"Material Transcendentalism" が行方不明です




  

ボッチョーニの "Material Transcendentalism" と〈力線〉

木村荘八の「未来派解説」

「美術新報No.6」における有島生馬の翻訳

"Pittura Scultura Futuriste (1914)"

「未来派特集号」

"Material Transcendentalism"が出てこない

"Material Transcendentalism"とその訳語を整理してみる

2つの重要な情報

〈未来派絵画技術宣言〉と〈物質の相互浸透状態〉

〈未来派彫刻技術宣言〉と"transcendentalismo fisico"

未来派の〈マニフェスト〉を整理してみる

〈力線〉についての唯一の論考

〈精神状態の同時性〉──〈記憶〉と〈知覚〉

〈澎湃たるもの〉と〈力線〉

〈ギュイヨン夫人〉の言葉

〈ド・ジッター博士〉の宇宙

残った疑問

附録/未来派およびボッチョーニの略年表


CONTENTS






















ボッチョーニの "Material Transcendentalism" と〈力線〉


 「弥勒」第1部「真鍮の砲弾」に、次のような一節が出てきます。

「こうして窓硝子越しに銀星が二つ三つ煌めきそめると、この室内の卓子も椅子も、壁に嵌められた姿見も、額縁も、西洋箪笥も、みんな一様に限界を喪失して、バラバラな破片になり、互いに滲透し合う存在となって、それこそ未来派画家の「物質的先験論」を織り出しながら、無辺際の彼方の星雲にまで届く力線を放射しているように覚えられた。」(【大全/タルホスコープ】版)

 ここで言う「物質的先験論」は、初稿の【小山書店】版では、〈「質的超絶」(Material Transcendentalism)〉とされていたものです。〈未来派画家〉とは、ここでは明らかにされていませんが、ウンベルト・ボッチョーニ(Umberto Boccioni)を指しています。
 「美のはかなさ」に次のようにあります。

「第一次大戦で戦死した未来派画家兼彫刻家のボッチョーニに"Material Transcendentalism"という造語があった。各物体はそれ自身にそなわる力線を伸ばして、おのおの形態を粉砕し、無限に拡大しようとする傾向を持っている。なんでもそんな謂であった。」(【大全/タルホスコープ】版)
※ボッチョーニは、ここでタルホが言うように〈戦死した〉のではなく、従軍中に落馬がもとで死亡したようです。

 ただしボッチョーニ自身については、タルホは、

「セヴェリーニを筆頭にした前記の画家の中でも「未来派画家宣言」に署名している五氏が、本物だと言うべきであって、セヴェリーニ、カルラ、ルッソロと同程度に、ボッチョーニとバルラを私は買うことが出来ない。」(「カフェの開く途端に月が昇った」【人間人形時代】版)

「ボッチョーニの功績は未来派絵画及び彫刻の理論にあって、特に"Material Transcendentalism"という卓抜な見解と、"Modernalatria"という独自な造語である。」(「同上」
※"Modernalatria"については不詳。

などと述べていて、必ずしも高い評価を与えていません。
 とはいえ今回は、タルホが〈未来派〉について語るとき必ず登場する、ボッチョーニのキーワード"Material Transcendentalism"および〈力線〉に焦点を絞って考察を加えてみたいと思います。


木村荘八の「未来派解説」 


 さて、タルホと〈未来派〉との最初の出会いはどのようなものだったでしょうか。
 「カフェの開く途端に月が昇った」(「未来派へのアプローチ」の改稿)では、タルホは関西学院中学部3年生のときの秋季雄弁大会で、自身が「都城の椿事を聴いて」を講演した同じ日、〈森田君〉という上級生の「未来派芸術とその価値」という講演を聴いたのが、未来派との最初の出会いだったと言っています。
 するとそれは、1916(大正5)年秋、タルホ15歳のときのことになります(本サイトの〈タルホ年譜ノート〉参照)。その年はまた、東郷青児が「パラソルを差せる女」を二科展に出品した年だと言っていますので、やはり1916年で間違いないのでしょう。
 ただし、このときの森田君の話は、「これはまた高尚な、新らしい芸術の理論を取上げたものでありまして」と「たとえばここに一つの風景を描こうとする場合に」という文句しか思い出せないとタルホは言っています。
 当時、「未来派のことが漸く人々の口の端に上り出していた」頃で、タルホ自身も「未来派研究資料を求めるために、図書館を訪れてみようという気持ち」が起こっていたのでした。

