1月 ★「天文学者といふもの」<文芸世紀>[5-241]
池上線の長原へ
★やっと、池上線長原のアパートから読売へ通勤している西堀青年に頼み込んで、しばらく彼の部屋へ同居させてもらうことになった。これが昭和二十一年一月の話である。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.52)
1月30日
★新宿の人込の中を、折から昼休み中のKと一緒に歩きながら思った。……古本屋の棚に、『P=クローデル、ジャック=リヴィエールへの書翰』という小冊子があったので、開けると……一月三十日。(「雪ケ谷日記」『大全4』p.453)
☆Kとは衣巻省三か? これは雪ケ谷寮を出た後のことか?
3月31日
★又あの日、林檎だったか饅頭だったか、その味は未だに忘れられぬうまいものを二つ食わせてくれたR・Tは、その後一年経って忽焉と逝ってしまった。(「世界の巌」『全集7』p.419)
☆このR・Tとは武田麟太郎。この日が命日。
4月
★四月には、飯塚酒場の常連でこんど中野の橋場町に家を買った人の許に数日間泊めて貰って、そのあいだに新潮の随筆『新生の記』を書いた。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.52)
青梅線の中神へ
★それから青梅線の中神に引移った。横寺時代に知り合った画家のアパートであるが、勿論相住みである。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.52)
☆それからとは橋場町に数日間居た後。
★東京郊外といっても、立川から青梅線に乗換えて三つ目(中神のこと)だという辺鄙さは、(折からの夜更けのこともあって)私をして今回の引越しを後悔させた。(「飛行機の墓地」『大全6』p.341)
☆同書p.344〜345に、駅前からの道筋の様子の記述がある。
★いまやペンテコステが迫って四辺に充ち溢れている生命力を裏付けているものでないか。今日は代々木に用事がある。(「飛行機の墓地」『大全6』p.347)
☆ペンテコステ=五旬節はいつか? 代々木への用事とは小山書店のことであろう。
★私はいま青梅線の中神にいる。……住いは駅から十五分間、小さな廃駅の終点ぎわの、瓦工場に隣り合った建物であるが、……(「工場の星」『大全6』p.350〜351)
☆「飛行機の墓地」および「工場の星」には、馬鈴薯の花の記述があり、5月頃の季節の様子がうかがえる。
★幸先はいい。池上、登戸、横浜弘明寺、雪ヶ谷大塚、長原と転々して、いまは立川先の敗残の飛行機村に居た俺は、またもや引越しに迫られていた。ちょび髯の森谷氏の編輯室で逢った金親が、千葉駅前に房総文化連盟とやらのオフィスを置いていることが判った。金は要らん、君が来てくれたら当方も大いに助かる……というわけで、俺はその気になった。(「方南の人」『全集7』p.336)
千葉の房総民主文化連盟事務所へ
6月
*金親清の世話で千葉駅前の房総民主文化連盟の事務所に転居。(萩原)
夏至過ぎ
★数学塾で書いた『弥勒』が代々木の小山書店に、先方の依頼で手渡されていたが、この用事のために中神から代々木へ出ることがあった。そのついでに神田の森谷均の昭森社へ足を伸ばしたところ、金親清が来合せていた。「当分千葉へきたら」ということになって、夏至が過ぎてから、千葉駅前横町の房総文芸連盟の事務所へ、やはり『宇宙論』の包みを持って宿替した。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.52)
☆萩原氏の年譜では、「房総民主文化連盟事務所」。
☆『弥勒』の原稿がいつ小山書店に渡されたかは不明。
☆「赤き星座をめぐりて」(『全集8』p.91〜103)は、この間の出来事を記す。同作品に「サルトル」の名前が登場するが、この千葉時代に『嘔吐』を読んだのかも。同じく「小平事件」のことが出てくるが、新聞報道は昭和21年8月。
☆『稲垣足穂の世界』(新評社、1981年)に、金親清が「灰と瓦礫と戦災地の上で」と題して、この頃の様子を書いている。
7月 ★「モンパリー」<新潮>[→「彼等[THEY]」3-146]
☆「彼等[THEY]」の後半部。
七夕
★千葉にいた頃、棚機の講演のために高知まで出向こうとしたことがあった。横寺の高等数学塾の一室を借りていたTという画家がいまは高知のカトリック教会にいたが、これが先方の神父さんと計らって、来る七夕にそなえて私を呼んだのである。……私は演題を『宇宙の膨張とは?』にきめて、例の風呂敷包みの中の資料から必要な数値その他のメモを紙片に写し、午後早々に東京へ出向いた。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.59)
☆結局、実現しなかった。
8月
