1941(昭和16)年 40歳 チフスで大塚病院に入院



3月 ★「山風蠱が発表されるまで」<意匠>[8-230]
☆この中に、「「山風蠱」は……三年前の作なので不満が多い」とある。これを書いているのを昭和16年とすると、「三年前」というと、『山風蠱』刊行は前年の昭和15年6月だが、原稿(書き直された第2回目の原稿)は昭和13年中に出来上っていたことがわかる。

3月 ★「底なしの寝床」<カルト・ブランシュ>[7-297]

3月 ★「子供達と道徳との関係に就いて」<カルト・ブランシュ>[→「フェヒナーの地球意識」8-194]

6月 ★「菫と兜」<意匠>[→「菫とヘルメット」1-235]

夏の盛り
★その夏の盛り、手拭だの新聞紙だのを顔に載っけ、めいめい好き勝手な向きに転がっていた連中が、それぞれ兵隊に取られたり、国元へ逃げて帰ったり、刑事に呼び出されたきりになったり、また行方不明になったりして――隣り合せの墓地に夜毎高まる虫の音と共に――彼の二階六畳から自ら散じたのちに、キャンプ用天幕のきれはしと絵具箱を両脇にして舞い込んだのが、こののっぽのアルチストである。(「世界の巌」『全集7』p.418)
☆チフスの前なので、この年のことであろう。「のっぽのアルチスト」とは富永踏。『稲垣足穂の世界』(新評社、1981年)に、「足穂先生のこと」と題して、当時の様子を書いている。

8月 ★「人生は短く芸術は長し」<意匠>[8-235]
☆この中には、「念願」「客観的事業」など『弥勒』第2部の末尾に登場するキーワードが出てくる。この「人生は短く芸術は長し」と10月の「山田有勝兄への書翰」は、『弥勒』解読のためのテキストとして重要。

8月 ★「飛行機の黄昏」<文芸世紀>[6-391]
☆「飛行機の黄昏」というタイトルの作品は二つある。もう一つは、1957(昭和32)年8月「机」発表のもの。『全集』では「文芸世紀」発表を「飛行機の黄昏 1」、「机」発表を「飛行機の黄昏 2」[6-393]としている。

9月 ★「白鳩の賦」<につぽん>[全集不掲載]
☆未見

9月 ★「東洋更紗」<胡桃>[1-377、13-58]

?月
★階下に引越す直前のことである彼の枕辺の畳の隅っこが、突き上げられたようになった。
☆キノコが生えたこと。この年(昭和16年)のことだと思われるが、何月か?

★足かけ五年寝起きした二階の六畳から真下の三畳へ移って以来、未だふた月にならない。(「世界の巌」『全集7』p.418)
☆これはチフスに罹ったこの年(昭和16年)のことだと思われる。数学塾に移ったのは昭和13年からなので、「足かけ五年」は「足かけ四年」の間違いだろう。
☆1階玄関脇の3畳間に移ったのは「のっぽのアルチスト」がやって来た後だが、何月か?

10月 ★「山田有勝兄への書翰」<カルト・ブランシュ>[8-239]
☆「「既に意志に隷属するのでない。人間とは認識にまで到達すべきである」と彼は考えた。「そこにおいてこそ客観的事業に参加出来る。このような者には幸福もない代りに、不幸もない。只念願だけが残る。……」」(「弥勒」第2部)。「げにかかる世界を目指すものを、則ち日常身辺の至る所に顕現せる神を観る事が芸術家の使命である。そして東洋人たる吾々は、西欧の人々に較べて、一そうによくこんな客観的事業の真諦を会得すべく恵まれているとは云えぬだろうか」(「人生は短く芸術は長し」)。このように述べられる「客観的事業」とは何を指しているのかわかりにくいが、ここで「則ち我身の外に生くるを知る事においてはじめて聖なる事業に参加が出来る」(「山田有勝兄への書翰」)とある「聖なる事業」がそれを指しているのかもしれない。その内容が続く引用によって具体的に記されている。すなわち、「「人は己を棄てて同胞の福祉を作り出し、建設し、増加すべく努力するとき初めて人間に、神の似姿になり始める。彼がただ自己自身のためにのみあるとき彼は一たい何であるか?」(ヒルシュ・イスラエルの祈祷)――まことにその通りだと思ったのでした」。
☆「文化と文明」「道徳」「聖者」「ショーペンハウエル」「意志の否定」「ヒルティ」「キェルケゴールの悲惨!」「ゲーテとエッケルマン」「イスラエルの神」

