1月 ★「モーリッツは生きてゐる」<新潮>[→「姦淫への同情」8-174]
2月 ★「詩の倫理IV:反時代的な詩観」<日本未来派>[8-272]
2月 ★「松風」<八雲>[12-300]
2月 ★「荒譚」<新芸トップ>[13-65]
☆この中の「第一話」の部分が、のちの「山ン本」の原型となっている。
☆「タルホ=コスモロジー」(『全集11』p.488)に、「いまの化物日記を下敷にして、「余は山ン本五郎左衛門と名乗る」を書き上げて、「小説新潮」の小林博に買って貰ったが、ついに活字にならなかった」とあるが、それがだめだったので、この「荒譚」を書いたのだろうか?
2月 ★『日本小説代表作全集・第15巻・昭和 21年後半期』《小山書店》
収録作品(1編)「死の館にて」
3月初め
★これが、「三月初めにグランド坂下で知り合った何某(萩原幸子)さん」である。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.105)
☆萩原さんの文章から、これは昭和24年のこと。
☆萩原さんが「宗教は自分の持っているいいものを失くしてしまうような気がする」(同書、『大全5』p.65)と言ったのはいつのことか?(「わが庵は都のたつみ」『大全5』p.81)にも同様の記述。
3月 ★『現代文学代表作全集・第6巻』《萬里閣》
収録作品(1編)「美しき学校」[→「古典物語」5-120]
☆「古典物語」の前半部を改訂したもの。
3月 ★「赤き星座をめぐりて」<表現>[8-91]
4月 ★「緑金の蛇」<文芸>[12-315]
☆「東京遁走曲」(『東京遁走曲』p.88)には、「追いつめられて今夜は中神の画家の許へ出向くより他はないと十一時すぎの新宿駅へ出たものの、未練があって先刻の千歳まで取って返すと、止木の上でパイプをいじっていた学生上りらしい紳士が、先頃文芸で私の『緑金の蛇』を読んだというので話しかけ、カンバンになってから、私を淀橋の大場写真館まで連れて行った」とある。これは城端から帰って来た後の6月中旬過ぎのことである。
5月 ★「LITTLE TOKYO’S WIT」<女性線>[6-362]
☆「日本人とは?」というテーマのもとに書かれたもの。
5月10日
★この月報の原稿を約束の日、今日五月十日間に合わなかった私は、大輪さんという人から頼れたというウエクリ君に、もう生理的欲求の酒をのんでいる処を掴えられ追われ追われ書いている。(「友横光利一の霊に」『全集8』p.292〜293)
☆6月に刊行された『横光利一全集』(改造社)の月報のための原稿のこと。
☆この文章の中に、「早稲田の一ホテルに……」という一節があるので、越中へ出奔する直前だったのだろう。
5月 ★「神・現代・救ひ」<素直>[8-317]
☆文中に「去年(一九四七年)」という記述があるので、この原稿は1948年に書かれたことが分かる。
★そしてこんどの出奔(城端町への出奔のこと)の直前に、本願寺に関係のある余所の奥さんから、「いずれは仏教にお帰りになるでしょう」と云われたことに思い当った。僕が「貴女をカトリックに改宗させてみせる」と口に出した時に、先方が逆に、今のように静かに答えたのだった。(「兜率上生」『大全6』p.354、『全集11』p.11〜12)
★越中へ脱出する直前に、新宿うらの酒場で逢った梅崎はもうキノコや非協力者なんかではなかったのである。彼の兄の教え子だったという関係から、ある二十才娘との媒酌を彼に頼んだのはこの二月の話なのに、たったみ月のあいだに彼は見違えるばかりに血色が良くなって、大きな図体になってどこかの運動選手のようであった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.50〜51)
☆梅崎春生のこと。この「二十才娘」とは、「戸塚抄」に出てくる「ユリ子」のことか?
☆「五人の死者」(『全集12』p.393)に、「もう十六年も前に、私は梅崎から「自律ある生活に入られんことを」という手紙を貰った」とあるのは、この頃のことか?