 そうした中で、タルホはある重要な資料に出会います。

「ゴミゴミした、ドライな、おまけに海陸の騒音に包まれた市立図書館で、私は、木村荘八著「未来派解説」を見付けたのであった。それは袖珍叢書中の一冊になっていた。取りあえずマリネッティ―の十一箇条の宣言を写し取って、翌日早々に猪原太郎に見せたところ、彼は、私の創作だと早合点したらしい。」(「カフェの開く途端……」)

 「カフェの開く途端……」には他に、「猪原太郎が、教室で私のうしろの席に姿を見せたのは、私が四年生のときであった。」、あるいは「猪原との間に即興のペン画がやり取りされ出したのは、四年生の三学期の話になる。」とあるので、木村荘八の本を見付けたのは、1918(大正7)年頃のことになります(〈タルホ年譜ノート〉参照)。
 「美のはかなさ」には、

「僕は未来派を査べるに当って、まず単行、新聞、雑誌に散見するものを聚め、互いに照校して、真相及び真意をかぎ付けようと努めた。」

とあります。タルホにしては、ずいぶん丹念な方法で〈未来派へのアプローチ〉をしたものだと思いますが、こうした資料収集の中で、「未来派解説」はおそらく、タルホが最初に接した未来派についてのまとまった本だったはずです。

 木村荘八のこの「未来派解説」は、正確には『未来派及立体派の芸術』という書名です。天弦堂という版元から、1915(大正4)年3月、タルホが〈袖珍叢書〉と言っているように、〈近代思潮叢書〉中の〈第四編〉として発行されたもので、判型は今の文庫本ぐらいの小型本です。
 書名にもあるように、前半が〈未来派〉、後半が〈立体派〉という、2本立ての構成になっています。
 タルホは「カフェの開く途端に……」の中で、「木村荘八は、マリネッティ―宛に手紙を出したところ、「僚友よ!」と呼び掛けの下に、どしどし印刷物が送られてきた……」と言っていますが、その話はこの本の中では次のように記されています。

「一九一二年と思ふ。初めて未来派のことを聞き未来派の展覧会カタログを見た時分、友達と伊太利のマリネッティへ手紙を出して、未来派の詳細を聞きそれに関して著書や絵画の複製でもあれば見たく思ふ旨を伝へたことがある。間もなくその友達の許へマリネッティから小包が届いた。それと手紙が届いた。小包には未来派(フユテユリズム)と題する仏書をはじめマリネッティの詩集、十数枚の絵画復(ママ:筆者)製版、原色版及び多くの宣言書印刷等が含まれてゐた。手紙には冒頭に『我が同志』云々と呼びかけ、『我々の前衛となられんことを望む』旨を記し、且日本の美術界、文壇、音楽界、演劇界等の近況を知らせよ、代表的絵画の復(ママ:筆者)製を送付されよと書いてあつた。」

 この『未来派及立体派の芸術』の中に掲載されていた、マリネッティによる〈未来派宣言〉のマニフェスト〈11か条〉を、タルホは図書館で写し取り、〈赤いクロース張りの表紙を付けて〉教科書のあいだに挟んでいたと言っています。木村荘八による〈11か条〉の訳文が、現代の翻訳レベルに照らして、どの程度正確なものか分かりませんが、時代の雰囲気が色濃く感じられ、文体・リズムともに、まさに当時のタルホ好みであったろうと想像されます。興味深いので、以下にそのまま転載することにします。
※木村荘八は、「此の本に訳文を引かれた原書は、未来派の分が英国でやつた展覧会当時のカタログ」であると述べていますので、英文のカタログから翻訳したもののようです。
※英国での展覧会については、末尾の〈■附録/未来派およびボッチョーニの略年表〉を参照。

一、我々は危険を愛するの歌を高唱し精力と豪胆との習慣性を謳歌す。

二、我々の詩歌に要素ともなる可きものは勇気である。敢行及び叛逆である。

三、今までの文芸は考へ深い不動の気分、忘我乃至は眠りの様に栄誉を保つてゐた。が、我々は喧騒極まる運動、熱狂的な不眠の様、素早く二重に足を踏み出す歩行、宙返り、耳に猛烈な打撃を与ふるもの、拳闘──之等を讃美する。

