■1947(昭和22)年 46歳 戸塚グランド坂上の真盛ホテルへ
2月 ★「悪魔の魅力」<新潮>[8-163]
?月
★ちょうどこの頃、身の振方について吉祥寺の知人まで相談に出かけたが、その帰りに阿佐谷駅から鷺ノ宮への一本道を、小遣い稼ぎについて思いめぐらしながら辿っていた時に、『随筆ヰタ・マキニカリス』を思い付いた。この文章を伊達が新潮で読んで、久ケ原まで私をたずねてきたというわけである。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.65)
☆この年5月に新潮に発表された「ヰタ・マキニカリス」のこと。鷺ノ宮時代のことであろう。
☆「タルホ=コスモロジー」(『タルホ=コスモロジー』p.182)に、「この旧稿が橋渡しになって伊達得夫の来訪を受け、そのことが自分の京都生活にまで展開したのである」とある。
★鷺ノ宮に住んでいた頃、そこの主人に借りた岩波版『哲学小辞典』のページでオスカー・ベッカーの美論を知り、これは我流に書き直せるなと思った。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.109、『全集11』p.475)
★鷺ノ宮五丁目、赤屋根のロゴス大学、即ち上田光雄方の二階にいた頃、私は何か天文学の話を書かねばならなかった。ある日、お茶の水辺りを走っている環状線の車中で、宇宙文学の題名(「私の宇宙文学」のこと)を思い付いた。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.142、『全集11』p.490)
☆「私の宇宙文学」の初出は単行本『悪魔の魅力』(昭和23年7月)。
3月★「イエズスの春」<新生、2・3月合併号>[→「幼きイエズスの春に」8-3]
3月★「熊野」<新潮>[→「父と子」7-144]
3月★「黄薔薇」<『蘭梦(ランボウ)抄』、昭森社>[8-271]
久ヶ原へ
4月中旬
★四月中旬に私は、……久ケ原に新居を持った若い夫婦の許に転じた。彼らは私の読者であった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.63)
5月 ★「ヰタ・マキニカリス」<新潮>[→「随筆ヰタ・マキニカリス」8-104]
◇伊達さんが稲垣足穂に傾倒した初めての作品が、この『ヰタ・マキニカリス』だったという。彼は昭和二十一年の冬、「新潮」誌上でそれをみつけ、こういっている。(p.8)
☆この『ヰタ・マキニカリス』は、のちに改訂・改題された「随筆ヰタ・マキニカリス」。志代は、作品集の『ヰタ・マキニカリス』とエッセーの「ヰタ・マキニカリス」とを混同しているようだ。
☆この「昭和二十一年の冬」の記述は誤り。
上半期
★こうして昭和二十二年の上半期になって、(『ヰタ=マキニカリス』の)全篇に亙って第二回浄書の必要が生じた。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.26)
☆こちらは作品集の『ヰタ=マキニカリス』。
☆「東京遁走曲」(『東京遁走曲』p.66〜70)によると、『ヰタ・マキニカリス』の原稿の行き先は次のようになる。
春山行夫(第一書房。これは明石から送った。昭和11年か) → 長谷川巳之吉(第一書房主人から引き取る。「昭和13年初夏」の項参照) → 武田麟太郎(青木書店へ口利くというも、1年後に取り戻す) → 桜井書店づとめの中年紳士 → 中央公論社 → 昭森社(半年ばかり) → 余所へ廻された → 新潮社(戦後、鷺ノ宮時代) → (ロゴス大学の青年学徒に横文字の誤りを訂正して貰う) → S(清水書房か。久ケ原時代。第2回浄書にはこの出版社の原稿用紙が使用された。しかし5分の1は原稿用紙が貰えず、伊達得夫によって写し直された。) → 伊達得夫(書肆ユリイカ刊行。昭和23年5月)
