1945(昭和20)年 44歳 空襲で横寺町焼失



1月頃?
★年が改まってから大雪があった。……月々給料を貰っていたので、この時分は(数学塾の)玄関の受付部屋から裏庭の別館六畳へ引き移っていたのである。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.43)
☆「年が改まってから」とは、いすゞ自動車へ通い始めた翌年のことであるから、昭和20年1月頃のことか。
☆「月々給料をもらっていた」とある。

★翌年の一月にひどく雪の降ったことがある。……膝に届くほどの積雪の中を横寺町うらの数学塾の一室に辿り付いて、塾から借りている火鉢の中で古雑誌を燃して両手を焙ってから寝たが、夜具はムシロ一枚。この蓆は以前ここに居た画家が残していった代物である。(「ユメと戦争」『全集11』p.310)
☆「画家」とは、富永踏のことであろう。

★太平洋戦争も終局に近付き、牛込横寺町から鶴見海岸のいすゞ自動車へ通勤していた頃、メモを取って置いたのをまとめた(「有楽町の思想」のこと)のである。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.153、『全集11』p.495)
☆牛込横寺町から通勤していたとあるので、横寺町が空襲に遭う前のことであろう。
☆同頁に、「放熱器」は勤務先の冊子「いすゞ」に載せた、とあるが未見。この作品が『悪魔の魅力』(昭和23年7月)に収録された「放熱器」であろう。

1月28日
★Hの一周忌なので花を買うつもりでいたが、神楽坂には花屋は来ていない。このお月様をもって代理としよう。(「有楽町の思想」『全集8』p.38)
☆「有楽町の思想」の1月28日の項。1年前になくなった服部正喜のこと。
☆2月に入ると空襲が激しくなった様子が窺える。

2月 ★「私と放熱器」<いすずの友>[→「ラジエーター」8-87]
☆『大全6』の作品年譜(松村実編)に記載あるも未詳。
☆これがひょっとして「タルホ=コスモロジー」で「いすゞ」に載せたという「放熱器」のことではあるまいか?

空襲で横寺町焼失
4月13日
★四月十三日は、その数日間を休んで明朝は出勤しようと思っていた矢先であった。……『宇宙論』の草稿は、通勤ときまったので質屋から出していた。未整理資料と合わしてひと抱えになる風呂敷包みを持ち出した時、飯塚酒場とその裏の質店に焔の舌が届いたことが知らされた。次には数学塾の中庭の数株の古樹が照明を受けたようになり、建物も木々も間もなく火に包まれてしまった。荷物を、矢来通りの路次うらに焼残った家にあずけて、二週間のちに取りに行ったが、このすぐあとに第二次空襲があって、……。まず余燼の中を大森駅から歩いて、池上徳持町に波多江を訪れた。私を現場の立ちん棒からひろい上げてくれた若い課長補佐の住いである。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.45〜46)
☆ここでは横寺町が焼けたのは、4月13日となっている。4月13日の空襲で数学塾を焼け出されたあと、おそらくすぐに波多江方に留守居として身を寄せたものと思われる。したがって2週間後に矢来に荷物を取りに行ったのは、この波多江方からであろう。この波多江の家に梅崎春生が同居していたが、応召中で留守であった。

★宇宙論(兼常清佐のすすめで執筆を始めた『二十世紀宇宙論』のこと)に関するノート類は、十年近い間の巣になっていた牛込横寺町の数学塾に残してあったが、あの界隈が火の海になった夜はちょうど鶴見から帰っていた時で、危うく消失をまぬがれた。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.122)

★彼は二月に入ると半島の若者らの監督役を命じられ、名目だけとは云いながら同僚の手まえ寮に幾夜も重ねて泊まることがあった。それが東京へ帰ったままずるずると二週間が流れ、明日は鶴見へ顔を出さねばならないと考えた日のちょうど深更に、彼の住む神楽坂一帯は紅蓮の火の海となった。そして自己の怠惰に鞭打って、彼はこの時風呂敷包み一箇を救い出したからである。(「夏至物語」『全集8』p.45)

4月14日
★昭和二十年四月十四日の夜更、それとも十五日になっていただろうか、真紅な煙に閉じこめられた空から頻りに舞い落ちてくる燃殻を見上げながら、私は、もう二十年も前に、ある未知の若い女性から貰った手紙の文句を思い合わしていた。(「飛行機の墓地」『大全6』p.342)

池上徳持町の波多江方へ
4月15日
★翌年四月十五日の夜半に、硯友社以来さまざまの文学的思い出を持つ旧横寺町は、僕の巣は、灰燼に帰した。ここで僕は池上に移り、会社の恩人波多江の住いに身を寄せた。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.132)
☆この「四月十五日」は、『大全5』(p.82)収録時には「四月十三日」となっている!