四、世界の光輝は、或る新たなる美、即ち急走する美に依つて豊かにされたと我々は明言する。大きな幾つかのパイプに飾られた構造の自動車、それが爆発的な息使ひをして蛇の様に快走する……弾丸に充ち充ちた上を疾駆する様にも見える、自動車の怒号……之等はサモトレースの勝利よりも美しい。

五、我々は舵輪を操縦する人をも唱ふ。舵輪の主幹は大地を貫通し軌道の外線をも越してゐる。

六、本源の要素に対する狂激の熱情に加へる所ある為めには、詩人も自らを狂乱にし輝かしめ精力過重にしなければならない。

七、奮争に見る以上の美は何所に求めてもない。喧騒を他所にして傑作は無い。詩歌は必然未知の力に攻打してかゝらなければならない。それで初めて未知の力をして人間の前に頭を下げしめ得る。

八、我々は世紀最端の岬に立つてゐるのだ!……不可能と云ふ所にある神秘の扉を開かなければならない時に際して、何故我々は背後を見るのであらう。『時』と『空間』とは昨日既でに死んでゐる。そして既でに我々は絶対の中に住んでゐるのだ。即はち既でに急走する力を創造し、永遠に不断の『現在』を創造したのだ。

九、我々は戦闘に誉栄あれと要望する。──世界に健康を与ふる唯一のもの、──軍隊、愛国主義、無政府主義者の凡てを破砕する武器、殺すといふ美しい理想、婦人蔑視、──之等に栄誉あれと要望する。

十、我々は美術館を破砕し図書館を破壊し、道徳、女々しきもの、其の他全般の投機的功利的手段を打破せんことを要望する。

十一、我々はこれ等を高唱する。労働、快楽乃至は叛逆に亢奮し熱狂してゐる大群集、現代の主都に見る革命の多色多音なる波瀾、電閃的な月光を浴びてゐる工場・工廠の深夜の動乱、煙を吐く蛇を呑吐する貧(貪の誤植:筆者)婪極まる停車場、煙の糸に依つて雲に支へられてゐる製作工場、日の光に輝き返つてゐる河の悪魔の劔に体操家の如く跳ねかゝつてゐる橋、水平線をかすめて行く冒険的な戦列艦、長い煙筒で身をかためられて、鉄路の上を跳ね躍つてゐる、鋼鉄の馬にも似て胸廊(廓の誤植か:筆者)の広い機関車、乃至は、プロペラ―の響きが翼の羽ばたきにも熱狂する群集の喝采にも似て、滑走し飛ぶ空中飛行器。我々は之等の歌を高唱する。

 このマニフェストについて、タルホは「美のはかなさ」で、次のように述べています。

「マリネッティの宣言書について云うならば、「……はサモトレースの勝利よりも美しい」とあるのが何のことか判らない。ふと、「あ、そうだ。ルーブルにあるサモトラケのニーケのことだな」と気が付く。「爆発的な息使いをして煙を吐く蛇の如くに疾走する自動車」これも変である。そこで、ボッチョーニの著書にあるその部分を勘にたよって判読した結果、蛇とは排気管のことであった。「電閃的な月光下の大工場」これは「電灯の月」「電気の月光」の意である。」

 タルホの引用は、原文と照らし合わせると必ずしも正確ではありませんが、ただ、こうした苦労をしてマニフェストを〈解読〉したのは、これを写し取った頃よりもう少し後のことでしょう。
 先に注記したように、木村荘八の訳が英文のカタログからであったのなら、〈サモトラケ〉は"Samothrace"だったはずで、現代ほど〈サモトラケのニケ〉という名称が一般的でなかったと思われる当時としては、〈サモトレース〉と訳したのは仕方ないことだったのかもしれません。ちなみにマリネッティの"Manifeste du Futurisme(未来派宣言)"は最初、フィガロ紙にフランス語で発表されています。上にリンクした画像からは見にくいのですが、4番目の項目の末尾に、かすかに"Victoire de Samothrace"の語句が見えます。したがってフランス語だったとしても〈サモトレースの勝利〉で構わないことになります。

