1951(昭和26)年 50歳 宇治へ



1月 ★「日本の天上界」<作家>[9-242]

2月 ★(公開質問:回答)<群像>[全集不掲載]
☆未見。不祥

3月1日
★今月の初めから、市制が布かれたばかりだった。第一回宇治川まつりの歓迎門が立ち、ボンボンがならんでいる。……ボクはこんど、久しぶりに宇治にやってきて、なんだか、こんな所でなかったような気がした。何しろこの前は三十五年のむかしだ。(「宇治の景色」『全集12』p.350)
☆宇治に市制が布かれたのは、1951(昭和26)年3月1日。
☆「三十五年」前とは、1914(大正3)年秋、関西学院中学1年のときに宇治へ旅行に行ったこと。

宇治黄檗山万福寺へ
3月3日
◇昭和二十六年の年が明けるとともに、母子寮の拡張工事が始まった。染香寮にも大工がはいってきたので、ここの住人は他所へ移らねばならないことになった。……和田先生は僧籍があって、黄檗の万福寺塔頭、慈福院に住んでおられた。……リヤカーは折目博子さんから借りた。……若い文学愛好者のなかの篤志のかたがふたりで引いていってくれた。……稲垣は風呂敷包を一つ、都は小猫を、私は人形ケースを下げて、春の雪がちらつくヒナの節句に黄檗へ引っ越した。(p.90)
☆萩原氏の年譜では、転居先は京都府宇治市五ヵ庄三番割の黄檗山万福寺子院慈福院。
☆『夫稲垣足穂』の年譜によると、志代は昭和25年に「府立伏見児童相談所へ転勤」とある。

★洛西やまのうち、昼間は兼好法師の雙ケ丘がそこに指呼され、夜は広隆寺の森の背後から──宛ら諸天の集いのように──撮影所の火光が放射する所に住むこと一年余、僕はこんど宇治に引越した。(「宇治桃山はわたしの里」『大全5』p.112)

★終戦以来、十五回にわたって居を変えて、いまこの時に、やっと少年時代の水彩画に似た静謐が取戻せたことを身内に覚えた。(「宇治桃山はわたしの里」『大全5』p.116)

◇稲垣もここでは万年床というわけにはいかず、ほとんど出歩いていたようだったが、例の宝探しの場所としては恰好の土地だった。……日曜日の午後、稲垣の案内で、茶畑のあぜ道を横切り、木蓮と桜の開きかけている小径に出ては、またあぜ道を伝いながら、「墓所めぐり」をした。(p.91)
☆二人の「墓所めぐり」の様子は、「宇治桃山はわたしの里」(「2.紫の宮たちの墓所」『大全5』p.120〜125)に。1度だけではなかったようだ。
☆「宇治桃山はわたしの里」(『大全5』p.116)に、「宇治川をつかまえたいという他に、もう一つの目的があった。やはり「足」の字に関係している。でなかったら、なんで藤原時代の戸籍しらべをしようなんていう気が僕に起きるであろう」とある。「足」とは、自分の名前が藤原鎌足から取られたことを指す。

★右京区山ノ内から宇治黄檗に引越して、まず知ったのが宇治陵である、この顛末を(「失われし藤原氏の墓所」に)書いて「群像」に載せた……(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.157、『全集11』p.497)

★宇治五ヶ庄の旧陸軍火薬製造所跡を女客と共に歩きながら、……前方におぐら池干拓地を見下した時に、民間飛行家星野米三のグライダー物語を書いてみようと思い立った(「おくれわらび」のこと)。(「タルホ=コスモロジー」『タルホ=コスモロジー』p.179)

◇ある日突然、伊達得夫さんが訪ねてきた。(p.93)

◇黄檗での約束の一ヵ月余の期限も過ぎて、私はほうぼうかけ回った揚句、文芸懇話会で知りあった常田富美さんを訪ねた。常田さんは小高根二郎氏に連絡してくれた。私はさっそく宇治の日本レーヨンの人事課長だった小高根氏の社宅を訪ねた。……宇治川の東岸平等院とは水流を隔てて、向かい合ったところに恵心院があった。ここの庫裡に小高根さんの配下の青年が下宿していたことがあって、そこがちょうど空いていたのだった。(p.94)