☆「わが庵は都のたつみ」(『大全5』p.85)には、「暑いさなか、中央公論社から断られて持ち帰る途中では、午後二時頃の数寄屋橋の上から、ドブ川へ抛り込もうとしたこともある。焼夷弾の雨下のために焼けてしまう処だったのが、ちょうど牛込へ帰っていたので、危く持ち出したものでもあった。……十年以上も昔、これが第一書房に預けてあった時に、伊藤(整)は、当時同書房にいた春山行夫その他の前で、僕の原稿のために一席ぶったという因縁がある……」とある。
6月
★戦後にディトリッヒ主演の『ガス灯』というフィルムがあった。……この映画の脚本は誰だったか知らないが、こういう推理的解釈を持ってきたのでは、お化けは殺されてしまう。われわれを満足させてくれない。(「我が見る魔もの」『全集11』p.357)
☆『ガス灯』の日本封切りは昭和22年6月。この映画も見ていた。
☆「ディトリッヒ」は「イングリッド・バーグマン」の間違い。
☆これはフランス映画ではなく、ジョージ・キューカー監督のアメリカ映画。
6月下旬
★あれが前触れだった、とあとになって考え当ったのは、六月下旬、新宿で東童演出の『春の目ざめ』を視て、涙せきあえずの始末があったことだ。(「姦淫への同情」『全集8』p.183)
☆この6月が何年のことかはっきりしないが、グランド坂上に移る前(昭和22年)のことかもしれない。
8月 ★「枕べの蕈」<思潮>[→「世界の巌」7-415]
戸塚グランド坂上真盛ホテルへ
8月上旬
★八月上旬になって、私は久ケ原から戸塚グランド坂上、堀部安兵衛遺跡と向い合った所へ引越した。『宇宙論』の版元が鶴巻町にあったので、この辺はよく通っていたという因縁からである。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.75)
☆萩原氏の年譜では、「8月戸塚グランド坂上真盛ホテルに転居」。
☆文脈からは『ヰタ・マキニカリス』が出た後(昭和23年)のように受け取れるが、昭和22年8月のことである。
☆この『宇宙論』は、この年11月に新英社から出版した『宇宙論入門』のこと。
☆「わが庵は都のたつみ」(『東京遁走曲』p.133〜134)には、「昭和二十三年七月になって、戸塚グランド坂上の宿屋に部屋を借りることになった。間代は一日八十円で週末毎に支払う約束だった……」とあるが、この年月は明らかに間違い。
☆「戸塚抄」は、この戸塚グランド坂時代(昭和22年8月〜昭和24年5月)のことを記す。この時期ふたたび関口教会や神田教会に出入りしていた様子が窺える。
夏
★私は戦後約十ケ所を転々してから、昭和二十二年の夏に、戸塚グランド坂上の旅館の一室に居を定めたものの、翌々年の五月には越中の城端町まで逃げ出さねばならなかった。一ケ月で再び東京へ舞い戻り、一夜のねぐらをうつり変って、小出版社の土間に椅子を三脚ならべて夜毎のベッドにするようなことがあったあげく、江戸川乱歩の好意でやっと中野駅近くの横町に、二階の三畳を借りることができたのである。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.11)
★俺は、池上線長原から青梅線の中神、千葉、そして鷺ノ宮、再び雪ヶ谷と転じて、いまは古巣近くの戸塚一丁目、早大グランド坂上のMホテルに居る。当分は此処に起臥する筈だ。(「方南の人」『全集7』p.340)
8月
★「前年八月にかくことをすすめられたエッセイは、まず課題の実存哲学とは何であるかを知る所から始められねばならなかった。その草稿が半年目にやっと出来て、富士見町の編集所へ渡された。「超絶」(Transcendenz)とはこの執筆中、彼の覚えたコトバである。」(「モーリッツは生きている」『多留保集1』p.126)
☆この〈エッセイ〉とは、小山書店発行の雑誌『敍説』掲載の「実存哲学の余白」(昭和23年10月)のこと。「モーリッツは生きている」は昭和24年1月『新潮』発行なので、執筆は昭和23年中だろう。すると〈前年八月〉というのは、昭和22年8月のことになる。小山書店からは、昭和21年8月に『弥勒』、昭和23年4月に『明石』を出版している関係。それに〈ヤマニのおトシ〉に代わって、小山書店には片想いの〈Oさん〉がいた。
