タ ル ホ = ラ リ ー ・ ク ロ ニ ク ル




 タルホは「ラリー・シーモンの回想」1の中で、「君のフィルムを初めて僕が観たのは、東京大地震の年の春のことだった」と言っています。そうすると、それは1923(大正12)年の春だということになります。ただ、タルホが最初に観たという「無茶苦茶ラリー」については、いまのところその原題を特定することができません。そして、「これを皮切りに、君の最初の長篇『オズの魔法使い』……それから、スタンバーグの『暗黒街』の片隅で、ギャングの弟子として、山高帽の曲芸をやっていた君に至るまで、僕は十種ばかし君の姿態に接したであろうか」(同上、p.126)と述べています。これから判断すると、タルホがラリーの映画を観たのはおそらく、1923(大正12)年〜1928(昭和3)年2の足かけ6年で、その間の作品タイトル11本を記していることになります(別掲「タルホ作品に登場するラリーの映画」のページ参照)。
 ここではまず、タルホがラリー映画を観た過程を、順を追って見ていくことにします。

 タルホがラリー・シーモンの映画を初めて観た1923年といえば、上京から2年後のことで、この年、西巣鴨新田に移り、1月には金星堂から最初の単行本『一千一秒物語』が刊行された年にあたります。
 タルホの作品にラリー・シーモンの名前が最初に現れるのは、その翌年、1924年6月に発表した「私の耽美主義」3ではないかと思われます。その末尾に付けられた「大統領チックタック氏公開状」の第5に、次のように出てきます。

5.悲劇よりもをかしな童話劇、ハープトマンやショーの社会劇よりもロードダンセニイ卿の神秘劇、人形のあり得べからざる滑稽なキネマ、少年が月夜の原つぱで失くした小さなアートペーパーの三角帽子、風船玉探偵ラリーシモンの早業……

 「私の耽美主義」は、自らの美学上の立場を初めて闡明にしたマニフェストですが、タルホの耽美主義的感覚にマッチするものの一つとして、ここにスクリーン上のラリー・シーモンが付け加えられたことになります。
 その1年後に発表された「来らんとするもの」4は、先の「私の耽美主義」を補足するものとして、自らの立場によって来るべき芸術について述べようとしたものですが、「ピカビアの画が他のそれに似たものとちがつてゐるごとく、ラリーシモンの喜劇がゴチャゴチャさはぎであつたものから一つの遊離とオートマチツクの意義とを開かうとしてゐる……」と、ここでラリー映画が他のコメディとどのように異なったものであるか、その特質をようやく具体的に明らかにし始めています。
 そして、「来らんとするもの」を書いた1925年、おそらくこの年の春に「笑国万歳」(Wizard of Oz)を観たのだと思われますが、それがきっかけとなって、8月、「オートマチツク・ラリー」5と題して、初めてラリー・シーモンを単独で取り上げて論評します。
 この中に、「昨年の春であつたか、ひよつくりとわがラリーシモンを見つけた。しかし、この役者のものはあまり来ないやうだから、今日まで二つしか見てゐない。この間神戸へ「オヅの魔法使」(笑国万歳)といふのがきたので明石から6見に出かけた」という記述があります。「今日まで二つしか見てゐない」というのは、「無茶苦茶ラリー」と、おそらく「電光ラリー」(原題不詳)のことだろうと思われます。先の2本がたまたま遭遇した映画だったのに対し、3本目となるこの「笑国万歳」は、「僕が役者の名で出かけたのはこれが最初である」と言っているように、わざわざ観に出かけたものでした。そしてこの「笑国万歳」を観て、それがまさしくタルホの期待に背かないものであったことから、ラリーに対する評価は決定的なものとなったようです。
 「ともかく、活動役者の写真がほしいといふ心持を、僕はこんどの場合ではじめて知つた」と洩らしていますが、実際にその後、写真を部屋の壁にピンナップ7するほどのラリーファンとなっていました。さらに、「ねがわくば僕に日本語が英語の位置にあるなら、さつそく、……ラリーのところへかけつける。合同作品のムーンシヤインコメデイはすべてセツトとトリツクと花火応用である」と、ラリーと一緒に映画をつくりたいと空想をめぐらすほど、この頃タルホの心は昂ぶっていました。また、のちに書いた「ラリー・シーモンの芸風」の中で、「僕はいつかラリーに僕のお伽集8を送つたことがある」と言っていますが、それもこの頃のことでしょう。傾倒ぶりが窺えようというものです。