4月15日
★父のかたみの鼓ケイスは、それから間もなく、昭和二十年四月十五日の夜半の空襲に、法正寺墓畔の東京高等数学塾の建物と共に灰になってしまった。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.136)
☆数学塾が焼けた空襲の日に、4月13日と4月15日の食い違いがある。
☆以下の資料からは、このときの空襲は4月13日夜のようである。「B29、330機、東京を4時間にわたり無差別爆撃」(『昭和2万日の全記録(7)』講談社、平成元年、p.70)、「4月13日23時頃より約4時間に亘り、B29約170機、主として帝都に来襲し、爆弾、焼夷弾を混用、市街地を無差別爆撃せり」(『昭和ニュース事典VIII』毎日コミュニケーションズ、1994年、p.555)

★四月半ばの生暖い深更に、牛込一帯は天降った火竜群の舌々によって舐め尽されてしまった。お湯屋の煙突と、消防本部の格子塔と、そして新潮社のたてに長い四階建を残したのみで、俺の思い出の土地は何も彼もが半夜の煙に。(「方南の人」『全集7』p.335)

★ぴかぴかする飛行機は、これより以前に、神楽坂上の住いを焼け出された翌日の夜半近くに、避難先の市ケ谷国民学校の運動場から、真南に当って、望見された。(「飛行機の墓地」『大全6』p.343)

★宿を失ってから三晩世話になった附近の小学校の庭に、八重桜が今は零れそうに咲いていた。(「夏至物語」『全集8』p.46)

4月下旬
★昭和二十年四月の下旬、横浜がやられた当日に、私はつとめていた鶴見海岸のいすゞ自動車工場の対岸に、ガス会社が吐き出しているものとして、まるで染料そのもののような毒々しい黄色を始めて眼にとめた。(「新歳時記の物理学」『大全6』p.516)

★ちょうど一ケ月目に、こんどは池上本門寺の麓で、私は再び火焔と煙の只中に包まれて倒れそうになり、こんな時には身を屈めて匐うようにすれば呼吸が続けられるということを知った。(「飛行機の墓地」『大全6』p.344)
☆池上徳持町にいた時期のことか?

★大森おくの本門寺のふもとに移ると、今度は別な紅い木花が眼にとまった。……あとは一望の焼野と成り、人々は此瞬間もサイレンと頭上の青地に浮ぶ白絣のような飛行機群に怯えているが、……(「夏至物語」『全集8』p.46)

★一九四五年の春、東京都大田区蒲田の一望の焼趾に、ところどころ残った生垣の中でいち早く花をつけて人間世界の戦争騒ぎをよそにした大自然の悠久性においてボクを感心させたもの、じくの周りに緋色の花が房形に群がっていたが、その花もここにある。やはり木花だ。(「宇治の景色」『全集12』p.356)

5月 ★「有楽町の思想」<文芸、5・6月合併号>[8-29]

6月6日
(倉橋弥一の)死体発見は昭和二十年六月六日の朝であった。(「轣轆」『鉛の銃弾』p.38)
☆「世界の巌」(『全集7』p.429)に、「寒い雨の日に彼を二番町に伴うたY・Kの不慮の死があった」とあるのは、倉橋弥一のこと。

南武線稲田堤の農家へ
6月中旬
★波多江の家は難を免れたが、これも六月中旬にはたたんで、われわれ二人は南武線稲田堤の農家の二階へ引越した。それから八月のはじめにこんどは一人で横浜弘明寺へ移るまで、……(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.46〜47)
☆「われわれ二人」とは波多江とのこと。つまり稲田堤へは彼と二人で移った。
☆「『夏至物語・別名菫の形而上学』はこの期間の体験である」とあるのは、稲田堤から鶴見海岸へ通勤していたこの時期ということ。
☆「タルホ=コスモロジー」(『タルホ=コスモロジー』p.128、『全集11』p.483)にも、「初めは「菫」という題であった。次に「菫の形而上学」に改めて漸くまとめることができた。「夏至物語」は傍題であった」とある。

