1950(昭和25)年 49歳 京都の志代のもとへ



1月1日
◇イナガキから──昭和二十五年一月一日。「……最初に届いたのが、あなたのお便りです。……宙に迷っている原稿が二、三ありますから、近くなんとかなるわけです。いずれは東京へ出てこられるのがいいか、それともあなたの京都の地盤を守るほうが得策か、こんなことについても、あなたと相談したいと存じます。いまのところでは、あなたが東京に住むよりも、小生が京都に住むほうが、可能性がありそうです。出版屋が京都まで原稿を頼みにくるようになったら──の話です。しかしそれまでにも、いま少し生活に余裕ができたら、月の半々を、京都と東京と使い分けができるわけです。東京で一等の問題は、住宅です。……」(p.38〜39)
☆京都行に心が傾いた頃だと思われる。「わが庵は都のたつみ」(『大全5』p.84)には、「僕は東京生活の限界が来たことをさとらねばならなかった。自分はともかく満身創痍(人からそのように云われた)になりながら、十年来のカソリシズムをやっと抜け出て、奇妙な身軽さがあった。その代りに救助を乞うべき「神」がもはや無かったからだ。それに、こんどの上京は『ヰタ・マキニカリス』の刊行を目的としていた。それが十軒の出版社を巡り廻った末に、十二年目の一九四八年五月に、ユリイカ書肆の伊達得夫によって出版された。目的は達したわけである。これも、東京に用は無くなった理由の一つである」とある。

正月
★昭和二十五年の正月じゅう、即ち前後三十年間に亙った東京生活の最後の一カ月を、私は中野打越の(咳払いをすると全館が揺れるような)古家の二階三畳にいて、近くの伊達得夫の許から借りてきた『歳時記』を読んで送った。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.190、『全集11』p.513)

1月12日
◇イナガキから── 一月十二日。「きのう電気コンロ、赤飯、お餅、ソーセージを落手しました。……」(p.39)
☆この日の手紙には、歳時記からの引用が見られる。

1月18日
◇イナガキから── 一月十八日。「……一昨年十二月、あなたにお逢いする先六ヶ月に遡るころから始まった、内心の、わけのわからぬ不安、動揺に比べたら、いまの近ごろの困り方なんて、物の数にも当りません。……お言葉に甘えて少時京都へ顔を出しますが、しかしいま三回ほどあなたにお手紙をさし上げてからでないと、ハッキリ返事できません。というのは、近くいくらか、よそで私に金を作ってくれるかもしれない──ちょうどその中途半端にあるからです。……」(p.41)
☆ここでは「一昨年十二月」となっている。

1月27日
◇イナガキから── 一月二十七日。「……月末近くなって、来月分の部屋代を払う必要があります。そのために、人に逢わねばなりません。以上の用事が済みましたら、おじゃまします。月末か、二、三日ごろ、立春まで。……汽車賃六百円。焼酎代百六十円、あとはタバコ代、その他に二百円ほどよけいに送ってください。この家へ納める必要があるからです。ご了解願えたら、あなたに都合のよい日をお知らせください。……」(p.42)

1月末
★一月末に汽車賃が送られてきたのをしおに、「ちょっと関西まで」と人には云ったが、内心は東京を引上げるつもりであった。数えてみると大正十年九月以来の東京住いであった。そうなればこそ最後のお正月のひと月を、伊達に借りた歳時記を読みながら自分は過したのである。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.14)
☆「大正十年九月」とは、佐藤春夫のもとへ行ったこと。

2月2日
★私が腰を上げたのは二月二日で、いよいよ発会式をやるとの便りが汽車賃と共に届いた時であった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.11)

2月2日
★昭和二十五年二月二日の深更近くに、東京駅を辷り出した大阪行準急がまず新橋駅に停った時、私は、いつのまにかこんなにまではびこり繁茂している彩光真空管のシャボテン林に眼を見張りながら、それら赤青紫白の光の花々に東京への訣別を託した。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.26)

