2月 ★「きらきら草紙」<作品倶楽部>[1-162]
2月 ★「宝石を凝視する女」<意匠>[→「宝石を見詰める女」1-105]
2月 ★(アンケート:A.地方に居住する芸術家志望者を如何にお考へになりますか、B.地方の文芸雑誌を如何にお考へになりますか)<意匠>[13-461]
2月 ★「グライダーを愛する友へ」<エコー>[6-388]
☆『全集6』に初めて採録。
3月
★所がこの三月に、倉橋彌一の紹介で会った春陽堂の熊平武二氏が、私が新潮五月号に出した「地球」の評判がよかったから――彼は私の部屋で書上げた地球の原稿を最初に手にした人であった――その短篇の題名を採った小説集の刊行を、ちょうどその春から再起しようとしていた昭森社の森谷さんに持ち出してくれた。(「山風蠱が発表されるまで」『全集8』p.233)
☆「地球」は「新潮」の昭和15年5月号掲載だが、実際は3月中に発売されているとすれば、「この三月」とはやはり同年の3月のことであろう(『山風蠱』はこの年の6月に昭森社から刊行されているので、「この三月」は翌16年3月ではない)。したがって、「その春」も同じく15年ということになる。
春 ?月
★黄金色の蒲公英がお濠ばたの日光を吸っている頃から、彼は丸ノ内通いをしていた。その用件は、目的はありながら、先方に会わぬほうがよいという矛盾に置かれていた。(「世界の巌」『全集7』p.425)
☆「丸ノ内通い」とは出版社通いのことだが、中央公論社か? 下の話と同じことを指していると思われる。
☆この年のことだと推測されるが、不詳。「蒲公英」ということから春のことか。
★(「古典物語」を)約五十枚に仕上げたが、これが数年経ってから「中央公論」へ送られた。そのうちに掲載するとの話だったので、以後、丸ビルまでのお百度詣りが始まった。……丸ビルへ辿り着いて、係りの某氏が不在とか、あるいは会議中だとか云われると、ホッとした。原稿諸共に前借の件も断られはしないかと惧れていたからである。こんな次第が五、六回重なって、ついにある雨降りの午前、私は先方の受付わきのベンチに腰掛けている谷崎潤一郎を見出した。私は彼を横寺町へ誘うてみたが、これから用事があるとのことであった。実は横寺の飯塚縄のれんではK・W嬢が待っていたのである。このために私は、雨の中を傘さして、勇を鼓して丸ビルまで出向いたわけだ。……私にはこの雨の日を限りとして、その後はもう谷崎潤一郎と逢う折はなかった。(「タルホ=コスモロジー」『全集11』p.488〜489)
☆「古典物語」は横寺町に移った昭和12年5月以降に書き始められた(「タルホ=コスモロジー」『全集11』p.488)。それから「数年後」ということなので、この年のことでも差し支えない。ただし、「中央公論」には掲載されず、昭和17年1〜3月「意匠」に発表された。
☆「こんな次第が五、六回重なって」とあるので、「春」から何ヶ月か経った頃だろう。
★大御所谷崎潤一郎とは、七、八年前の雨の午後、中央公論社の受付で逢った。「きみは朝から飲んでいるのか」と彼は私に云った。横寺町の濁り酒へ彼を誘ってみたが、勿論相手にされなかった。然し此日、飯塚縄暖簾の奥には、上海の思い出のW嬢がタバコをくゆらし、脚を組んで待っていたことを、私はその時その場で、彼に洩すのを忘れた。(「唯美主義の思い出」『大全6』p.424)
☆この7、8年がいつを起点としたものか不明。執筆時からとすると、「唯美主義の思い出」の初出が「文芸大学」昭和23年4月なので、昭和15、6年のことか?
4月 ★「道草の大家」<日本文芸新聞>[12-293]
☆この中に「佐藤春夫は文藝春秋の喇叭卒である」という言葉が出てくる。
5月 ★「地球」<新潮>[7-212]
5月 ★「俗人論」<カルト・ブランシュ>[→「誰にも似ないように」8-199]
5月 ★「奇妙な区劃に就いて」<カルト・ブランシュ>[→「奇妙な区廊に就いて」1-80]
6月 ★『山風蠱』《昭森社》
収録作品(8編)「山風蠱」「夢野抄」「木魚庵始末書」「フェヴァリット」「石榴の家」「石膏」「きらきら草紙」「地球」
★このまま五年が過ぎて、昭和十六年に森谷均が、いまの中篇(「山風蠱」)を巻頭に置いた短篇集を引受けてくれることになった。彼とは倉橋弥一を通して相知ったのである。大塚辻町うらの生垣続きの細道へ私を伴うた倉橋は、子供のように外部から「森谷さーん」と大声で呼ばわった。(「山風蠱の頃」『星の都』p.303、『全集11』p.268)
☆「昭和十六年」は「昭和十五年」の誤り。
☆文脈から、昭和13年に第一書房の長谷川巳之吉を訪ねて断られて以来というのであれば、「このまま二年が過ぎて、昭和十五年に森谷均が……」としなければならない。
★今回の出版は、倉橋が私の許につれてきた熊平武二の尽力によるものであった。即ち、この広島の金庫屋さんのおん曹子は、私の創作集を森谷に斡旋し、そのついでに彼自身の詩集をも作らせようという肚だったらしいのである。(「山風蠱の頃」『全集11』p.269)
☆熊平武二は金庫メーカーで有名な熊平製作所の創業者・熊平源蔵の息子。彼には、『山風蠱』と同じ年に出版された詩集『古調月明集』(昭森社、昭和15年)がある。
★更に二十年経って、上野公園うらの豆腐料理で、やはりボクの「山風蠱」の出版記念会があった。ちょうど片岡鉄兵の新築祝いの宵でもあったので、三十人くらいの集りであったが、ボクは大肌ぬぎになったりして、折角顔を見せてくれた宇野浩二氏にも、大そう失礼してしまった。(「二人の女弟子」『全集11』p.116)
7月 ★(アンケート:邦家非常の時、皆様の待望せられる政治家は誰れか)<文芸世紀>[13-462]
9月 ★「イカルス」<カルト・ブランシュ>[1-84]
9月 ★「所謂進化に就いて」<カルト・ブランシュ>[8-225]
11月 ★「弥勒」<新潮>[7-237]
☆これは後に「弥勒」第2部となった後半部のみ。
★文壇的に、先の新潮発表の分に対して、中山義秀が触れた以外、何ひと言も聞かれなかった。それでもT書房の現代文学全集中に予定されたのは何人かの口添えがあったものと思われる。ところが、やはり、一言の説明もないままに、収録されずじまいである。(「『弥勒』――わが小説」『全集11』p.153)
11月
★いまは十一月になった。滞っている部屋代のいくらかでも入れられるものならば一週間ぐらいは食べなくともよい、と彼は思い出していた。(「世界の巌」『全集7』p.426)
☆丸ノ内の出版社通い。この年か?
11月の終わり
★十一月も終りに近い日、雨中を彼は丸の内へ出向いた。数日前に午前午後の二回に出かけてやっと先方を捉えたが、要求が容れられる所まで話が運べなかった。(「世界の巌」『全集7』p.426)
☆同上。この年か?
お正月まであと5日
★ところで夏以来の右足うらの水虫はだんだん悪化して、彼は跛を引き、それがお正月まであと五日という時まで続いたのだった。(「世界の巌」『全集7』p.420)
☆チフス事件の昭和16年がもとになっているので、この話はその前年(昭和15年)のことではないか?