正月三日
★正月三日の夜遅く、荻窪の帰りに新宿廻りが不可能になったまま、東中野から高田馬場まで深更の焼跡を抜けてきたが、ウイスキが程よくからだの中に廻り、月は無く、満天は仔細ありげな一面の星屑だった。(「姦淫への同情」『全集8』p.185)
☆文脈からすると、この年の正月であろう。
1月3日
★一月三日が第三回目だ。むろんOさんはそばにいなかった。とは云え、自分の発言が実直なKらに可笑しく取られなかったということが、夜道をたどるかれの心をはずませていた。(「モーリッツは生きている」『多留保集1』p.140)
☆「姦淫への同情」では削除されている部分。3回目に小山書店を訪ねたときのこと。おそらく上の「正月三日」と同じ日のことを述べているのではないかと思われる。ただし、小山書店は、お茶の水→代々木→富士見町と場所を変えているが(「モーリッツは生きている」『同』p.138)、この富士見町が上記の「荻窪」とどういう関係にあるかは不明。
新年会のあくる日
★新年会のあくる日で、ゆうべの紳士がたの酔いッぷりが婦人たちのあいだに語り交されていた。自分のことも好意的に話題に上ったのか知れぬ、とかれは思うてみる。けさ編輯室へカギ形の階段を登ってゆくかれは、内心ビクビクものであったが、案に相違してOさんはいち早くかおを向けて、先日とは打って変った態度でいそいそとお茶を入れてくれたからである。(「モーリッツは生きている」『多留保集1』p.145)
☆上記の1月3日は、この小山書店の新年会を指すのではないか? 新年会が荻窪近辺で開かれたということか? しかし昭和23年1月3日は土曜日で、この記述では翌日の日曜日に社員が出勤していることになるが。
1月 ★「方南の人」<文壇>[7-323]
1月 ★「秋夕夢」<ろまねすく>[→「レーディオの歌」3-169、→「蜩」7-91]
「レーディオの歌」「ひぐらし」収載。
2月 ★「白昼見」<新潮>[7-367]
☆前半部のみ。後半は「たげざんずひと」として、この年9月「思潮」に発表。
☆「タルホ=コスモロジー」には、「この作はケーベル博士推奨のフェヒナーの『死後の生活』(草間平作訳)に刺激されて書いたものである。「地球」(第九四号)もそうである」とある。
☆草間平作は平田元吉の間違いか。
桃の節句
★キネマの月ならずして、清純な乙女座スピカの銀光さし昇るこの一九四八年の桃の節句、愛の世紀の先駆なる日本美少女らのために、お祈りをささぐる──(「美少女論」『多留保集1』p.27)
☆「美少女論」は「新潮」昭和23年12月。この頃原稿を書いていたのだろう。
春
★この一九四八年の春、清純な銀光を放つ乙女座のスピカが東にさしのぼる宵をきっかけら、かれの周囲のあらゆる女性の態度が、かれにたいして変りそめた。(「モーリッツは生きている」『多留保集1』p.151)
☆「モーリッツは生きている」は「新潮」昭和24年1月。似通ったフレーズ。「美少女論」と同じ頃書いていたのだろう。
3月 ★「ヴィラージュダエロ」<魔法>[→「飛行機の墓地」8-72]
☆「Village d'Aero」の抜粋
4月 ★『明石』《新風土記叢書6、小山書店》[8-340]
「はしがき」[13-425]
4月 ★「唯美主義の回顧」<文芸大学>[→「唯美主義の思い出」9-435]
4月 ★「底なしの寝床」<日本小説>[7-297]
5月 ★『ヰタ・マキニカリス』《書肆ユリイカ》[2-3〜358]
収録作品(34編)「黄漠奇聞」「星を造る人」「チヨコレット」「星を売る店」「『星遣ひの術』について」「七話集」「或る小路の話」「セピア色の村」「緑色の円筒」「煌ける城」「白鳩の記」「『タルホと虚空』」「星澄む郷」「天体嗜好症」「月光騎手」「海の彼方」「童話の天文学者」「北極光」「記憶」「放熱器」「飛行機の哲理」「出発」「似而非物語」「青い箱と紅い骸骨」「薄い街」「リビアの月夜」「お化に近づく人」「赤い鶏」「夜の好きな王の話」「電気の敵」「矢車菊」「ココァ山の話」「飛行機物語」「ファルマン」
6月上旬
★六月上旬の、日照雨が時々やってくる蒸暑い正午すぎに、私が小林博と横山泰三とつれ立って新宿駅の待合室に佇んでいると、……伊達が、こちらに気付いて、「出来ました!」と云って真白い表紙のヰタ・マキニカリスを一部差し出したのである。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.72)
☆文脈からは昭和22年のことのように思われるが、「六月上旬」は昭和23年のことになる。
◇明くる年(昭和23年)になって、稲垣足穂著『ヰタ・マキニカリス』が届いた。(p.7)