8月25日
★僅かに上下動して展開してくる夏の終りの焼跡風景を見ている俺は、一九四七年八月二十五日、交響楽『神楽坂年代記』も愈々終ったことを知るのだった。電車は劇しく揺れながら代々木に向って走っていた。(「方南の人」『全集7』p.344)
☆この日新宿で、ヤマニのおかみに、「おトシはお嫁に行って、もうじき子供が生まれるそうです」と聞いて、彼女への恋慕も終わりを告げたのである。
☆しかし、それから1か月余りで、小山書店のOさんに胸をときめかしたことになる。
9月末から10月のかかり
★未だ盛夏の名残をとどめてぎらいついてる青ぞらの下に、……彼は、エロスの力ということにいまさら気がついた。自分は制御したつもりでいるが、仲々そんな手ぬるい相手ではないらしいということである。やがて戸塚通りのプラタナスの梢に散髪が始まり……いや、夕刻には夏服ではうすら寒かったから、九月末から十月のかかりであったろう。其日、代々木駅近くの編輯局で、何か美少年めく少女を見て彼の胸はときめいた。(「姦淫への同情」『全集8』p.186〜187)
☆「代々木駅近くの編輯局」とは小山書店のこと。昭和23年4月に小山書店から『明石』を出版しているので、その関係で出入りしていたとすれば、これはその前年、昭和22年のことか。
★去年のまだなかなか暑かった頃に、同じ編集局のTが、……。「……あなたが、十七、八歳の少女といっしょに暮していても……なにもおかしくはありませんね」と他の人にも云われていた。新宿界隈にさがし求めた神楽坂のかの女は、トリ年で、二十七歳。午年のOさんは、明けて十九の春や春!(「モーリッツは生きている」『多留保集1』p.140)
☆おそらく上記と同じ年のこと。
☆「姦淫への同情」では削除されている部分。ここでは、小山書店勤務の女性Oさんは、日暮里に住んでいて、午年生まれの19歳とある(『多留保集1』p.138〜140)。
☆同書p.146には、「二十年前のS・O嬢と、十年前のS・O夫人、共に丙午である。第三番のS・Oさんは庚午!」とある。「二十年前のS・O嬢」とは女子大の水泳選手で飛行家志望の女性(本年譜ノート「1926年大晦日」の項参照)、「十年前のS・O夫人」とは明石・無量光寺住職夫人の小川繁子のことであろう。ちなみに、丙午(ひのえうま)は1906(明治39)年生まれ、庚午(かのえうま)は1930(昭和5)年生まれ。Oさんは数え年で明けて(昭和23年)十九歳となる。
☆「神楽坂のかの女」は、ヤマニバーの「トシちゃん」か。「方南の人」(『全集7』p.339)に、トシちゃんは酉年で25、6歳(昭和22年頃)とあるが、1922(大正10)年生まれの辛酉(かのととり)なら、勘定は合う。
☆このときタルホは46歳。
10月
★去年(一九四七年)の十月以来、私にはまた鬼が現われた。……手を伸ばして、机上の祈祷書を取らずにすまされようか!(「神・現代・救い」『全集8』p.332)
☆つまり、「神・現代・救い」は1949(昭和24)年5月「素直」発表であるが、これを書いたのは1948年ということである。
★思えば去年の十月に始まった私のカストリ耽溺は、私の弱い性格なのであろうか? それとも遺伝に由来するものだろうか?」(「神・現代・救い」『全集8』p.334)
☆この「十月」も、1947年となる。つまり、鬼の再出現とカストリ耽溺とは関連しているようだ。
10月 ★「菫の形而上学」<文壇>[→「夏至物語」8-43]
10月 ★「一千一秒物語」<くいーん>[1-3]
10月 ★「Village d’Aero」<詩学>[→「飛行機の墓地」8-72]
11月 ★『宇宙論入門』《新英社》[5-365]