 いずれにせよ、マニフェストに見られる〈自動車〉〈舵輪〉〈機関車〉〈戦艦〉〈空中飛行器〉〈月光〉〈世紀最端の岬〉〈時間と空間〉等々といった語句は、そのまま後のタルホ世界のキーワードと言っても差し支えありません。
 未来派がファシズムとの親和性を批判されるその一端は、このマニフェストからも読み取れますが、それにしても、16、7歳の少年タルホにとって、未来派の主張する芸術とその表現は、〈マニフェスト〉という形式と相俟って、自身のその後の創作活動に決定的な影響を与えたことは間違いないでしょう。
※タルホが関西学院中学部3年のときに、校友会誌に書いた文章「聞いて貰いたいこと」(1916年11月26日付)が、『全集13』に収録されています。それは我が国の航空界の停滞を憂え、その隆盛を鼓舞する檄文ともいえるもので、15歳のその口調のテンションには、未来派のマニフェストの高揚感と相通ずるものがあるように思われます。

 ただし、見て分かるように、マリネッティの〈11か条〉の宣言の中には当然、ボッチョーニの造語である"Material Transcendentalism"の訳語らしき言葉は出てきません。しかしながら、『未来派及立体派の芸術』にはボッチョーニの言論も紹介されています。木村荘八は、「一九一一年の五月、羅馬国際美術協会の講演会壇上に於て、該派の先進画家ボッチォニの述べたところが左の論文である。」と述べて、その訳文を提示しています。
※1911年5月の「ローマ国際美術協会の講演」については、〈■附録/未来派およびボッチョーニの略年表〉を参照。

 そのすべてを引用することはできませんが、その中に興味深い箇所がありますので見ていきましょう。

「……観者は既でに画中の行動と相関連し合つてゐる。画面には線の騒乱に依つて感情も気分も音も色彩も示されてゐるのだ。之等の線条──力線(フォース・ライン)は、観者をして画中の人と悲しみを倶にし喜びを倶にしなければ止まない様にとさせるのだ。あらゆる事物は、(画家ボッチオニの)所謂物理的超越に依り力線の力を借りて無限に転位する。その線の連続は我々の直覚によつて測る事が出来る。」

 ここに出てくる〈力線〉とは、このページの最初に掲げたタルホの引用文にある〈力線〉と同じものでしょう。〈力線〉のルビが〈フォース・ライン〉と英語表記になっているのは、木村荘八が英文カタログから翻訳しているからでしょう。タルホ自身も「美のはかなさ」の中で、〈フォース・ライン〉という言葉をそのまま使っています。
 もう1つ、文中にある〈物理的超越〉という言葉に注目しなければなりません。どういうわけか〈物理的超越〉にはルビが付いていませんが、この語句こそタルホの言う"Material Transcendentalism"の訳語であろうからです。「美のはかなさ」および「カフェの開く途端……」には、これと似た訳語〈物質的超絶〉は登場しますが、なぜか、この『未来派及立体派の芸術』に出てくる〈物理的超越〉という言葉を、タルホは一度も用いたことがありません(後に掲げた〈■"Material Transcendentalism"とその訳語を整理してみる〉を参照)。
 ここで〈物理的超越〉に原語(英語)のルビが付いていなかったのは、タルホにとって非常に大きな意味を持っているように思います。なぜなら、この時期のタルホにとって、『未来派及立体派の芸術』は、その中に掲載されていた〈11か条〉の未来派宣言には大いに注目したけれども、〈力線〉はともかく、原語が併記されていなかったボッチョーニの〈物理的超越〉という言葉は、記憶に残るほどの強い印象を与えなかったのかもしれないからです。
 筆者にとっても、これから明らかにするように、〈物理的超越〉の元の英語表記が何であったか、木村荘八がルビを付けなかったのが、返す返すも残念でなりません。
 いずれにせよ、ボッチョーニのこの〈力線〉や〈物理的超越〉の概念を、この短い訳文のみから理解するのは非常に困難だと思われます。はたして少年タルホが当時その内容を理解できたのかどうか疑問です。


「美術新報No.6」における有島生馬の翻訳


 未来派の資料として、タルホがその次に具体的に名前を挙げているのは、「美術新報」という雑誌です。

(有島:筆者)生馬は、翌大正六年四月号の美術新報No.6に、「印象派から未来派へ」を掲載しているが、これはボッチョーニの著書の第一章を翻訳したものであった。」(「カフェの開く途端に……」)

