1月2日
★終戦前年の一月二日の午前、高等数学塾玄関の受附口がついた三畳の硝子越しに、「祝おうじゃないか」と云う辻潤の声がした。……これがおしまいになっている。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.101)
☆同様の記述が「唯美主義の思い出」(『大全6』p.424)にある。
1月28日
★Y老がにじり出て「今のさっき、一時五分にまいっちゃった。可哀相なことをしちゃった」「苦しみましたか」ずっと以前、やはりこれと同様な場合に口に出した言葉が、私から出た。(「幼きイエズスの春に」『全集8』p.11)
☆H(服部正喜)が亡くなった日が、「幼きイエズスの春に」の1月28日金曜の項に。
6月 ★『星の学者』《柴山教育出版社》[5-275]
秋?
★今回の連続的な単行本の仕事(『空の日本 飛行機物語』と『星の学者』のこと)については、年来のタルホファンが、彼らのつとめている会社の事務所用紙や謄写刷を都合してくれた。……執筆は古畳の上に腹匍いになってなされていたが、小山書店加納正吉の要請で風土記『明石』に取りかかると、やり方は多少変更されねばならなかった。漸く寒くなって……」(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.38)
☆戦後昭和23年4月に発行された『明石』の原稿は、順序からすると、この年の冬に向かうころから数学塾で執筆していたことになる。
☆「タルホ=コスモロジー」(『タルホ=コスモロジー』p.164、『全集11』p.501)には、「いよいよ刷り上って市場に出ようとした間際に、東京最初の夜間空襲で焼かれてしまった。倖い店主が田舎へ送っていた見本の一冊が残っていたので、これに拠って二度目の稿を千葉で書いた」とある。
☆『明石』(昭和23年4月)の「はしがき」(『全集13』所収)には、「この本は一九四四年の晩秋、市場に出る間ぎわに焼失してしまった。見本として別な所にあった一冊によって、今回訂正を加えて出すことになった」とある。
☆「有楽町の思想」(初稿)12月2日の項には、「午前小山書店へ行つて、こんどの本が焼けてしまつたことを知らされた。紙型はあるから再製するとのこと。一つのきよめだと囁く者が内心にある。総じてこの種のことはどうでもよくなつてゐる自身に気がつく」とある(この部分は後の改訂で削除されている)。東京への空襲は昭和19年11月24日(武蔵野市・中島飛行機製作所)から始まったということだが、そのときのことだろうか?
鶴見のいすゞ自動車工場へ徴用
10月3日
★僕は飯塚の行列と関口教会における週二回の公教要理の勉強を掛持ちしていたが、その間に、青少年向きの飛行機譚、日本天文学史『星の学者』風土記『明石』を書いた。さてあとは……と案じるまでもなく、鶴見海岸のいすゞ自動車が身柄を引受けてくれることになった。……其日(昭和十九年十月三日)……(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.131)
☆いすゞ自動車へ出向いた日が、下記の「東京遁走曲」の記述「十一月三日」と異なり、ここでは「十月三日」となっている。
☆配属先は「生産管理課」とある。
☆いすゞ自動車工場に行くときには、すでに『明石』(焼けた第1稿)を書き上げていたことになる。
★兼常清佐氏のすすめで、私は『二十世紀宇宙論』の執筆に取りかかったが、この仕事の半ばに、鶴見海岸のいすゞ自動車工場へ徴用された。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.121)
☆「雑司ケ谷の奥に住んでいる兼常清佐は、夙くからの私のファンだった。『星の学者』を一部贈ると折返し手紙をくれて、「この要領でこんどは宇宙論を書いて貰いたい」」(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.37)とあるので、この年の6月頃から原稿を書いていたのであろう。また、「宇宙論入門」の下書を作っていたときに、「日本の天上界」のアイディアが浮かんだことが『タルホ=コスモロジー』(p.105、『全集11』p.473)に見える。
☆1924年8月、1945年4月13日の項参照。
☆兼常清佐(かねつね・きよすけ、1885−1957)は、山口県萩生まれの音楽学者。
10月8日
★……近頃朝早く東京都の中心を抜けて鶴見まで通っている私が、……(「有楽町の思想」『全集8』p.29)
☆「有楽町の思想」は、10月8日から翌年3月15日までの日記体(初稿とは日付に若干の違い、および統廃合がある)。この日付によれば、10月8日にはすでに鶴見に通っているようなので、いすゞ自動車に通いはじめたのは11月3日でなくやはり10月3日のようだ。すなわち、「有楽町の思想」は昭和19年10月3日から翌20年3月15日までの日記ということになる。
11月3日
★鶴見海岸のいすず自動車へ出頭の昭和十九年十一月三日は、「小さきイエズスのテレジアの日」であった。……当分は帰らないつもりで、『宇宙論』の下書は質屋に預けた。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.41)
☆いすゞ自動車の営繕課にいた若いM・O君に、タルホはラゲ師訳のカトリック用聖書を買い与えている。
☆「有楽町の思想」の10月19日の項には、「「小さきイエズスのテレジアの祝日」以来、自分が工員服を着て、鶴見海岸の自動車工場へ通勤しているのは、良きことに思われる」とある。
★ところが退院後からはそろそろ金がはいるようになった。即ち「飛行機物語」(三省堂)、「星の学者」(芝山教育出版社)が刊行されたからであるが、それも束の間。私への施主である若い連中が兵隊と工場へ取られてしまって、自分にはこの先見込みは全くなくなった。もしここに徴用がなかったら……この意味で戦時状態は私の救いぬしでもあったのである。誰かが東宝の楽屋からパクってきた、ペンキが附着した黒い仕事着、宿許の「東京高等数学塾」の主人に借りた古ズボン。……これにトイレ用の竹の皮草履といういでたちで、私はいすゞ自動車工場へ出頭した。(「ユメと戦争」『全集11』p.309)