10月 ★「月に寄せて」<婦人画報>[8-245]
☆「月と虫」(昭和14年12月)と同様に、ヤモリが出てくる。「金色の眼をした守宮よ、……けれども今は秋だ、お月さまが冴えてきた、もうじき望月になる。来年にまた出てきたまえ!」とあるので、9月のお月見前に書いたのだろう。

チフスで大塚病院に入院
10月のかかり
★未だ十月のかかりで、小春日和が続いていた。風邪だとは思えない。そんなら何処が悪いのか、とも別に考えなかった。……このような数日が経つと、もう何も彼もが億劫になり、このいびつな、がらんとした建物の玄関脇の三畳に、彼はつっかい棒になって横たわっていたのである。(「世界の巌」『全集7』p.416)
☆チフスに罹っていたこと。

十月のかかりに、墓地の写真を撮りに来た人があって、誘われるままヤマニで昼飯を食った。この時、目刺が嘔気を催す生臭さであった。……三畳の突っかい棒になって横たわっているうちに二、三週間が流れ、裏の別館住いの画家が金鵄を一箇ほうり込もうとして硝子戸を開けた時に、これは棄てておけぬ、と思ったらしい。(「世界の巌」『全集7』p.431)
☆画家とは津田季穂のこと。

10月終り
★入院前は、すでに十月も終りだというのに、自分はよれよれのゆかた二枚の重ね着であった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.30)

秋遅く
★……身辺の誰彼が、最も近くにあった病院(いまの戸山町国立第一病院)へ、診察を受けるために連れ出してくれたが、この秋遅くの自動車道中がいつまでも続くように私は願っていた。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.29)

★晩秋の寒いけれども実は暖いと云ってもよい午後の陽が射した山の手のアスファルトの上を、クッションに身を委ねて揺られて行くのは、物憂く、快かった。(「世界の巌」『全集7』p.432)

★その友の顔が何故か観音さまに見えた。酔ったあげくにこの男に向って毒舌を吐いてから丸一年、当方から敢て逢おうとはしなかったことが、急に後悔された。そんなことも忘れて、今日此処まで友は出向いてくれた。それにしても本物の菩薩がやって来ているのではあるまいか?……でも、背広を着た観音さまがあるだろうか……あってよい……変通無礙の相手ではないか……その多種多様の観自在の中にあって、これは特にハイカラーな菩提薩□(土偏+垂)なのであろう……――先達って読んだ起信論中の一節を喚び起しながら、彼は思うてみる。(「世界の巌」『全集7』p.434)
☆「その友」とは衣巻省三のこと。喧嘩して1年間逢っていなかったという。
☆観世音菩薩に言及していること。
☆この頃、大乗起信論を読んでいたこと。

◇あの、さそい込まれるようなチブスの高熱中にも、そのことが気になって「このたび死ぬようなことがあっても、大阪の身内だけには絶対に知らせてくれるな」と、うとうとするなかでも、病院までつき添ってくれた津田季穂さんに繰り返しいったものだ。(p.182)

★電燈がつく頃、やっと病室が都合された。彼は廊下の一等外れの真四角な、厚い壁の部屋のベッドに移った。此処で、世話婆さんと共に一週間が送られることになった……(「世界の巌」『全集7』p.435)

11月上旬
★typhusだと診断された。隔離病院の方へ廻されることになった。……そんなに寒い、けれどもやって来た日と同じ良く晴れた十一月上旬の午後だった。(「世界の巌」『全集7』p.438)

★その病院の個室で数日を送った。病名が判って大塚病院の大部屋へ廻された。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.29)。
☆「その病院」とは、診察をされた戸山町国立第一病院のこと。
☆萩原氏の年譜では、大塚病院入院は「十一月上旬」とある。

★果して数え年の厄年に、チフスで二ケ月間大塚病院へ収容された。病床で太平洋戦争を迎え、入院中に、飯塚は国民酒場に変更された。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.131)

11月 ★「蘆」<意匠>[8-247]

11月 ★「愚かなる母の記」<婦人画報>[7-190]
☆前半部のみ。後半部は昭和17年9月の「新風土」へ。

11月 ★「非情物語」<月刊文章>[→「水晶物語」1-214]