 まず、この短い記述の中には、誤りがいくつもあります。〈大正六年四月号〉は〈大正4年4月14日号〉、〈No.6〉は正確には〈14巻6号〉、「印象派から未来派へ」は「印象派対未来派」、〈第一章〉は〈第六章〉(有島生馬の記述によれば、〈ボツチヨニの著書「造形上の力動主義」(Dinamismo plastico)一名「未来派絵画彫刻論」の第六章「吾々はなぜ印象派でないか」の梗概である〉)の誤りです。
※生馬が訳したこのボッチョーニの著書"Dinamismo plastico"とは、まさに次項で述べるように、タルホがミラノから取り寄せた"Pittura SculturaFuturiste (1914)"のことで、"Dinamismo plastico"はその副題。
 ただし、この「美術新報」云々の記述は、単にタルホのうろ覚えの孫引きかもしれず、実際にその内容を読んだのかどうか疑問です(内容に言及したような文章が見当たりません)。ただ、木村荘八の『未来派及立体派の芸術』が1915(大正4)年3月15日発行で、この号の「美術新報」は全く同時期(ちょうど1か月後)に発行されたものです。あるいは木村の本を図書館で発見した同じ頃に、この雑誌も見たことがあるのかもしれません。
 しかしながら、「美術新報」のこの「印象派対未来派」の中には、"Material Transcendentalism"あるいは〈物理的超越〉という訳語は一度も出てきません。
 しかも、この訳文にしても、たとえば、

「故に吾々は客格を一つの中心(ヌクレオ)点(求心的構造(コスツルチオネ・チエントリペタ))と定義する。之から力(レ・ホルツエ)(線─形─力)が生れ出る。其力が客格を周囲(遠心的構造(コスツルチオ子・チエントリフウガ))に完結する。改めて吾々は客格を結論すれば=客格─周囲(l'oggetto-ambiente.)を或る新らしい個性的合一(l'unita indivisibile)と解するのである。印象派にとつては客格が色彩に伴つた震動の中心点(il nucleo di vibrazioni)であつたが、吾々にとつては客格が形体に伴つた方向(示導)の中心点(il nucleo di direzioni)である。」
※原文は( )内のカタカナはルビ。

といった調子で、当時の読者が、たとえ彼らが美術にある程度関心を持っていたとしても、その内容を理解できたとは到底思えません。
※筆者は幸運にも、八木書店のWEBサイトに〈DVD版「美術新報」〉のページを見付けて、たくさんある〈サンプル画像〉の中から、「印象派対未来派」というタイトルの有島生馬・訳に出合うことができました。


"Pittura Scultura Futuriste (1914)"


 次にタルホが手にした未来派の本が、"Pittura Scultura Futuriste (1914)"だと思います。イタリアのミラノから取り寄せたというボッチョーニの原著です。

「"Boccioni:pittura Scurtura Futururista" これが丸善のカタログ中に見付かったが、在庫品がなかったので、ミラノの版元から取寄せて貰うまで、数ヶ月かかったように憶えている。」(「カフェの開く途端に……」)

 ただし上の【人間人形時代】版は、原著のスペルが正確ではありません。
 ※また「未来派へのアプローチ」でも"BOCCIONI:Pittura Scultura Futurista"とされていましたが、『全集』版で正しく訂正)。
  これと同じ話は他にも出てきます。

「私は、独力でこの新芸術と取組まねばならなかった。大正七、八年の頃で、新聞雑誌に時たま見かける断片的紹介以外に、何の手蔓もない。私は丸善を介して、ミラノの本屋から、ウンベルト=ボッチョーニの『未来派の絵画及び彫刻』という本を取寄せて貰った。」(「新感覚派前後」)

 あるいは、

「で、多理は、斬新な流派を研究する為に自身で資料を求めねばならなかった。といって、新聞雑誌に時たま見かける簡単な批評文や断片的紹介以外には、何物もなかった。一日、居留地の洋書専門店へ出向いて、美術に関するカタログを貰って念入りに探してみた。やっとそれがあった。一つだけ。ピッテュラスクルッテュラフューテュリスタという本である。然しその特種な刊行物は小さな店には無かった。幾月か経って、ミラノの出版元から届いた小包が解かれた時、その中からは、赤い大文字のついた、白表紙の分厚い仮綴の本が現われた。著者はウンベルト・ボッチョーニとあった。多理は、遥々とスエズ運河を抜け、印度洋を越えて自分の許にやってきた本を労り抱いて、母音の多い伊太利語に詰った頁に接吻したい程であった。」(「古典物語」)
※「古典物語」末尾の注には、「戦時中にヨーロッパから本が届くわけはない。洋書輸入の件は実は約三年間時日がちぢめられている。」とあります。