節分の前夜
★昭和二十五年の節分の前夜、僕は、片方の底ゴムが前後に折れているズックを穿き、城端の伊東家で借着したままの国民服の上に、編物の婦人用ボックスをひっかけ、黒色の毛糸帽をかむり、濃緑の色眼鏡をかけて、午後十一時半に出る大阪止りの準急に乗った。この日の午前中に京都から速達で旅費が届いたからである。(「わが庵は都のたつみ」『東京遁走曲』p.137)

節分の前夜
★あの節分の前夜、それも十二時を廻って翌日の領域であったが、自分は車窓の外を流れ去って行く大森駅の灯を、もう来ることはないだろう東京の見納めとして打ち眺めたものだ。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.97)

2月3日
★中野打越の二階三畳で、「日本の天上界」という題名に改めた。この原稿だけをポケットに入れて、昭和二十五年二月三日の深更、私は大阪行準急に乗った。京都の新居で清書して、名古屋の作家社へ送った。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.106、『全集11』p.474)
☆他の記述からすると、この「二月三日」は「二月二日」であろう。


■志代の結婚までの略歴を、稲垣志代著『夫稲垣足穂』(芸術生活社、昭和46年10月)巻末の年譜から抜粋すると下記のとおり。

明治40年4月25日 愛媛県宇摩郡生まれ。
大正9年 八幡市の大蔵尋常小学校卒業。
10年 八幡製鉄所病院看護婦養成所に入学。仏教済世軍の真田増丸師に師事、その後の精神生活に大きな影響を受ける。[14歳]
12年 正看護婦となる。文学書に親しむ。[16歳]
13年 助産婦の国家試験に合格。[17歳]
15(昭和元)年 製鉄所病院で真田師死亡。同僚と共に最後の看護をする。これを機に、五年間勤めた病院をやめる。大阪の上村派出看護婦会に入る。
 京都で後の芥川賞作家、小谷剛の両親と知り合う(小谷家は新聞店を経営、剛は当時三歳)。[19歳]
昭和4年 小谷夫妻の紹介で日隈要蔵と結婚。小谷家より新聞店をひき継ぎ経営、かたわら助産婦開業。[22歳]
9年 長女誕生。[27歳]
15年 日隈要蔵と協議離婚。[33歳]
16年 私立タカダ幼稚園勤務。[34歳]
17年 西本願寺、少女保護施設六華園の保護主任となる。当時京大経済学部の学生だった伊達得夫を知る。[35歳]
18年 西本願寺、山ノ内母子寮寮監となる。西本願寺僧籍に入る。[36歳]
22年 社会事業大会出席のため上京の折り、稲垣足穂の名を聞く。[40歳]
23年 京都府児童福祉司に任命される。府の婦人児童課に勤務。『ヰタ・マキニカリス』を読んで、稲垣足穂を訪問。……[41歳]
24年 文通がはじまる。……約三十通もらう……。京都文芸懇話会に出席願いたしの依頼用件を持って上京す。[42歳]
25年2月 稲垣足穂を京都駅に迎える。……府立伏見児童相談所へ転勤。


京都右京区山ノ内「染香寮」へ
立春の前日
◇節分前日の朝、私は京都駅へ出迎えに行った。……よれよれの国民服り上に婦人用グレーの毛糸編ボックスをひっかけ、黒色の毛糸帽子をかぶり、濃緑の色メガネをかけ、ズック履きだった。先方でもこちらをみつけ、小脇に小さな風呂敷包を一つ抱えて、近づいてきた。(p.46)
☆「節分前日」は、「節分当日」(「立春前日」)であろう。

★ぼくもこんど、汽車が大津に停ったとき、三井寺にあって余生を送ったと聞く建礼門院右京大夫を思い出したが、……(「春は曙の記」『全集11』p.4〜5)

◇飲食店を出た私たちは、連れ立って、右京区山ノ内染香寮へお昼近くに着いた。(p.48)

★昭和二十五年の立春の前日、東京から着いて落ちついた先が、右京区山ノ内「染香寮」という、この地にある中央仏教学院の学生寮として建てられた二階建であった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.8)
☆萩原氏の年譜では、「京都市右京区山内御堂町中央仏教学院学生寮(染香寮)」となっているが、この「御堂町」は「御堂殿町」の誤り。

★この二階八畳には、西山のたたずまいを額ぶちに取り入れる小窓と、そのならびに、よこに細長い採光窓がある。残りの三方はふすまと障子で、……(春は曙の記」『全集11』p.5)

