉である。
☆同様の記述が、「神・現代・救い」(『全集8』p.328)に。
2月 ★「あべこべになった世界に就て」<カルト・ブランシュ>[8-208]
☆この作品の中に、「物質滅尽の思想、それは口で語られる物語の如く移らい行き、ついに溶けて幻のような無に還元して了う物質の将来なのであろうか、それとも弥勒菩薩の出現になるのであろうか? 私達は只暗黒に面してたじろぐ幼児の如くである」とあり、ここに「弥勒菩薩」という言葉が初めて登場する。この作品は「カルトブランシュ」2月号の掲載で、雑誌「コギト」の7月号で初めて弥勒菩薩を見たのより5か月も前である。これは不思議である。「コキ゜ト」によって初めて「弥勒の概念」が得られたのではなかったか? このタイムラグはいったい何を意味するのか?
☆この作品は「浄土とは何処」(昭和12年10月)を増補したものであるが、「弥勒菩薩」の部分はその増補部分に登場する。
☆この増補部分の最後に、「吾々はカントから出発しなければならぬ、故に文学は困難なのである。カント以上を出ないならば君は酒を飲んで蒲団をかむっている方が遥かに気が利いている」――これは石川淳の或日の言葉であった」とあるが、これは「弥勒」第2部(『全集7』p.285)に出てくる。
3月 ★「石榴の家」<文学界>[→「莵」7-62]
★その日、午後二時頃から馬込の衣巻省三を訪れた。同行者は、私の『弥勒』の終りに出てくる画家津田季穂と、曾て上海の踊子で、外遊の谷崎潤一郎を跪坐させたという渡辺勝子さんである。衣巻の家で酒宴になったが、同行者たちは暗くなってから帰り、衣巻と私は、萩原朔太郎がよく出入りしていた大森のビヤホールで飲み直しをやった。ちょうど『石榴の家』(短篇『莵』の旧名)を書いていた時なので、「ザクロの実の緑と紅はいいじゃないか」と私がいうと、衣巻は、「あれは硝子製だね」と相槌を打った。(「酒につままれた話」『全集11』p.272)
☆「石榴の家」は『文学界』1939(昭和14)年3月号発表。また「弥勒」によると、津田とは「お正月」に初めて出会ったとあるので、この話は正月以降のことになる。この二つの関係から推測すると、衣巻宅訪問のこの話は昭和13年ではなく、14年の1月〜2月頃で、また津田と出会った「お正月」も同年ということになろう。
☆「酒につままれた話」では、衣巻と飲んだ夜、帰りに大宮まで乗り過ごしたとある。その中に「短夜はそろそろ明るくなってきた」という表現が出てくるが、衣巻と飲んだ季節は冬なので、別の機会と勘違いしているのかもしれない。
春
★更に翌春になって、わたしは海峡の町に住んでいる未知の婦人から、彼女の愛児の追悼録だという、菫色のリボンでとじた冊子を贈られました。(「白昼見」『大全4』p.218)
☆婦人の手紙から、タルホの明石の実家は「エビス屋」という時計店になったことがわかる。タルホの礼状はフェヒナーの見解がもとになっている。すなわち、フェヒナー(の『死後の生活』)を知ったのは、これ以前ということになる。
5月
★……この年も五月に入って、一夕誘われるままに、神田の映画館でその日限りにやっていた『カリガリ博士の長櫃』を観てからのことである。このフィルムは江美留にはすでに三回目か四回目だったが……(「弥勒」『全集7』p.293)
☆前後の順序からするとこの年のことだろう。
★ポン彗星がまたもや地球に接近していた。(「弥勒」『全集7』p.294)
☆何月のことかは不明だが、6年周期のポン彗星は、あの1921(大正10)年以降、1927年、1933年、そしてまさにこの年1939(昭和14)年にも地球に接近していたのである!!