★六月の中頃になって、彼は小田急線多摩川を越えた所の山際に引越したが、……(「夏至物語」『全集8』p.47)

★……、主人と同居人は、池上本門寺下から登戸の方へ引越すことになった。武蔵野外れの山ぎわでは、疎開工場の普請が日に日に進捗しつつあった。……ペンテコステ第四の主日に、彼は家財を積んだ荷馬車の上にまたがって、赤い焼跡から多摩川向うの濃緑の里へゴトゴト出発した。(「夏至物語」『全集8』p.54)

6月
★六月に入ると僕は波多江と共に疎開工場がある登戸へ引越して、稲田堤の農家に間借りした。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.132〜133)

6月末
★神楽坂上を焼け出されて、私は池上徳持に移り、六月末になって登戸へ越した。しかし、此処の谷間に建設中の疎開工場で私の役目がきまらなかったので、毎日、稲田堤の農家の二階から元の鶴見海岸まで通勤していた。(「工場の星」『大全6』p.350)
☆同様の記述が「夏至物語」(『全集8』p.56)に。この時期、ジャック=シュヴァリエの『パスカル』を読んでいたとある。

★この四月に牛込一帯は焼野原になってしまったので、池上徳持町の課長補佐の家に私は世話になっていたが、やがて登戸の疎開工場附きになった彼と共に、稲田堤の農家の二階に移って、そこから鶴見海岸へ通勤していた。(「ユメと戦争」『全集11』p.311)

横浜弘明寺へ
8月初め
★それから八月のはじめにこんどは一人で横浜弘明寺に移るまで、……(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.46)

★八月に入ると、私は例の風呂敷包み一箇をたずさえて、横浜の弘明寺に越した。鶴見工場の他の課の人が、「自分は弘明寺の姉の家に世話になっているが、暫く妻子の疎開先へ行ってくるからそのあいだ僕の部屋にいてもいい」と言ってくれたからである。……十日余りお世話になることになった。勅語らしいものがお昼のラジオで鳴っていたのは、ここでの話である。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.47〜48)

★ところが農家でも「御飯の食べ方がいそがしい。食べ終るなりプイと二階へ上ってしまう」の理由で私は追い出されることになり、鶴見工場の機械課の人の世話で、横浜弘明寺の彼の姉の家へ(そこに間借りしていた弟が帰省の期間だけ)その二階で寝起きさせて貰うことになった。これから四、五日目のお昼に、ラジオの勅語を耳にした。感想なし。只、「こんなことでもなければ軍人が威張って仕様がなかろう」と思っただけである。(「ユメと戦争」『全集11』p.311)

★課長は私に、雪ヶ谷寮でヌートリアの世話をするように命じた。(「ユメと戦争」『全集11』p.311)

8月13日
☆「雪ケ谷日記」(『大全4』p.444〜453)は、8月13日から1月30日までの日記体。昭和20年から21年にかけての事柄であろう。

ディーゼル自動車雪ヶ谷寮へ
8月15日
★農家に断られて、僕一人は横浜弘明寺に越し、一週間経って終戦当日に、ディーゼル自動車の雪ケ谷寮へ廻された。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.133)

★聖マリア被昇天の祝日。正午、ラジオの君ケ代が聞こえていた。下痢している為、雪ケ谷への引越しは明日に延期した。八月十五日(「雪ケ谷日記」『大全4』p.445)
☆雪ケ谷行きの辞令は8月15日だったが、実際は翌16日になったということであろう。

8月16日
★数日をおいた真夜中に、通勤中の鶴見海岸の工場地帯に間断なしに閃光が立っているのを遠望して、横浜の弘明寺に引越した。この二週間中に正午のラジオを聴いた。翌日更に池上の先の雪ケ谷に越した。此処に会社の寮があって、その裏庭に飼われているヌートレアという小動物を世話するためにである。(「工場の星」『大全6』p.350)

★私は終戦の翌日から池上線雪ケ谷のディーゼル自動車の寮にいたが、……(「飛行機の墓地」『大全6』p.341)

★この数日後に課長から、「雪ケ谷寮でヌートリアの世話を見てくれないか」という話があったので、私は風呂敷包を持って引越した。コの字型の長廊下の両側に個室が五十近くもある赤屋根の二階館であった。……私の部屋には人形以外に教科書類が残されて、そこに見付けた国語読本のなかの謡曲羽衣が、私に『日本の天上界』を書かせたのである。正確に言うと、稲田堤の二階住みの時から始まっていた執筆が、この『羽衣』の刺戟によってふくれ上ったわけだ。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.49)
☆「この数日後」とは、終戦の勅語があってから、すなわち8月15日から数日たってということになる。
☆「日本の天上界」については『タルホ=コスモロジー』(p.105)に同様の記述。

