1月 ★『空の日本 飛行機物語』《三省堂》[6-457]
2月
★トシちゃんは去った――二月に入って、二週間ほど俺が顔を出さなかったあいだに。「お目出度う」と彼女が云ってくれた俺の本の刷上りを待たずにトシちゃんは神楽坂を去った。(「方南の人」『全集7』p.332)
☆この本とは『空の日本 飛行機物語』(三省堂、昭和18年1月31日発行)であろう。この記述の後に、(ヤマニの)トシちゃんとの付き合いが「足掛六年の月日だった」とある。もし『山風蠱』(昭和15年6月)だったら、付き合いは上京前の昭和10年からとなり矛盾するからである。
7月 ★「善海」<『辻小説集』、八紘社杉山書店>[12-295]
8〜10月
★戦時中の真暗な晩、……八月から十月へかけての星の夜ぞらを観察したことがある。(「きらきら日誌」は)その間のメモの配列である。この直角三角形に囲まれているのが、即ち「タルホ聖域」である。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.128、『全集11』p.483)
☆改訂作である「横寺日記」(『大全1』p.173)に、「青少年向きの『日本天文学史』(『星の学者』のこと)をかいて、印税の前借が出来た」とあるので、この8月から10月は昭和18年のことであろう。それを書いたあと、「星座の総ざらえをしようと思いついた」とある。
☆同書p.175に、「家を失って横丁の履物職の離れに寝泊りしていた折であった。……更に七年の月日が流れて」とある。履物職の離れに居たのは昭和11年であるから、それから7年後ということは、やはりこの日記の内容は昭和18年だということになる。
☆『タルホ=コスモロジー』によると、「タルホ聖域」が「直角三角形」とあるが、地図で見るとこのサンクチュアリは、むしろ「おむすび形」で、「正三角形」である。
☆「きらきら日誌」は(昭和18年の)8月7日から10月29日までの日付入り日記体裁。しかし、初出はそれから5年後の「文潮」(昭和23年10月)である。昭和20年4月の空襲罹災などを経て、その間、メモあるいは草稿を残していたのだろうか?
☆同日記10月6日の項に、カントになぞらえて、みずからの学校のキリスト教的環境への言及がある。また、10月29日の項からは、この頃、聖フランシス伝を読んでいたことがわかる。
☆同日記10月18日、29日の項に、辻潤がやって来たことが記されている。
☆同日記10月29日の項に、一昨年の春、金星、火星、木星、土星が一直線に並んだとある。
★五六年前、有楽町駅前の天文館に用があって出向いたとき、あの建物の入口に、これからどうしようかという工合に佇んでいる中年の婦人があった。傍に十二三歳の男の子がいた。あの女子大の子さんだった。(「美少年時代」『星の都』p.253、『全集12』p.341)
☆「鉛の砲弾」にも出てくる女子大の水泳選手Oさん(「美少年時代」のテキスト「…子さん」は脱字か)。「美少年時代」は昭和24年8月発表なので、「5、6年前」で天文館に用事があるとすれば、『星の学者』執筆のためであったろうから、昭和18年のこの頃のことであろう。
☆「横寺日記」の9月5日の項(『大全1』p.186)に、「お午すぎ毎日会館の玄関わきで、これからどうしようかというふうに佇んでいた中年婦人は、鶴見のS子さんではあるまいか? 十五、六の男の子と一緒だったが、当然な話であれからは二十年経っている」とあるのは、上記のOさんの記事と同じものではないだろうか。
★この稿(『星の学者』のこと)が成るのを待ちかねたように沢渡はやってきて、原稿の束を抱えて帰ったが、二、三日して小包で送り返されてきたのである。……日本天文学史『星の学者』は、法政大学の隣りの芝山教育出版社につとめていた山田が引き取ってくれることになった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.35〜36)。
前秋
★その前秋、『星の学者』が刷上って、法政大学の隣りの芝山教育出版所とのあいだを行ききしていた頃、……登ってきたシルエットが……久方ぶりの辻潤で、(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.101)
☆終戦前年の「前秋」ということなので昭和18年ということになる。
★その(辻潤の)晩年には、二ケ月にわたって、新宿から夜更けの一時二時頃に、歩いて、私の三畳まで泊りにやってきた。(「唯美主義の思い出」『大全6』p.423)
☆「横寺日記」の「10月18日」「10月29日」の項(『全集7』p.364)に、辻潤が出てくる。この頃のことか?
去年の今頃
★去年の今頃、私の上に或る齟齬が起こった。それは数年来の努力を反故にしてしまうような種類であった」(「有楽町の思想」『全集8』p.30)
☆「有楽町の思想」の10月19日の項にこのようにある。同作品は昭和19年の出来事を記しているので、「去年」というと昭和18年のことになる。
去年のちょうどいま頃
★去年のちょうどいま頃に気付いたことだが、総ての準備を終って何事かを待つばかりになった気持、遠い所への出発直前のような心持……これを手に入れたいものだ。(「有楽町の思想」『全集8』p.34)
☆同じく「有楽町の思想」の12月2日の項にこのようにある。上の「齟齬」の問題と関係があるようだが…。このことは関口教会に通いはじめる直前の時期に当たる。
関口教会へ
12月16日
☆萩原氏の『稲垣足穂の世界』(新評社、1981年)の年譜では、昭和18年の項に、「関口教会の公教要理の勉強に通いはじめたのは、この年の12月からではないかと思われる」とある。
☆「幼きイエズスの春に」(『タルホ=コスモロジー』p.211、『全集』8巻所収)は、 12月16日から翌年4月20日までの日記体。冒頭、12月16日木曜から関口教会に通いはじめたことが出ている(ネット上の「1000年カレンダーhttp://www5a.biglobe.ne.jp/~accent/kazeno/calendar/index.htm」によれば、確かに1943年12月16日は木曜日である)。
☆2年前の昭和16年の正月には「公教要理」を読んでいる。→大塚病院の項。
☆翌年1月28日にH(服部正喜)が亡くなったことになっている。