 「オートマチツク・ラリー」の4ヶ月後、1925年12月にタルホは「ラリイシモン小論」9を発表します。ここでは、「笑国万歳」以降に観たさらに3本の映画、すなわちThe Midnight Cabaret (「旋風ラリイ」)、The Barnyard (「突貫ラリイ」)、The Girl intheLimosine (「豪傑ラリイ」)について記しています。この3本はいずれも、実際には「笑国万歳」より前に製作されたものですが、わが国での封切りは前後したのだろうと思われます。
 「ラリイシモン小論」には、「あの長い耳をした男はゆうべ月から落ちてきたのだ」というエピグラフが付いています。この一節を、渋谷の映画館の弁士が引用していたと、後年タルホは語っています10
 ところで、タルホが観た11本の映画のうち、「無茶苦茶ラリー」「電光ラリー」の2本と、The Midnight Cabaret およびTheBarnyard が、ラリーのヴァイタグラフ時代の2巻物作品で、そのほかはチャドウィックその他で製作された長編物です(HerBoyFriend のみ2巻物)。つまりタルホは、ラリーのヴァイタグラフ時代の映画は4本しか観ていないことになります。ここであえてラリーが所属した映画会社を持ち出すのは、タルホがSpuds (「ラリー将軍珍戦記」)とWizard of Oz (「笑国万歳」)のほかは長編物をあまり評価しておらず、その印象も薄かったようなのに対し、The Midnight Cabaret については、「君の芸術を最もよく代表しているのでないか」、あるいは「僕が見たうちでは、最も彼を代表する名作でないかと思う」と、最も高い評価を与えているからです。すなわち、The Midnight Cabaret はヴァイタグラフ時代最末期の作品だとはいえ、別掲「プロフィール」のページで触れたように、それがラリー・シーモンの全盛期に属する作品の一つであることを、タルホがいみじくも言い当てているからです。GrapevineVideoのコレクションにThe Midnight Cabaret が含まれていないのは残念ですが、「――大小の風船玉が揺れている下で、お酒のグラスを突きつけられて首をよこに振っていやいやをしている君、――隣席の女からムギワラを通して口の中へタバコの煙を吹き込まれている君」(「ラリー・シーモンの回想」)と、当該作品を指していると思われるタルホの記述などから、おそらくキャバレーのボーイに扮したラリーが、踊り子の一人と共に、客の中の悪党一味に追いかけ回されて大騒動をした結果、最後は逆に彼らを捕まえて一巻の終わり、といった内容だろうと想像できます。

【補遺】
 今回、YouTubeでThe Midnight Cabaretを観てみると、タルホが上に記しているようなシーンは出てきません。「隣席の女からムギワラを通して口の中へタバコの煙を吹き込まれている君」とあるのは、Her Boy Friendのシーンではないかと思われます。ただし、ムギワラでなく、長いキセルからタバコの煙を口の中に吹き込まれています。これと勘違いしているのかもしれません。

 なお、このThe Midnight Cabaret は創作「ラリイの夢」11のオチに使われて、「活動で見たいのはもうラリイの他にないのだから」とまで言っています。
 「ラリイシモン小論」の翌年に発表された「われらの神仙主義」12「タルホ入門」13などをみると、この頃すでに、ラリー・シーモンはタルホ美学のうちに明確に定着させられており、言い換えれば、ラリーはタルホ世界の一面をスクリーン上において代弁してくれる存在でさえあったようです。
 また、この時期、「映画美と絵画美」14「タイトルに就て」15「形式及内容としての活動写真」16など、映画についての論評を立て続けに発表しているのも、おそらくラリー映画との出会いが一つの契機となっているにちがいありません。
 その後17、The Perfect Clown(「百鬼乱暴」)、続いてStop, Look and Listen(「弗箱シーモン」)の順に長編物を観たようですが、前述のようにタルホの印象はあまりよいものではありませんでした。
 そして1927年7月、「「ラリー将軍珍戦記」を観て」18を発表します。この中で、「この間ラリーシーモンの"SPUDS"を見、面白かつたので、けふ近くの三流館へまはつてきたのをもう一度見た」といって、この映画を2回観たことを記しています。そして、「ラリーシーモンは私に云はすると議論の余地のないところへ来てゐる」と断言しています。