★左へ行けば、宇治神社の境内、右には山門があって、「朝日山恵心院」とかろうじてよめる札が懸っていた。「ホホウ、ここはいい」と小高根さんがまず口に出した。……一年間暮した洛西山ノ内、西本願寺角ノ坊別院前のお講の詰所が、こんど母子寮の拡張にあてられることになって、ボクらは黄檗に移ったが、これは一ヵ月の約束の仮ずまいだった。(「宇治の景色」『全集12』p.355)
☆恵心院に移った経緯は、同p.357に。

宇治朝日山恵心院へ
4月
◇恵心院の庫裡にいったん落ち着いたが、しばらくして裏の小屋が空き、そこへ移ることになった。その小屋は、裏山に水力発電所を建てるときの飯場であった。(p.95)
☆萩原氏の年譜では、恵心院への転居は4月で、住所は宇治市宇治山田6番地の朝日山恵心院。

★それから五十年近い歳月が流れ、私はたまたま鳳凰堂と流れをへだてて相対した、恵心院に住むことになった。……これが、鳳凰堂修理のために、ヨシズ張りがめぐらされた年であった。それから七、八年目に覆いは取られ、わが阿弥陀堂は五十年ぶりに、私の眼前に全容を現わした。(「模型極楽」『全集12』p.392〜393)
☆昭和の大修理は昭和25年から32年。桃山婦人寮職員宿舎に移ったのは昭和35年だから、改修後の鳳凰堂を見ることができたのである。

4月 ★(アンケート:わが文学の泉)<群像>[13-463]

5月
★五月に入ったばかりの或る午前おそく、ボクは琴坂の下を抜け、亀石が見えるみぎわを過ぎて、宇治川東岸をさかのぼっていた。あさ日山麓の新居に移ってから、まだ二週間にもならなかった。(「宇治の景色」『全集12』p.359)

5月 ★「E氏との一夕」<作家>[3-346]

5月 ★「ならびガ丘」<群像>[→「雙ヶ丘」9-91]

6月 ★「失はれし藤原氏の墓所」<群像>[→「宇治桃山はわたしの里」9-99]

7月の終わり
★恵心院へ移ってすぐ、七月の終りに、東京から若い女性がたずねてきた。先に梅崎春生に媒酌を頼んだことのあるはたち娘である。(「東京遁走曲」『東京遁走曲』p.97)

★もう一人の山本浅子さんは、……やはり常田夫人の紹介で、梁さんより半年程早く、朝日山を訪れてきた人である。(「二人の女弟子」『全集11』p.120〜121)
☆「昭和27年早春」の梁雅子より半年早いとすると、この年の夏頃か。

9月22日
☆『新文芸読本・稲垣足穂』(河出書房新社、平成5年)p.76に、衣巻省三と写っている写真があり、「昭和26年9月22日写す」のキャプションがある。場所は宇治川畔と思われる。この日、衣巻が恵心院を訪ねたのであろう。

★東京から遊びにやってきた衣巻省三は、ひと目見て、「こりゃカンボジアの墓だ。女房にも見せてやりたい」と云った。(宇治桃山はわたしの里」『大全5』p.97)
☆これは上記9月22日のことではあるまいか。

10月 ★「日本の美少年」<作家、別冊>[12-341]

☆この年に「僕の弥勒浄土」の初出を何かに発表しているのでは?
☆それは『足穂拾遺物語』(高橋信行編、青土社、2008年)に収録された「ボクの弥勒浄土」(「中外日報」昭和28年8月12日〜15日号)のことであろう。

★……木ノ内洋二君は、昭和二十六、七年頃、明大仏文科の学生として前後二回、宇治恵心院に私を尋ねてきた。彼の年賀状に描いてあった素描を真似たのが、即ちこれである。(「タルホ・ファンタジー自註」『全集11』p.332〜333)
☆タルホ・ピクチュア「ソーセージと麺麭」について。


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