☆伊達得夫が篠原志代に送ったもの。刊行後すぐだったであろう。志代は読後「月光で白シャツが青く染まった──というようなところに、新鮮な驚きを覚え……」といった内容の手紙をタルホに送った。
☆志代が最初に稲垣足穂の名前を聞いたのも伊達得夫からで、それは前年(昭和22年)東京日比谷公会堂で催された社会事業大会に出席したときに、伊達と面会した折であった。
☆志代は北山別院にあった司法保護少女収容の六華園の保護主任をしていた頃で、伊達は京大経済学部の学生であった。
6月13日
★桜井書店のあるじに依れば、「毒薬の準備をしたところで、御当人に実行の気力なんか到底あるものか」只ふとしたはずみに、たとえば芥川龍之介の場合のように土用の最中に徹夜して明方に啼き出した蝉の声を聞くとか、こんどの太宰治のように適当な道連れをつかまえた時とか、そういう折に彼らは初めてスプリングボードに立つことが出来る。(「姦淫への同情」『全集8』p.190)
☆太宰の死は昭和23年6月13日。桜井書店からは、この年の11月に『彼等』を出版するので、この頃出入りしていたのであろう。
7月 ★『悪魔の魅力』《若草書房》
収録作品(12編)「私の宇宙文学」「雪ヶ谷抄」「ヰタ・マキニカリス」「悪魔の魅力」「予言」「新生の記」「天文学者といふもの」「有楽町の思想」「放熱器」「俗人論」「子供たちと道徳」「フェヒナーの地球擁護」
☆この中の「放熱器」は、のちに「ラジエーター」と改題されたもの。『ヰタ・マキニカリス』中の「放熱器」とは別の作品。
☆「フェヒナーの地球擁護」は本書収録が初出? フェヒナーについては、「『死後の生活』」(『全集11』p.210)の中で、「この本は、ケーベル博士の随筆中で教えられていたのを、たまたま友人が東北旅行中に古本屋の棚に見つけた」とある。この友人とは津田季穂? 横寺時代だと思われるが、いつのことか? (本年譜ノート「1939年」の項参照)
7月
★終戦後、戸塚グランド坂の旅館に下宿していた頃、……隣座敷へはいってみると、その床の間に、お客の子供が置き忘れて行ったものらしい、巌谷小波撰童話集の日本及び中国篇があった。……その一つに『平太郎化物日記』があった。……自分が『稲生物語』を知ったのは二十年以上の昔だが、……只数カ所を父に読んで貰ったにすぎなかった……これを見付けたのは昭和二十三年七月の話である。私はちょうど右手に早大理工学部校舎が建ちかかっているグランド坂を下りていた時、「なつかしの七月」という題名を頭に浮べた。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.137〜138、『全集11』p.488)
☆父に読んでもらったというのであれば、「二十年以上」よりもっと昔のはずである。
8月 ★「新感覚派始末書」<人間喜劇>[→「新感覚派前後」9-421]
★目下、私は死におびやかされている。こんな空しい次第で生涯が終りになるとは考えられない! ということの上に、数ケ月来の憂悶が懸っている。殊に横光の死からは、いっそういまのことが考えられて、私を眠らせないのである。私にいま必要なのは婦人の愛である。(「新感覚派前後」『大全6』p.415)
☆「新感覚派始末書」は「新感覚派前後」の初出。
8月
☆昭和23年8月号の「小説新潮」に、白ぶちのメガネをかけたタルホの写真がある。「戸塚抄」(『全集8』p.160)に、「夜、クマと大塚の待合へ飲みに出かけた。おかげで、せっかくの臙脂色の毛糸帽は、白ぶちのメガネもろとも何処かへふっ飛ばしてしまった」とあるが、そのメガネのことであろう。
9月 ★「たげざんずひと」<思潮>[→「白昼見」7-367]
☆「白昼見」の後半部
9月 ★「河馬の銃殺」<新思潮>[→「河馬の処刑」12-295]
☆この中の第「四」の話は、「僕とライオン」(「スタイル」、昭和12年10月)と同じ。
10月 ★(写真)<アサヒグラフ、10月6日号>
☆白いベレー帽を被って両手を広げて歩いている写真。早稲田グランド坂の「真盛荘」時代。
10月 ★「実存哲学の余白」<敍説>[8-294]
☆「モーリッツは生きている」(『多留保集1』p.153)に、「前年八月にかくことをすすめられたエッセイは、まず課題の実存哲学とは何であるかを知る所から始められねばならなかった。その草稿が半年目にやっと出来て、富士見町の編集所へ渡された。「超絶」(Transcendenz)とはこの執筆中、彼の覚えたコトバである」とあるが、この原稿が「実存哲学の余白」だと思われる。前年(昭和22年)の12月25日に、これを執筆中だという記述がある。富士見町の編集所とは小山書店のことで、掲載誌は「敍説」の実存主義特集。「草稿が半年目にやっと出来」とあるので、それは22年の2月頃ということになるが、実際に掲載されたのはさらに半年以上経った10月である。