 ところが、それから1年余り経った1928年10月8日、ラリー・シーモンの突然の死が知らされます。この訃報はタルホにとってかなりショッキングな出来事だったはずです。さっそくタルホは、「今は思い出のラリー・シーモンへ」19と題して追悼文を書きます。「僕は若く、君もこれからだと思っていた。それなのに、余りにも気に入ったものに対する危惧が、とうとう現実に起ってしまった」と、その死を悼んでいます。語りかけるような口調に切なさが滲んでいますが、しかしすぐに、「僕はしかし失望すべきではない。……僕は、君が暗示し、教えている方向へ進むであろう」と、気を取り直す余裕も見せています。
 この年の終わりにタルホは、「ラリー・シーモンの芸風」20を発表します。当時、タルホは池内舞踏場で姉妹と同居していましたが、この中で、一匹のカエルがラリーの死を報せたという、女史との間に交わされた面白いエピソードを紹介しています。ここでタルホは、これまでに観たラリー映画11本の総まとめを行っており、これがラリーについての最後の論評となりました。

 その後もラリーの名は、創作「鉛筆奇談」21に用いられたり、「新文学の基礎」22「物質の将来」23 「映画のつまらなさ」24などいくつかの作品に散見されますが、とくに新たな局面を拓くものとはなっておらず、1930年頃を境に、次第に作品上からラリーの痕跡25を見いだせなくなってゆきます。
 このように、タルホのラリー・シーモン体験を辿っていくと、それが年譜上では西巣鴨新田時代にぴったりと重なることがわかります。



UP
BACK



















































n o t e s


1「ラリー・シーモンの回想」
 「週刊朝日」(1928年10月)初出、『稲垣足穂全集1』(筑摩書房、p.125)。

21928(昭和3)年
 「暗黒街」はラリーの主演映画ではありませんが、資料によれば、わが国での封切りは1928年ですから、タルホが記している11本のうちでは最後に見た映画になります。ちなみに、ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ監督はその後、マレーネ・ディートリッヒを主演にした「嘆きの天使」「モロッコ」(いずれも1931年封切り)などの作品で有名。
 余談ですが、晩年に書かれた「鉛の銃弾」(『全集10』、p.437)には、池内舞踏場に出入りしていた人物たちを回顧した中に、「常連の背高の大学生をてっきりイナガキタルホだと思い込んで、彼と共に駆落した人妻。その脚長グモのような青年は、スタンバーグ監督「暗黒街」に出てくるラリー=シモンを以て、「居ても居なくてもよい人物だ」と、私への当てつけに大声で話していた」とあります。
 

3「私の耽美主義」
 「新潮」初出、『全集1』(p.67)。この作品は、のちに「わたしの耽美主義」として改題・改訂されますが、「タルホ=コスモロジー」には、次のようにあります。「たぶん大正十二年末だった。私は、「A・O氏の耽美主義」と題した相当に長いものを企て、これが頓挫して支離滅裂になってしまったことがある。この篇中のA・O氏と自分との対話の部分を独立させ、箇条書にして「新潮」に発表した。即ち「わたしの耽美主義」であって、この旧稿に加筆したのである。附録の「チックタック氏公開状」は、旧友猪原太郎からの手紙を台にして、トリスタン・ツァラの「アンチピリン氏天上冒険」の向うを張るつもりで書いたもの」(『全集11』、p.482)。

4「来らんとするもの」
 「新潮」(1925年7月)初出、『全集1』(p.427)。

5「オートマチツク・ラリー」
 「文藝春秋」(1925年8月)初出、『全集1』(「オートマチックラリイ」、p.283)。

6明石から
 別掲「キネマ旬報」の記事によれば、「笑国万歳」は1925年春の封切りなので、その頃、明石に帰省していたのでしょう。ただし、この「明石から」という言葉は、『天体嗜好症』(春陽堂、1928年)所収の改訂版では削除(『全集』は改訂版を収録)。
 ところで、今回の『全集』で初めて目にした「海浜漫談」(第12巻、p.51)には、「もらった金はすぐ使ってしまうので、僕の明石滞在も満一年になりかかった」という記述が見えます。この作品は、1925年8月20日「中央新聞」発表とあるので(「オートマチツク・ラリー」の発表年月と同じ)、その前年1924(大正13)年の夏頃から少なくとも1年間、タルホはずっと明石に帰っていたことになります。そうすると、「笑国万歳」を見たのは、その帰省時ということになります。