8月18日
★居残っていた高工生の部屋で、吉行エイスケ君の義弟だという人に会った。辻潤氏が亡くなったことを初めて聞かされた。……八月十八日。(「雪ケ谷日記」『大全4』p.445〜446)
☆同様の記述が「唯美主義の思い出」(『大全6』p.424)にある。

★辻潤の死を知ったのは、頭上に星章機が我物顔に飛び廻り、雪ケ谷寮には日々に学徒の数が減って中庭にはトーモロコシばかりが揺れている時のことであった。辻二世の知合いだという横浜高工生がそれを伝えてくれた。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.100〜101)
☆辻潤の死は前年の昭和19年11月。

9月6日
★蓮沼の古本屋の棚で『小さきイエズスのテレジア』の英語の本を見付けた。彼女の自叙伝を少年少女の為に書直したもので、生家や両親きょうだいの肖像や、其他のペン画が沢山はいっている。九月六日。(「雪ケ谷日記」『大全4』p.448)

9月20日
★池上に降りて、本門寺背後の広いアスファルトの道を馬込へ出向いた。……室生さんの離れに居る衣巻省三は不在、近くの洋館に、神戸の画家坪井甚喜の標札を見て案内を乞うたら、当人が現われた。……九月二十日。(「雪ケ谷日記」『大全4』p.448)

10月2日
★“Life of Madame Guyon"──先日神田の松崎で見つけておいた本を買った。十月二日。(「雪ケ谷日記」『大全4』p.451)

10月13日
★四国のTから水彩画を描いた葉書が来た。……十月十三日。(「雪ケ谷日記」『大全4』p.451)
☆Tとは津田季穂か。

11月8日
★今日、久我山に訪れた初対面の東郷青児である。……十一月八日。(「雪ケ谷日記」『大全4』p.451)

★雪ケ谷寮にいたあいだに、私は久我山に東郷青児をたずねた。彼に対しては、はたちの頃に長い手紙を書いたことがある。彼が二科へ出した『パラソルをさせる女』と『彼女のすべて』に自分は心酔していたからだ。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.51)


★やっと彼を捉えたのは(東郷青児に会えたのは)、終戦の年の秋である。(「新感覚派前後」『大全6』p.405)

★……と(雪ケ谷寮の)寮長は言って、私を彼の弟と更迭させた。……「部屋にばかり籠っていて何をやっているのか」ということになって、月給が止められてしまった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.49)
☆このことが何月のことか不明だが、次に池上線長原に転居する直前のことだとすると、昭和21年1月まで雪ケ谷寮にいたことになる。また、このとき昭和19年11月以来1年余りのいすゞ自動車勤め、すなわち月給生活が終わったことになる。

★「イナガキ君困るじゃないか」と云って、私は寮長の弟と入れ換った。このヌートリアの囲いの傍で、私は、課長補佐の波多江に、彼の友人で復員してきた、どこかヌートリアに似ている文学青年を紹介された。これが梅崎春生である。(「ユメと戦争」『全集11』p.311〜312)


★彼が佐藤春夫の許に出入りしていることは、私の耳に入っていた。(「三島ぼし隕つ」『全集11』p.299)
☆「彼」とは三島由紀夫のこと。三島由紀夫が初めて佐藤春夫を訪ねたのは昭和20年6月ということだが、翌21年以降は川端康成と親しくなっていくので、このことは終戦を挟んだ極めて短い間のことであろう。
☆冒頭に、「私はずっと以前に、平岡公威の作品集を読んだことがある。いやにゴタゴタした装飾癖はその頃から見受けられたが、それはいかにも学習院出のおん曹子が編んだ湘南文学であった」とあるのは、『花ざかりの森』のことを指しているのであろう。なぜなら、その少し後のページに、「私は平岡公威の『花ざかりの森』は読んだが、三島由紀夫の作品には更に眼を通す気になれなかった。でも辛抱して、『禁色』を辿りかけたことがある」とあるからである。それを読んだのはいつ頃か? なお、『花ざかりの森』(昭和19年10月刊)は平岡公威でなく三島由紀夫の名前で発行されているので、タルホは誤解している。


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