 ここでタルホが述べている原著の様子は、まさにWEB上に見る"Pittura Scultura Futuriste(1914)"の書影そのままです。
 これらの話はいずれも、タルホが東郷青児に「未来派について参考書を教えてください」(「新感覚派前後」)という手紙を出したにもかかわらず、「然し折角の音信は、未だその画家が当方へ到着していないとの理由の下に返送されてきた」(「古典物語」)ため、やむなく自分で資料を探さなくてはならなくなった、という経緯があります。
 これはどういうことかというと、東郷青児は大阪の化粧品会社に勤めていたことがあるからで、それでタルホは会社宛てに手紙を出したわけです。かつて筆者はそれを調べるために安田火災東郷青児美術館に問い合わせたところ、〈東郷青児は大阪クラブ化粧品会社に、1919年5〜6月頃、2週間出勤した〉という返事をもらったことがあります(〈タルホ年譜ノート〉参照)。
 したがって、タルホがボッチョーニの原著を注文したのは、東郷青児に手紙を出した1919(大正8)年以降のことになり、それを手にしたのは数か月後ということですから、1919年〜1920年頃のことでしょうか。「古典物語」の末尾の注は、このことを指しているわけです。
 しかしイタリア語で書かれたこの本は、実際には、図版以外あまり役に立ったようには思えません。なぜなら、タルホはこの本の内容についてはほとんど触れていないからです。「差挟まれた絵画や造型のコロタイプ版は、勿論多理の周囲の人々を驚かせたけれど、よく解らないと云う者が大半であった。」(「古典物語」)という様子は、タルホ自身にとっても、イタリア語の本文については尚更だったのではないかと思われます。
 この本は、東京の佐藤春夫の許に寄寓した1921(大正10)年当時は、持ち物として身辺に置いていたようですが、その後は以下に述べているように、結局、行方不明になったようです。

「先生は、……上下二段に硝子戸が付いた小型本棚を私に托していた。……私が丸善を通してミラノから取寄せたBoccioni:Pittura Sculptura Futuristaもそこにはいっていた。(自分の本としてはその一冊だけが残されていた)この本箱はそのまま一ノ瀬君の部屋に残してきたが、彼は間もなく主人夫婦と共に、こんどは元の三階建の前のだらだら坂を下った所の北側の平屋に越したのだった。」(『鉛の銃弾』)
※【鉛の銃弾】版でも書名のスペルが間違っていたが、『全集10』版で訂正。

「ボッチョーニの分厚い仮綴の著書は、佐藤先生から預かった横文字本を詰めた大型の三段本箱の中に入れてあったが、これは富士横町の素人下宿に置いてきたままになっている。」(「カフェの開く途端に……」)
※ここでは、本箱は〈大型の三段本箱〉。
※【人間人形時代】版では、〈富士横丁の二日目の素人下宿に〉となっていたのを、『全集6』版で〈二日目の〉を削除。【人間人形時代】版は誤植が多いので要注意。


「未来派特集号」


 もう一つ、タルホが未来派関係の資料に接したと明記しているのは、「カフェの開く途端に……」に出てくる次の話です。

「二回目の上京後の話だから、大正十三年以後のことになる。……この家から出ていた定期刊行物のバックナンバーに、目的があった。玄関に立現われた人物は、「ご熱心ですな」とほめてくれたのだった。総体に美術雑誌類は、退屈紛らしに手に取って、一つで(も脱字:筆者)二つでも気に入った複製版に行き当ったら、儲け物なのである。「未来派特集号」もご多分に漏れず杜撰な編集だったが、只大好きなセヴェリーニの「モナコに於けるパンパン踊り」の三色版が付いていた。」

 〈二回目の上京〉というのは、先に述べたように佐藤春夫の許へ寄寓した1921(大正10)年のことなので、ここで言う〈大正十三年以後〉は、正確には〈大正十年以後〉になります。
 この〈美術雑誌〉の誌名は不明ですが、古書店のリストなどに当たってみると、この時期に発行されていた美術雑誌には、「中央美術」や「みづゑ」などがあるようです。あるいはそういった雑誌が「未来派特集号」を発行していたのかもしれません。ただ、タルホが手に入れた〈美術雑誌〉の版元は、自宅兼出版社のような小さなところのようで、「中央美術」や「みづゑ」とは別かもしれません。
 ただし、ここでのタルホの口ぶりからすると、その〈美術雑誌〉も、口絵のほかは記憶に残るようなものはなかったようです。