富山県城端町へ
5月半ば
★こうして翌年五月まではどうにか持ちこたえたものの、月半ばになって、何人にも内証で戸塚を脱出せねばならなかった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.17)
★仕方なく和田組マーケットの『マコの店』へ行って腰掛けていると、隣りに青い背広服の、体格のいい青年(伊東良作─p.87)がいた。これが私を彼の田舎まで連れ出してくれることになったのである。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.78)
★マコの店で逢った未知の少年紳士が、わけを聞いてさっそく次の日の夜行で、僕を彼の郷里の越中城端(じょうはな)へ連れて行ってくれた。(「わが庵は都のたつみ」『大全5』p.83)
★あれやこれやの手違いが重って、僕は去年の若葉の頃、越中の田舎へ逃げた。……お世話になった家の朝夕の唱名、殊に八十才のおじいさんの「アナカシコアナカシコ」に終る御文章の読み上げ振りに、びっくりした。……あとになって判ったのは、自分が暫く滞在した城端町というのは、赤尾の道宗で知られている妙好人の里に近い所であった。(「兜率上生」『大全6』p.354、『全集11』p.11)
★昭和二十四年の初夏、私は富山県城端町で、ステーションを出たとたんに、道ばたに六角形の細長い木の枠組を認めて、「懐かしのブレリオ式」を喚び起した。それは田植のために水田の底に縞目をつける道具であった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.583)
◇ぼくは東京で行方不明になったといわれていたとき、越中城端町まで逃げ出していた。今度こそそこが死場所になるのではないかという気がしていた。さしずめ鉄道自殺を考えた。しかし十五年間疎遠になっている実姉に知らされて、彼女が呼び出されたりすることは堪えられなかった。(p.182)
5月27日
★伊達はこの五月二十七日附の手紙で京都へ報告している。「風来居士イナガキタルホ先生は目下行方不明です。……」(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.17)
☆志代の言葉によると、前年秋の終わり頃、初めて戸塚グランド坂上にタルホを訪ねた後、東京から帰ってすぐにタルホ宛に手紙を出したら、「数日後に宛先不明で返送されてきた」とある。その後伊達から手紙があったのがこの「風来居士イナガキタルホ先生は……」とある。その記述からは、会った日から手紙が返送されてくるまでは、たいした日数ではなかったようで、前年中のことであるように思われる。しかし、タルホが戸塚を脱出したのは5月であるから、半年近く隔たりがあって、矛盾するように思われる。それとも返送には別の理由があったのか?
☆この伊達の手紙への返信に志代は、「先生にしばらくでも京都へ来ていただいて、創作に専念されることができたらと思っていましたが……」と書き送っている。志代のほうには、すでに結婚の気持ちがあったのかもしれない。
6月 ★「友横光利一の霊に」<『横光利一全集』月報 第15号、改造社>[8-291]
☆この中に、「まてしばし話はさかのぼる――と書いたのは去年の人間喜劇八月」とあるのは、前年8月に雑誌「人間喜劇」に「新感覚派始末書」(「新感覚派前後」の初出)を発表したことを指す。
6月15日
★……伊東と私は、ちょうど一ケ月目の六月十五日のお午過ぎに出発した。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.87)
☆「急行待ちの高岡の本屋の店頭で、加納正吉らが出した第二次『素直』を見付けた。余所の町で活字になった自分の名を見たのは、これが初めてである」とあるのは、24年5月号の「神・現代・救ひ」のこと。
帰京
6月16日
★旧家の近ごろ建増したらしい客座敷で一ケ月間を過し、またもや二人連れで上野駅頭にほうり出された。六月十六日の午前で、……(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.134)
☆「東京遁走曲」(『東京遁走曲』p.88〜91)によると、帰京後の順序は、着いた日は伊東と2人で代田の植栗祐輔のアパート→淀橋の大場写真館(「生涯中の最も窮まった時間」)→池袋立大近くの草下英明の友人の許→(江戸川乱歩が間借りの権利金援助を約束)→富士見町の俳句新聞発行所(松尾千万夫)……「こんな夜が約一週間続いた」「我が生涯最大の困窮の二週間」とある。
6月16日
★(伊達の手紙の)六月十六日附では、「ぼくがつらつら考えてみますと、……」……。彼は追加して、「イナガキ先生の住所は次の通りです。東京都中野区打越××。……」(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.17〜18)
☆6月15日に越中城端町を発った翌日の日付の手紙に、すでに中野区打越の住所が書かれているのは、同書p.88以降の記述と矛盾する。
☆伊達からのこの手紙は、志代の記述では8月18日となっている。これより前の7月に、「行方不明になっていたイナガキタルホ先生は、東京へ舞い戻りました」という手紙があったことが記されている。順序からすれば、志代のこの記述のほうが正しいように思われる。
6月25日頃