☆すぐ後の記述に「天の河」が出てくるので、7月頃だったのかもしれない。
「コギト」表紙の弥勒に出会う
7月
☆弥勒菩薩が表紙になった雑誌「コギト」の発行は、昭和14年7月〜12月号(9月号は休刊)。
★或る朝、部屋の戸の隙間から差込まれていた『コギト』という同人雑誌の表紙に、見覚えのある仏像を見た。(「弥勒」『全集7』p.295)
☆この後に続く、「それは、あの海峡の町で星座を人に教えた翌日、百科辞典のページに見付けたのと同じものであった」という記述は、もちろん創作である。
☆「弥勒」第一部(『全集7』p.258)には、「……以来十五年の歳月が流れた。そして「コリントン卿の幻覚」は纏らないままに放置される運命であったにしても、気がかりな大詰の骸骨は、とうとう取り換えるべく最適なものと巡り合うことになった」とある。「十五年の歳月が流れた」とあるのは、1919(大正8)年に映画「真鍮の砲弾」を見たときからの歳月を指すのであろう。そうすると、「弥勒」作中の時間経過からは、O夫人との一夜の散歩(あるいは骸骨が弥勒に取り換えられたのは)は1934(昭和9)年になる。もし、その起点をポン彗星接近の1921(大正10)年だとすると、15年後は明石を出奔する1936(昭和11)年となり、その秋に夫人との一夜を置くのは無理があるからである。しかし、このことはあくまでも「弥勒」作中の時間経過であり、タルホが実際に「弥勒の概念」を得たのは、雑誌「コギト」の1939(昭和14)年7月号の表紙を見たときだったのだから、本当は「20年の歳月が流れた」わけである。
☆タルホは「コギト」の同人の誰かと知り合いだったのだろうか? この頃の執筆者の中に「小高根二郎」の名前が見えるが、彼と直接関係ができるのは、戦後、京都に移ってからである。その他には「芳賀檀」の名前があるが、彼とは西巣鴨ダンス場時代の知り合いである(「狂気か死にまで行くべし」『全集11』p.439)。その後芳賀は、ドイツに留学し、帰国後、保田與重郎らの「日本浪漫派」にも加わっている。
★だいぶ以前の話になるが、『コギト』という同人雑誌があった。僕はこの冊子の表紙に、憧れの菩薩像の銅版刷りを発見したのだった。……そしてこれがきっかけになって、僕の半自叙伝的創作『弥勒』が成ったのである。(「兜率上生」『大全6』p.353、『全集11』p.10)
★あの(映画「真鍮の砲弾」の)アートタイトルの上に覚えられた、ある未来的な、運動学的な効果に僕は魅せられて、あの感じを何と云い表すべきか、それが永いあいだの懸案になっていた。これについて弥勒の概念が把えられたのはすでに二十余年が過ぎ、日中戦争のさなかのことであった。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.154)
☆映画「真鍮の砲弾」は、大正8(1919)年の春から夏の終わりにかけて上映されたとある。日中戦争の勃発は1937(昭和12)年7月7日。弥勒の概念がこの年(1939年)に得られたのであれば、ちょうど20年後ということになる。
★このアート・タイトルの上にあらわれた、ある未来的な、運動学的な感覚に僕は魅せられて、あの感じは何といい表わすべきかが、長いあいだの懸案になっていた。これについて「弥勒」の概念が得られたのは、すでに二十余年が経過した、日華戦争のさいちゅうであった。こうして僕の半自叙伝的創作『弥勒』が生れた。(「『弥勒』――わが小説」『全集11』p.152)
★都市がある瞬間に、其処に寝そべっているそんな途轍もない巨大な骸骨に見えた、ということを書き加えようと思ったが、それは見せ物じみているので、止した。その代りに、約十年経ってから思い付いたのが、弥勒菩薩である。(「私の宇宙文学」『大全1』p.155)
☆おそらく、「コギト」の弥勒発見のとき(1939、昭和14年)を指していると思われるが、この「約十年」というのが何を起点にしているのか不明。「骸骨」云々は「彗星問答」(1926、昭和元年)のことを指しているはずであるが、そうすると13年後になる。
夏
★ここへ引越した最初の夏、私は手の上に落ちて来た屋守にびっくりしたが、今年の夏、首すじに落ちて来た可成大きい先生にも一向に平気な私を見出した。(「月と虫」『全集8』p.223)