★グランド坂を彼は日に十回は往復する。坂下正面に見える大銀杏がイェローオーカに燃え上り、やがて散ったと思ったら、その近傍の樹木が以前のさまに逆戻りだ。おや、もみじは去年の話だったかな、でも一年前に自分は此処にはいなかった。(「姦淫への同情」『全集8』p.185)
☆つまり、この晩秋は昭和22年のことを指している。
師走
★師走日和の朝、ゆるいS字状の坂を下って行くとき、下方の家並のかなたに、風呂敷のようなものが入り代り立ちかわり、入りみだれて昇降していた。……カモメ共であった。……先日、日暮里嬢が、ちょうどこのカモメの横がおに似たおどけずらをして笑っているのを、編輯所のドアのすきから覗いたことである。(「モーリッツは生きている」『多留保集1』p.141)
☆「日暮里嬢」は、小山書店のOさん。
12月 ★「姦淫への同情」<新潮>[8-174]
12月 ★「雪ヶ谷抄」<文芸>[→「雪ヶ谷日記」8-62]
☆後の「雪ヶ谷日記」。「「雪ヶ谷日記」は、いすゞ自動車の雪ヶ谷寮にいた頃のメモである。野尻抱影はこの小品を好いている」(「タルホ=コスモロジー」『全集11』p.491)
12月 ★「そのみちを語る・同性愛の・」<くいーん>[全集不掲載]
☆江戸川乱歩との対談。
☆『全集3』の「E氏との一夕」の解題に、「昭和22(1947)年「くいーん」に掲載」、また『タルホ事典』(潮出版社、1975年)掲載の注記にも「「くいーん」昭和22年掲載」とあるが、いずれも月号の記載がない。
☆『足穂拾遺物語』(高橋信行編、青土社、2008年)に初めて、そのタイトル「そのみちを語る・同性愛の・」と「昭和22・12」の月号が記載された。したがって、ここではそれを典拠とさせていただいた。
☆「タルホ=コスモロジー」(『全集11』p.474)には、「E氏との一夕」について、「仙花紙雑誌「くいーん」(昭和二二、五)江戸川乱歩との対話を訂正したものである」とタルホ本人が書いているが、この「昭和二二、五」は間違いということになる。
☆この対談は、雑誌「ユリイカ」(1974年11月)、および『タルホ事典』に収録。
12月25日
★私がこのペンを運びつつあるのは、一九四七年十二月二十五日の夜である。近隣のラジオとして窓べに伝えられてくる、全地球面あげての、異教世界にも見当らぬバカ騒ぎは何であるか?(「実存哲学の余白」『全集8』p.313)
☆終戦2年後の日本のクリスマス。
☆この「実存哲学の余白」は、これから10か月後の翌年10月に「敍説」に発表されている。
☆この少し前の記述(p.308)に、「一昨年(一九四六年夏)モスクワ唯一の……」とあるが、この原稿執筆年月(1947年12月25日)からすると、「一昨年」は1945年になるはずだが。
12月30日
★聖書はしかし夜半の襲来者にそなえて、もはや役に立たなかった。かれが泣き伏し、時に身をもがいて差し伸べる手につかむのは祈祷書で、殊に巻末の「死者のための祈り」の部分だった。Yの訃をきいてから、この効験はいっそうに確められた。これから本物になるとばかし倚んできたR・Yの死は、しかし、なにも同様な次第が自分の上にも起るだろうとかれに思わせたわけでない。気づかいは人間的存在のはかなさにかかっていた。……世田谷へは花束を持って行くべきだった。思い返して「ドプロフィンデス」を紙片に写し取って、かれは葬家の受付に届けた。(「モーリッツは生きている」『多留保集1』p.150〜151)
☆R・Yは横光利一。横光の死は1947年12月30日。この部分は「姦淫への同情」では削除されている。タルホは横光の葬式に出向いていた。葬式はいつだったか?
☆「友横光利一の霊に」(『全集8』p.293)には、「……葬列の日、私は酔態で現われ、川端氏だけに会ったと記憶する。君の霊にぬかずくこともなくとぼとぼと引きかえさねばならなかったし――友横光利一の霊に捧ぐと書いたハトロン紙の封筒は一番みすぼらしかったんだ」とある。
★バイブルを枕辺に置いて寝ることにしたが、それは何の効験も無かった。(「日本バガボー」『全集11』p.54)