★あれは六月二十五日くらいであったろう。夜遅く新宿桜小路『八重子』の許でカストリが過ぎ、表へ出てからぶっ倒れて何かに頭を打ちつけて血まみれになった。……俳句新聞の主人は、……深更に帰ってきた私の顔のキズを見て殴り付けようと思った。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.91〜92)
☆「わが庵は都のたつみ」(『大全5』p.84)にも同様の記述。
★あとの二週間は、富士見町の小出版社の土間に椅子をならべて、その上に横たわって夜々を過した。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.135)
★ある午後、千歳の止木にかけて、女給さんの一人を相手に、公教要理を肴にカストリの杯を重ねていた。……すると、左隣で一人、静かにウイスキを飲んでいた、何処かの帰りらしいモーニング姿の老紳士が、やおら身を向けて、たしなめるように云った。「そんなに人を詛っちゃいかん!」この人が、あの巻を閉じることが惜しまれたブランデスの『独逸浪漫派』の訳者の吹田順助だったのである。……我が生涯最大の困窮の二週間を通して一等頭に残っているのが、この一言である。……例の宇宙論の原稿を入れた風呂敷包といっしょに持ち続けて、時に柱に懸け、ポケットに入れて歩いていた小さな磔刑像を、それは身につけている最後の品物だったが、俳句新聞の二階の子どもに玩具代りにくれてしまった。(「東京遁走曲」『大全5』p.57)
☆同様の記述が、「わが庵は都のたつみ」(『大全5』p.80)に。
7月 ★「美少年時代」<若草>[12-328]
☆『星の都』では「8月」。
☆この後半に「新月挿話」「新月抄」の少女のことが出てくる。
7月
◇伊達さんから──昭和二十四年七月。「行方不明になっていたイナガキ先生は、東京へ舞い戻りました。……愛していたお嬢さんを失った打撃があるのかもしれません。このお嬢さんのことは「ジャンヌ・ダルク」という題の作品にまとめられていますが、まだどの雑誌にも発表されていません。あの人が先生から去ったとき、先生の脳裡から「天国」を盗んでいった──ともいっていました。「盗まれた天国」という表題だけしかできていない作品が、胸にくすぶっている模様です。……」(p.12〜13)
中野打越へ
7月末
★これから七月の末に再び江戸川乱歩の好意によって中野打越に間借をする迄のあいだ、僕はほとんど無我夢中であった。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.135)
☆萩原氏の年譜では、住所は「中野区打越十三平田方」。ただし、転居がいつのことかは明確でない。
☆ここでは「七月の末」となっているが、これでは城端から帰ってきて1ケ月以上あいだがあることになるので、「生涯最大の困窮の二週間」とは矛盾する。これは「6月末」の誤りであろう。
★草下英明が、打越の間代を毎月立替えてくれていた。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.13)
★ひと月分の外食権利を売ると、十五円也のコッペを日に一箇として、これが約二十日間続けられる勘定になった。そのような方法で、僕は打越に移ってからの日々を送った。夜具無しであることは云う迄もない。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.135)
★中野打越のぐらぐらする二階三畳へも彼(森谷均)は、どこかの葬式の帰りだと云って立寄った。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.102)
★常田富之助が中野打越の私の許へ遊びにきての帰途、中野駅北口の古本屋の棚に、ベッカー著『美のはかなさと芸術家の冒険性』(湯浅誠之助訳)を見付けて、買ったことがあった。その本は私は見なかった。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.109、『全集11』p.475)
8月18日
◇伊達さんから──八月十八日。「……例の件はまだ話しておりません。……ぼくがつらつら考えてみますと、……イナガキ先生の住所は次のとおりです。東京都中野区打越一三平田方……」(p.13〜14)
☆伊達得夫のハガキに、中野の住所が記されている。
☆『東京遁走曲』では、この日付が6月16日となっている。
☆「例の件」とは、タルホの京都行の件であろう。
8月
◇伊達さんから──八月。「イナガキ先生は今朝もぬっと現われ、ズボンのボケットから、あなたからのハトロン封筒の手紙をポンと出しました。で、ぼくも一読いたしました。先生のいうには、『……京都に行くにしてもこの恰好では。せめて古着の背広に靴ぐらいは欲しいでしょう。……』」(p.14)
☆この志代の手紙は、中野打越に出されたものであろう。
☆この頃には、タルホのほうにも京都へ行ってもよいという気持ちがあっのかもしれない。
8月31日
◇イナガキから──昭和二十四年八月三十一日。「お便り三回ありがとう。……昨年の十二月の午後は、夜までいらっしゃるだろうと考えて、頭の中でいろいろ考えだした矢先、あの少女が立ち上がりかけたのをきっかけに、伊達さんが立ったので、妙なお別れになりました。……」(p.18)
☆昭和23年に『ヰタ・マキニカリス』の読後感を書き送ったのを初めとして、2回目は返送され、3回目はこの8月に出されている。返送分のほかにもう1通あったのか?