☆東京高等数学塾でのこと。「月と虫」は1939(昭和14)年12月発表なので、この話はこの年のこと。数学塾に引っ越したのは前年、1938(昭和13年)5月。
8月
★手元に戻った「第二回山風蠱」は、日本評論の下村氏が見てやろうと云うのであったが、その原稿は金五十銭で質に入っていたので、その年の八月まで下村氏に渡す事は出来なかった。(「山風蠱が発表されるまで」『全集8』p.233)
☆文脈からすると、この年の8月。
8月 ★「意志と世界」<カルト・ブランシュ>[8-215]
☆この中に「観世音」と題された一文がある。確かではないが、タルホが観世音菩薩に何か意味を持たせて言及したのは、これ以前にはほとんどないのではないか。少なくとも見出しまで付けたものはほかにない。その意味で、タルホが観世音菩薩をどのように解していたかを知るのに貴重である。
☆この「意志と世界」を書いたのと、「コギト」の7月号で弥勒菩薩を見たのは、どちらが先だったのだろうか。半年も前の2月に発表した「あべこべになった世界に就て」<カルト・ブランシュ>の中で、「弥勒菩薩」を無意識に予言(?)していることといい、この時期のタルホには何かが生まれ出ようとしている気配が充溢している。
☆これよりだいぶ以前の、昭和6年1月の「新青年」のアンケート(「打てば響く――2、あなたはどんな青年(男女)が御好きですか?」、『全集13』p.460)では、「女のような青年、又、青年のような少女が好きです。ここに云う女とか男とかは消極的な意味ではないのです。美とか智とかいう種類の秘密は、女と男とかにわけられている二つの要素の結合するところに探られねばならぬと小生は普段考えています。女か男かわからない、即ちあの観音様のような顔をした友だちがあったら、これこそほんとうの文明的ではありませんか」と答えている。
9月 ★「石膏」<新潮>[→「父と子」7-144]
秋口
★一昨年の秋口には、この墓地に向った窓硝子に優曇華というものが開いた。(「世界の巌」『全集7』p.420)
☆これはチフスに罹った昭和16年を基点に述べているようなので、一昨年というとこの年のことになるのではないか。
☆この記述の次に、「更に十年以上昔に、矢張り彼の部屋の硝子戸に、この同じ先生がひらいた」とあるが、池内舞踏場の頃の話だろうか。
「弥勒」第1部を執筆?
12月 ★「コリントン卿の幻想」<文芸世紀>[→「弥勒」7-237]
☆「弥勒」第1部の末尾部分。この作品は、「弥勒」の構想、執筆時期を考える上できわめて重要。
☆「弥勒」第1部は、「コギト」を見た7月から10月頃までに書かれた?
12月 ★「レーディオの歌」<カルト・ブランシュ>[3-169]
12月 ★「コントに就いて」<カルト・ブランシュ>[8-218]
12月 ★「月と虫」<少年保護、日本少年保護協会発行>[8-222]
「弥勒」第2部を執筆?
12月頃
★三年前に、少年時代からの根城を明け渡した時、いよいよこれがどん詰りだと思った。(「弥勒」『全集7』p.263)
☆これは「弥勒」第2部の初めに出てくる言葉だが、これによって第2部を書いている時期が推定できる。
☆明石を出たのは1936(昭和11)年10月末、それから神戸で1か月余り過ごして、12月上旬に最後の上京をしている。したがって、逆にそれから「3年後」の今とは、1939(昭和14)年の12月頃となる。
☆第2部冒頭の、天竺木綿の古カーテンを引っ被っているという記述は、それが冬の季節を思わせ、上の推測を裏付けるような気がする(この年の2月から夜具が無くなっている)。
★……どうしても飯の都合が付かない時に、彼は茗荷谷まで出向いていた。その奥にはずっと以前から彼の書くものに好意を寄せてくれる人が住んでいた。……彼が横寺町に居を定めてからの二年半程のあいだ、原稿用紙だの、煙草代だの、切手代だの、食事についての心配をしてくれていた。(「弥勒」『全集7』p.286)
☆「横寺町に居を定めてから」とは、1937(昭和12)年5月の旺山荘入居を指すので、それから「二年半」というと、これ(第2部)を書いている「今」は1939年11月頃ということになる。これは上記の「三年前に、少年時代からの根城を明け渡した」ということと、ほぼ符合する。