12月 ★「触背美学に就いて」<文芸世紀>[8-254]
☆『星の都』では「2月」となっているが、間違い。
☆『全集』では「就て」となっているが、初出は「就いて」。
☆中川四明の『触背美学』の本のことは少年時代に知っていた。しかし、「先日或紳士の口から、その昔の言葉について説明を与えられた。その事についてここにペンを執ってみる」とあり、「……との事である」「……相である」という書き方から、これを書いているときは実際には『触背美学』をまだ読んでいなかった模様。

12月8日
★あの十二月八日、私は大塚病院の伝染病舎のベッドにいた。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.28)
☆太平洋戦争勃発の日。

★平食が許されたのは、廊下の向うにラジオの拡声器が響いて、南支那海方面の海戦開始が報じられている折であった。(「死の館にて」『全集7』p.454)

★昭和十六年十二月八日、南シナ海方面の海戦がラジオで報ぜられていた時、私はチフスで大塚病院の大部屋にはいっていたが、……(「ユメと戦争」『全集11』p.308)

★……俺の病室では、筋向うのベッドへ半月ほど経ってからやってきた少女が、その数日目に亡くなったということがあった丈である。……俺は、彼女の安らかに憩わんことを、しかあらしめ給えと念じた。此朝から俺は、正月に公教要理を読んで以来二ヶ月間続いて、それっ切りになっていた主の祈りを毎日唱えることにした。(「死の館にて」『全集7』p.455〜456)
☆この年の正月にすでに「公教要理」を読んでいた。関口教会に通い始めたのは、2年後の昭和18年12月。

★私は現実の開戦に何の関心もなかった。只間近に迫った退院のために、キモノを都合してくれるように「カルトブランシュ」の同人に云ってやった。澤渡恒は三河島辺りで新らしく仕立てたのを買ってきてくれたが、それはうすっぺらな袷とじゅばんだけであったから、……(「ユメと戦争」『全集11』p.308〜309)

12月26日
★冬至が過ぎて、俺の誕生日の午前、許先生は、結果退院(午後の検便の結果、菌がなかったならば退院してよろしい)の由を助手に告げた。(「死の館にて」『全集7』p.454〜455)

12月27日
★一九四一年十二月二十七日。……今度の衣裳を調えてくれたS青年とTと連立って、クレゾール臭い館を出た。(「死の館にて」『全集7』p.455)

★そこ(大塚病院)に二ケ月近くを過して、誕生日十二月二十六日の翌日に退院した。さすがに元の数学塾の三畳へは戻れないので、横寺の通りをへだてた反対側の路次うらに二階借りをしていた人の許に、暫く置いて貰うことにした。以前は千葉県のへんぴの小学校の先生で、いまは矢来町の広告屋につとめている青年であった。……結局、元の東京高等数学塾の玄関脇の小室へ帰るより他はなかった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.29〜31)

★丸三ヶ月間留守にした神楽坂上へ、俺は再び生きて戻ってきた。(「方南の人」『全集7』p.331)
☆これはチフスによる入院を指しているのではないか? ただ「丸三ヶ月間」というのは少し長いが。

★あなたの留守中に、あなたが中央公論に出した鮹と鰐の話を読んだと告げた。タコとワニの話? なんのことだろうと考えて、仏蘭西作家のそんな童話の翻訳があったことに思い当った。(「方南の人」『全集7』p.332)
☆ヤマニバーのおトシちゃんが言ったこと。おそらくタルホがチフスで入院していた留守中の意。
☆これは山本夏彦が翻訳して「中央公論」(1939年)に発表したレオポルド・ショヴォー原作の絵本『年を歴た鰐の話』のことではないだろうか。おトシちゃんは2年前の「中央公論」を読んだことになる。
☆この『年を歴た鰐の話』は、昭和16年に桜井書店から単行本として刊行された。
☆なお、この絵本は2003年に文藝春秋から復刊されている。

★夜具はやはり澤渡が持ってきてくれた。毛布を台にした掛布団一枚であったが、これがすぐ入質になったので、私は再び夜具なしに逆戻りしてしまった。日中戦争が始まった年から、昭和二十五年二月に京都へ引越すまで、途中で早稲田戸塚グランド坂上の宿屋に居た僅かな期間をのけて、私は足掛十四年間夜具なしの日々であった。(「ユメと戦争」『全集11』p.309)


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