☆ハイデッガーを知ったのは、この執筆過程ではなかろうか。
☆この中にサルトルの初出。「赤き星座をめぐりて」(昭和24年3月、表現)が次出。
10月 ★「詩の倫理I:ギリシヤと音楽」<日本未来派>[8-272]
10月 ★「きらきら日誌」<文潮>[→「横寺日記」7-345]
11月 ★「詩と倫理II:(まことの愛)」<日本未来派>[8-272]
☆10月号では「詩の倫理」だったのが、11月号以降は「詩と倫理」となっている。初出には「まことの愛」なるタイトルなし(『多留穂集3』<潮出版社、1974年>収録時に、出版社側<高橋康雄氏か?>が付けたのだろう)。末尾に「八月三日」の日付あり。
☆この中にハイデッガー、ヤスパースらの名前が出てくるが、これも「実存哲学の余白」執筆との関連からであろう。
☆ここでも「この悲惨!」
11月 ★『彼等』《桜井書店》
収録作品(7編)「彼等」「菫とヘルメット」「ひぐらし」「レーディオの歌」「北落師門」「兎」「古典物語」
☆この中の「北落師門」について、『タルホ=コスモロジー』(p.151、『全集11』p.494)に、「「新潮」に載る筈だったところ、楢崎勤がゲラ刷を見て驚いて原稿を引っ込めてしまった。そのゲラも、原稿も共に紛失したというので、私は改めて二度目に書いた。これは「南の魚」という題で、戦時中に余り知られていない文学雑誌に載せ、それを再び「北落師門」に改めて単行本『彼等』の中へ入れた」とある。つまり、紛失した初稿のタイトルも「北落師門」だったことが分かる。その「新潮」の一件はいつ頃のことだったのか?
☆「本ぎらい」(『大全6』p.617、『全集11』p.167)も参照。
☆「わが庵は都のたつみ」(『大全5』p.77)にも、楢崎は「いったん組んだ僕の原稿を撤回してしまった、そのゲラ刷りは見失ったとかで返されなかったから、僕は記憶に辿ってもう一ぺん同じものを書いた。『北落師門』がそれである」とある。
11月22日
★草下は戦後、私が早大うらの真盛ホテルにいた時に初めてたずねてきた。この日か、あるいは暫くたって彼が持ってきた本の中で、私は「銀河鉄道の夜」を読んだのである。(「銀河鉄道頌」『全集11』p.280)
☆草下英明の「タルホと星と私」(『別冊新評』、昭和52年)によれば、タルホに初めて会ったのは1948年11月22日とある。
12月 ★「詩と倫理III:花と存在」<日本未来派>[8-272]
12月 ★「美少女論」<新潮>[→「姦淫への同情」8-174]
★彼女(志代)側ではまた新潮で私のエッセイを読んで、これなら自分のことも判って貰えるだろうと思ったのだそうである。それはたぶん『美少女論』(昭二三、一二)であったろう。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.24)
☆志代の記述に「ある日私は、河原町の書店で稲垣足穂の『美少女論』をみつけた」とある。それは昭和24年9月26日と10月14日のタルホからの手紙の間に挿入されている。志代はその翌日読後感をタルホに書き送っている。その中には秋や木犀の記述があり、結婚の気持ちもうかがえる。すなわち彼女が「美少女論」を見つけたのは、発行(昭和23年12月)後だいぶ経った、たぶん昭和24年の9月〜10月のことであろう。
篠原志代と会う
12月
★私は昭和二十三年十二月にも、彼女(志代)に逢っていた。伊達がつれてきたのだった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.16)
秋の終りごろ
◇その年も、秋の終りごろ、私は東京へ出張した。用件が済んで、下落合の伊達さん宅を訪ねた。「稲垣先生にお逢いして見たいのですが……」……ウイスキーを一本手土産に、グランド坂上だという旅館を訪ねると、先客があった。先客の、清らかで賢そうなお嬢さんを相手に、あるじはひどく速度の早い口調で話し込んでいた。(p.9)
☆「その年」は昭和23年。志代の文章では、タルホに初めて会ったのは、12月でなく、秋の終りごろとなっている。
☆時期的に、先客のお嬢さんは萩原幸子さんではない。
☆この日の帰りに伊達から、「五十人の不良少女の面倒をみるより、稲垣足穂の世話をしたほうが、日本のためになりますよ」と言われる。