★ところで僕はこんど京都に越したが、ここが親鸞聖人往生之地と伝えられる右京区山ノ内で、角ノ坊という本願寺別院の所在地である。(「兜率上生」『大全6』p.354、『全集11』p.12)

2月8日
◇京都文芸懇話会が発足した。その発会式のようすが、京都新聞夕刊で、次のように報道された。「京都文芸懇話会は『確証』で芥川賞を受けた小谷剛氏を迎えて、二月八日午後一時から大毎会館で京都在住の作家百人が集って行われた。天野府教育長の挨拶に続いて京大教授伊吹武彦氏、作家小高根二郎氏らが京都文壇確立の要を強調、小谷剛氏を囲んで討論を行ったのち、懇話会準備委員として関根牧、吉村英夫、真下五一、臼井喜之介、桑原武夫、伊吹武彦氏等十八氏を選出、事務局を設け、文芸会館の設置、機関紙「京都文芸」を刊行することに決めた。」(その後、有志によって「文学精神」が発刊された)……私は稲垣をこんな場所に引っぱり出したことは、どうやら場違いであったことに気づいた。(p.52)

?月
◇「勤め先の役所へ、結婚届を出さなければならないのですが、どうしましょう」……かねがね明石で暮らしていたことを耳にしていたので、手続きすると戸籍謄本が届いた。……稲垣の耳に入れないで、書類を揃えて京都府互助会へ提出した。

3月 ★「謡曲の宇宙情緒」<詩歌殿、太陽系社>[→「日本の天上界」9-242]

3月 ★(『現代日本小説体系・第44巻』)《河出書房》
収録作品(2編)「一千一秒物語」「星を売る店」
☆「一千一秒物語」はこのとき、「A CHILDREN'S SONG」「電灯の下をへんなものが通った話」の2話が追加された。

★この二階の窓から見る西山が、キネオラマの人工風景みたいに千変万化するからだ。……見恍れさせられるのは、朝夕の、微妙な、稜線にそうた茜色だ。近所の角ノ坊の梵鐘が鳴り、八声の鳥の声ともろ共に、まだうすら寒い空気の向うに白々と浮び上ってきたさまは、まことに「春は曙」そのものである。(「春は曙の記」『全集11』p.3)

お彼岸近く
★三月もお彼岸近く、獅子座についで乙女座が東にのし上っているから、プレイアデス星団はすでに没し……(「春は曙の記」『全集11』p.5)

桜が満開
◇「先生は、寝床から離れないようですが、どこか身体の具合いでもわるいのではありませんか」私も、「節分のころに来られていまは桜が満開なのに、冬眠にしては少し長すぎるようですね。……」(p.55)

夏の初めごろ
◇夏の初めごろから、稲垣は冬眠から覚めたように寝床から離れ、昼間はこの界隈を歩き回っていた。……内心では彼の創作意欲がぼつぼつ動き出したのではないかと思った。(p.57)

★暑い日のお午まえ、僕は御室川の脇を溯り、山陰線レールを越えた。雙ケ丘の全く人々から忘却されていることが、僕をその方へ引き寄せたのだった。(「雙ケ丘」『大全5』p.91)

★「雙ヶ岡」は、洛西、山ノ内に落着いて最初に私の眼にとまった古蹟である。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.157、『全集11』p.498)

7月 ★「春は曙の記」<文学精神>[11-3]
◇原稿はいつのまに書いたのか、関屋さんが持ってきた「文学精神」創刊号に、稲垣の『春は曙の記』が載っていた。京都へ来て初めての作品だった。(p.58)
☆「春は曙の記」には、長い旅を終えた渡り鳥が羽を休めているような深い安堵が感じられる。
☆「何はともあれ、戦後派の騒々しさにはあきあきした。ぼくはこれから京都の花と月に親んで、それらとシュールレアリズムとの連結について、――また世界思想界の印度哲学、殊に瑜伽への新らたな関心について、思いを凝らそう」と、すでに新たな決意も示している。