★肉体と深淵! 夕刊をひろげていたら、ふとこんな言葉が呟かれた。芝公園の草むらに発見された二少女の扼殺死体の現場写真。……かの女は無数のかの女に分裂し、無数の審美家小平氏を相手に、千万無量の格闘がつづけられる……。(「赤き星座をめぐりて」『全集8』p.100)
☆小平事件が発覚したのは昭和21年8月17日。
8月 ★『弥勒』《小山書店》[7-237]
☆「弥勒」という作品は、この単行本で初めて第1部+第2部という構成になった。
☆同じく小山書店の『明石』は、最初の版が空襲で焼かれたため、この千葉時代に第2稿(昭和23年4月刊行のもの)を書いたと「タルホ=コスモロジー」(『タルホ=コスモロジー』p.164、『全集11』p.501)にある。
★焼跡は二度目の夏になって、戦後最初の俺の単行本が刷上ろうとしていた。先例に倣って、これも彼女に呈すべきでないか、と俺は思い始めた。今度の冊子の内容には、彼女に最も繋りのある事柄が並べられていたからでもある。(「方南の人」『全集7』p.335)
☆この本とは『弥勒』を指す。「彼女」とはヤマニバーのおトシちゃん。「先例に倣って」とは、『空の日本飛行機物語』を贈ったこと。
★だから、戦後(昭和二十二年)になって、これを小山書店刊の中編新作叢書の一つとして出すことになった時「みろく」とルビを付けることにした。(「『弥勒』――わが小説」『全集11』p.153)
☆この「昭和二十二年」は誤り。
☆『弥勒』は、小山書店の「文学新輯6」として刊行された。
★戦後この中篇小説が小山書店から刊行された時、京都からまとまった個人注文があった。それは「みろく」という名の紳士であると聞かされた。(「兜率上生」『大全6』p.353)
8月 ★「新生の記」<新潮>[→「工場の星」8-83]
8月 ★「死の館にて」<芸林阨>[7-439]
8月
★終戦直後に浅草六区で封切られた『肉体と幻想』(Fresh and Fantasy)の中に、……いかにもアメリカ流のお化けだと感心させられたのである。(「我が見る魔もの」『全集11』p.358)
☆『肉体と幻想』の日本封切りは昭和21年8月。終戦後のこんな時期にタルホは映画を見ていた。
☆「アメリカ流」と言っているが、この映画はアメリカで製作されたものの、監督はフランス人のジュリアン・デュヴィヴィエ。
9月 ★「星は北にたんだく夜の記」<四季>[→「星は北に拱く夜の記」3-198]
☆初出は「木犀」(「文章往来」大正15年1月)
秋
★秋になって(房総文芸連盟の)建物が表通りの商人にゆずられると同時に、ちんぴら飛行士と文学青年と私とは宿を失うことになった。……私は行く先がないので泊り続けていたが、……金親と相談して、彼の焼跡の掘立小屋の土間に、折たたみ式のベッドを据えた。……何しろズックの床だけが我が領土であったから、原稿書きに千葉駅待合室まで出向かねばならなかった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.52〜53)
★坂口安吾の日記に出てくる「ふんどししか持たない僕」は、房総文化連盟の看板を掲げた千葉駅前の、金親清のバラックにいた頃の話である。(「わが庵は都のたつみ」『大全5』p.83)
★千葉駅前に住んでいた頃、ある日東京に出て、神田からお茶の水の方へ歩いている時に思い付いた。「幼年期に於ける悪魔の魅力」という題であったが、斎藤十一が「幼年期云々は不要でないか」と云ったので、そのようにした。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.143、『全集11』p.491)
☆翌、昭和22年2月「新潮」に発表した「悪魔の魅力」。
11月 ★「文芸復興」<太平>[→「古典物語」5-120]
☆「古典物語」の後半部を改訂したもの。未見。
中野鷺ノ宮へ
12月終り近く
★ある夕方、哲学科学を主にした素人出版らしい新雑誌を見付けた。表紙と頁から発散している一種の清新味が私をして、主幹上田光雄宛の手紙を書かせた。其後書信のやり取りがあって、先方は、『ロゴス大学』(そんな名称であった)の天文学部主任としての私の身柄を引き取ってくれることになった。十二月の終り近くに、私は例の風呂敷包み一つを持って、鷺ノ宮五丁目の赤屋根の洋館に越した。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.58)
12月
★この(宇宙論に関するノート類のこと)嵩高い風呂敷包みをかかえて、戦後にうろうろしていた時に、たまたま鷺宮の一隅にロゴス大学の看板を掲げて、地方青年相手の哲学科学講座を出していた上田光雄によって、身柄をひろわれることになった。名義は天文学部主任である。昭和二十一年十二月のことであった。(「ロバチェフスキー空間を旋りて」『ヒコーキ野郎たち』p.122)