7ピンナップ
 「ラリー・シーモンの芸風」(同上、『全集12』、p.200)には、「今壁にとめてあるしやしんが――ラリーのしやしんがなかなかないのを、僕の知合ひの或解説者が見つけてくれたものである」とあります。この部屋はもちろん、池内姉妹の舞踏場がある一室になります。

8 お伽集
 たぶん『一千一秒物語』のことでしょう。しかし、「尤も面倒くさがり屋でアドレスも別に調べず、只こゝがよからうと教へられた或製作会社気付にしたのだから、ラリーの手にはとゞかなかつたらうと思ふ」と述べています。ラリー・シーモンは1924年にVitagraph社を辞め、Chadwickに移っていますが、Braffのフィルモグラフィに見るように、その後も製作会社が次々に替わっています。梨のつぶてだった理由は、そんなことが関係したのかもしれません。

9「ラリイシモン小論」
 「文藝春秋」(1925年12月)初出、『全集12』(「ラリイシーモン小論」、p.56)。

10語っています
 これは又聞きのようですが、「渋谷道玄坂の映画館にラリー・シモンのスラップスティック喜劇が懸っていた時に、やはり弁士が、私が「文藝春秋」に書いたラリー・シモン論から引用、「彼はゆうべ月から落ちてきた、とある文学者は云った」と喋っていたと」(「「ヰタ・マキニカリス」註解」、『全集2』、p.371〜372。「少年愛の美学」、『全集4』、p.193にも同様の記事)。

11「ラリイの夢」
 「文芸道」(1926年4月)初出、『全集12』(p.71)。

12「われらの神仙主義」
 「新潮」(1926年4月)初出、『全集1』(「われらの神仙道」、p.431)。

13 「タルホ入門」
 「不同調」(1926年12月)初出、『全集1』(p.444)。

14「映画美と絵画美」
 「文芸時代」(1926年10月)初出、『全集1』(p.443)。

15「タイトルに就て」
 「若草」(1926年11月)初出、『全集12』(p.128)。

16「形式及内容としての活動写真」
 「新潮」(1927年6月)初出、『全集1』(p.447)。

17その後
 「「ラリー将軍珍戦記」を観て」の中に、「私はこの前に「弗箱シーモン」"Stop look, and listen"を見たが……。さらにそのまへに見た「百鬼乱暴」……」とあることから、タルホの観た映画の順序が判明します。ただ、残る1本Her Boy Friend については、どの時点で観たのか不明。

18「「ラリー将軍珍戦記」を観て」
 「不同調」(1927年7月)初出、『全集12』(「『ラリイ将軍珍戦記』を観て」、p.165)。

19「今は思い出のラリー・シーモンへ」
 初出の「週刊朝日」(1928年10月)は未見。『全集1』(「ラリー・シーモンの回想」、p.125)。

20「ラリー・シーモンの芸風」
 「映画時代」(1928年12月)初出、『全集12』(p.199)。この映画専門誌は文藝春秋社が発行元で、先の「オートマチック・ラリー」と「ラリイシモン小論」がいずれも「文藝春秋」に掲載された関係からでしょう。

21「鉛筆奇談」
 「創作月刊」(1929年4月)初出、『全集12』(p.204)。

22「新文学の基礎」
 「国民新聞」(1929年3月25-27日)初出、『全集1』(p.469)。

23「物質の将来」
 「詩と詩論」(1930年3月)初出、『全集1』(p.91)。

24「映画のつまらなさ」
 「作品」(1930年11月)初出、『全集12』(p.221)。

25 痕跡
 戦後になって、「僕の触背美学」(「作家」1955年9月初出、『全集9』、p351)、「アド・キルー「映画とシュルレアリスム」を読んで」(「SD スペースデザイン」1968年11月初出、『全集11』、p.222)、「「文科」の頃」(1974年1月、『全集11』、p.426)、および「少年愛の美学」(『全集4』、p.193)などにラリーの名が見えます。特に「少年愛の美学」は、ラリー・シーモンとハリー・ラングドンとを併せて、A感覚と結びつけて論じている点で注目されます。