9月 ★(対談:そのみちを語る─同性愛の─)<妖艶>[全集不掲載]
☆1947(昭和22)年12月の「そのみちを語る・同性愛の・」くくいーん>と同じものだと思われるが、未見。
9月12日
◇イナガキから──九月十二日。「きのうお便り受け取りました。……最近の写真を笑覧に入れます。……」(p.18〜19)
9月26日
◇イナガキから──九月二十六日。「拝復、小包落手しました。……ただ私が何かを書くのであったら──いままでどおりの作風ではごく少数の人々に読まれるばかしです。なるほどかわった! といわれるような新天地に出なければならない。ここがむずかしいのです。……死への準備(それは一刻一刻をまことに生きること)としての宗教を考え、私は十年来カトリシズムに凝ってきましたが、いまは死への準備として宗教意識の排除に思い当っています」(p.19〜20)
10月14日
◇イナガキから──十月十四日。「拝復その後お手紙三つのうち、こんどの便りは木犀の香りがして、ぼくに昔なつかしさを覚えさせました。……」(p.24)
☆木犀のことが書かれており、「美少女論」の感想を書き送った返事であろう。
10月27日
◇イナガキから──十月二十七日。「きのうお手紙、ただいま小包、落手。……あなたは東京へいらっしゃったら、何日くらい滞在されるか、どこでどうされるか、少しも見当がつきませんので、伊達氏のもとへさぐりを入れに行こうかしらと、表に出てかんがえているところへ、ユービン屋が来て、小包をくれました。……」(p.25〜26)
☆志代に上京の予定があったらしい。
11月5日
◇イナガキから──十一月五日。「きのうお便りいただきました。……あなたが、東京行の予定が狂ったので、気分を取り戻そうとされるのは結構ですが、……」(p.27)
☆上京の予定が狂ったらしい。
11月15日
◇イナガキから──十一月十五日。「……ぼくのところは、布団がないので泊められません。……」(p.28〜30)
☆再び上京の予定か。
11月18日
◇伊達さんから──十一月十八日。「……キリスト教には飽きたらしく(何ゆえかわかりません。まさか美しい人との失恋のためでもないでしょうが)、このごろは印度へ色目を使っています(その原因は案外あなたにあるのではないかと、ぼくは思うのですが)。……」(p.30〜31)
11月19日
◇イナガキから──十一月十九日。「啓、お便りきのう拝見、ただいま伊達さんのもとから帰ってきたところです。『篠原さんが、ぼくに京都へ来たらといっている──と、いつか君にいわれたとき、ぼくは心が定まっていませんでした。近ごろ二、三週間でもおじゃまして、紫夜庵参籠記とでもいうものを書きたいです。でもぼくには早春のころがよろしい。この冬、寒いさかりは、ひと奮発して、いま少し根性をため直す必要がある』と、ぼくはいいました。……この冬は少なくともお正月中は、ここでふるえながら、無量寿経を読みたい気持もあります。……真の宗教は、いったん宗教で鍛えて、宗教から脱する──これが解放だと考えられます。……」(p.31〜32)
11月末
◇十一月末私は、来春発会という「京都文芸懇話会」の世話役の人たちから、「発会式に稲垣氏ご出席願いたし」の依頼用件を持って、東京行の夜汽車に乗った。翌朝下落合へ行くと、伊達さんは留守だった。……一人で打越を訪れることにした。(p.34)
☆志代の記述では、打越を訪れたのは(戸塚以来、2度目の訪問)、「12月下旬」でなく11月末となっている。
12月3日
◇イナガキから──十二月三日。「おはがき、きのう落手。けさ小包を受け取りました。……十何年間私は汽車に乗っていません。只一回この初夏に富山行きがあるのみですが、これは惨憺たる脱出行でした。(p.36)
12月4日
◇伊達さんから──十二月四日。「せっかく上京してくださったのに、相変わらずもてなしもできませんでした。……けれどもぼくの察したところでは、やはり京都へは行きそうにないこと、……これに対応するには、絶対に東京に出てくることが必要です。……一日も早く、東京転勤の運動をなさるように!」(p.36〜37)
12月13日
◇イナガキから──十二月十三日。「……来春までに私は、小説を三つ書くつもりでいます。……」(p.37)
12月下旬
★家内は、発会式にかこつけて私を東京から呼び出したのであるが、このことは、前年(昭和二四)十二月下旬に中野打越までたずねてきた本人によって、あらかじめ知らされていた。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.11)
☆志代の記述では、11月末。
末
★昭和二十四年末、二度目に顔を見せた家内は、私について、「鯉のあらいのようだった」とあとで評している。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.14)