夏頃
★僕は去年の夏頃、朝日新聞の学芸欄に、「ヤスペルス氏は、人間実存の最高永遠の表象として広隆寺の弥勒像にまさるものは世界にないであろうと洩らした」の数行を読んだ。しかもその古刹が、現に住んでいる右京区山ノ内のつい近所であることを知り、傍ら自分に「弥勒」という旧作があることから、これらの顛末を随筆に書いて中外日報に寄稿した。(「僕の弥勒浄土」『全集11』p.66)
☆この記述からは、この年(昭和25年)の夏頃に「中外日報」にエッセイを発表していることになるが、未見。
☆また「僕の弥勒浄土」は、萩原氏の全集解題では昭和33年6月「作家」発表が初出となっているが、この記述からは昭和26年に原稿を書いていることになる。未見だが、この年に何かに発表したのではないか?

夏の終りの頃
★又、夏の終りの頃だったが、西ぞら一面の、宛ら兜率内宮の上天のような大景観に接した。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.9)

9月 ★「兜率上生」<作家>[11-9]
◇『兜率上生』は「文学精神」第二号のために書いたのだが、「編集者関屋牧が載せなかった」と、亀山龍樹さんが返してよこした。その原稿を重森弘淹氏が、「作家」にもらいたいといって持ち帰った。「作家」に載った初めての作品だった。(p.63)
☆同様の記述は『タルホ=コスモロジー』p.104に。
☆志代は同書p.65に、「稲垣は、山ノ内での生活の終りの年の暮れに、次のような手記を書いている」として、「兜率上生」からの文章を引いているが、それは暮れではなく9月。
☆「兜率上生」には、広隆寺を訪ねたが、「宝物拝観は改めて友だちと連れ立ってやってくることにしようと、身を返し、……」とあり、弥勒菩薩像を拝観しないで引き返したと記している。なぜか? また、この「友だち」とは誰を想定していたのか? 結局、この秋に竜大生H君と一緒に行ったのが最初であった。
☆「ついでに衆生とは多くの人間、せいぜいが無数の生類を指すのだ、と僕は思い込んでいた。本当は衆生死の略なのである。……これが判ったのは、恥かしいことながらつい数日前の話である」とある。

★秋風の一日、僕は過日見付けておいた「双ケ丘児童遊園」の先へ行こうと思い付いた。……第三丘のかかりに、「兼好法師遺跡」の立石を見た。……後日、先の立石の側面に長泉寺の三字を読んだ……(「雙ケ丘」『大全5』p.92)

★もう十五年の昔になるが、東京から洛西山ノ内に移って、私は間近に見える三つの丘がそれぞれに佐藤春夫の「美しき町」さながらの……(「京都タワーがなぜ悪い!」『全集12』p.388)

11月22日
★ちょうど此日、広隆寺の境内には「火焚き祭」とやらが催されて、霊宝館内へもチラホラ拝観者がはいってきた。(「僕の弥勒浄土」『全集11』p.66)
☆「火焚き祭」は11月22日の聖徳太子の命日に行われるので、タルホが初めて広隆寺の弥勒菩薩像を見たのはこの日だったことが分かる。


★秋になって、竜大生H君に誘われるまま広隆寺の宝物殿に出向いてみると、ミスチックに白鳳仏の下方に、ヤスペルスの言葉が貼り出されていた──(「雙ケ丘」『大全5』p.88)


★ヤスパースが激賞している広隆寺の弥勒像を眼の前にしたのもこの秋のことで、私は「これは本物だ!」とびっくりし、且つうれしくなったのだった。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.9)


◇秋になって稲垣は、おいおい生気をとり戻してきたようだった。とりわけ広隆寺の弥勒像を観て帰った日には、……京都での第二作は、広隆寺行きから始まった『兜率上生』。つづいて『双ケ丘』の第三作があった。(p.63)


★私は京都に移った年の秋、日本最初の電車である伏見線に乗った機会に、東山丘陵が次第に低まっている辺りに旧深草練兵場を求めたが、この時は未だよく見当づけられなかった。(「ライト兄弟に始まる」『大全1』p.607)

12月 ★「触背美学」<詩と詩人>[全集不掲載]
☆この作品は、タイトルと掲載誌のみ判明して、内容は未見であったが、『足穂拾遺物語』(高橋信行編、青土社、2008年)に収録された。


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