"Material Transcendentalism"が出てこない


 以上述べた〈未来派資料〉を、タルホが接した年代順にもう一度整理してみると、以下のようになります。

〈未来派資料〉
〈タルホが接した時期〉
「未来派芸術とその価値」〈森田君の講演〉 1916(大正5)年秋
『未来派及立体派の芸術』〈木村荘八、1915(大正4)年3月〉 1918(大正7)年頃
「美術新報」〈1915(大正4)年4月14日号〉 1918(大正7)年以降?
"Pittura Scultura Futuriste 〈1914〉" 1919(大正8)〜1920(大正9)年頃?
「未来派特集号」 1921(大正10)年以降

 これ以降については、「カフェの開く途端に……」の中で、具体的に名前を挙げて記述している未来派資料はありません。
 ただし、「先年ローマのバレバルベリーニに「未来派五十年展」があって、……」という記述が出てきますが、これは「カフェの開く途端に……」の初稿である「未来派へのアプローチ」が1964(昭和39)年に発表されたので、1960年前後の新聞か雑誌に載った記事をもとにしたのでしょうし、あるいは「数年前に朝日新聞が片隅に伝えていた」という記述も見えますが、いずれも今回のテーマである"Material Transcendentalism"や〈力線〉の問題とは直接関係がありませんので省略します。
※〈バレバルベリーニ〉は『全集5』では〈バレバルベリーエ〉。詳細不明。
※wikiイタリア語版の"50 anni d'arte a Milano. Dal divisionismo ad oggi"(ミラノの芸術の50年。分裂主義から今日まで)なる記事によると、1959年にミラノで開催されたイタリア現代美術展に、ボッチョーニら未来派の作品も展示されたようです。

 さて、これまで見てきた未来派資料の中で、〈力線〉という言葉は『未来派及立体派の芸術』と「美術新報」には出てきましたが、"Material Transcendentalism"は一度も出てこなかったことにお気づきでしょうか(〈物理的超越〉という訳語はありました)。つまり、タルホが明記した1921(大正10)年頃までの未来派資料には、"Material Transcendentalism"なる語句は一度も登場していないのです!
 タルホが作品の中で、この"Material Transcendentalism"という言葉を初めて使ったのは、1929(昭和4)年「新潮」発表の「記憶」においてです。そうすると、上京後の1921年から「記憶」発表の1929年までの間に、タルホは何らかの形で"Material Transcendentalism"という言葉を知ったのだと考えるしかありません。
 「僕は未来派を査べるに当って、まず単行、新聞、雑誌に散見するものを聚め、互いに照校して、真相及び真意をかぎ付けようと努めた。」と言っていましたが、そんな断片記事の中に見付けたのでしょうか。
 そんな疑問について、中にはこのように回答する人もいるでしょう。

「ミラノから取り寄せたボッチョーニの本に出ていたのではないか。分厚いイタリア語の本とはいえ、苦心してその中から探し当てたのではないか。」

 しかし、そうではありません。なぜなら、後で述べるように、 "Material Transcendentalism"は英語で、イタリア語では"transcendentalismo fisico"のはずだからです。


"Material Transcendentalism"とその訳語を整理してみる


 タルホは、いくつかの作品で"Material Transcendentalism"について繰り返し言及していますが、それを一覧にしたのが下の表です。

記憶
【新潮】〈1929(昭和4)年5月〉
Material Transcendentarism
記憶
【ヰタ・マキニカリス】〈1948(昭和23)年5月〉
Transcendentalismo Materiala
記憶
【大全6】〈1970(昭和45)年9月〉
Matériel Transcendantalisme


弥勒(第1部)
【小山書店】〈1946(昭和21)年8月〉

Material Transcendentalism
「質的超絶」

弥勒(第1部)
【作家】〈1957(昭和32)年12月〉
「物質的先験論」
弥勒(第1部)
【大全4】〈1970(昭和45)年2月〉
「物質的先験論」


ボクの『美のはかなさ』
【作家】〈1952(昭和27)年8月〉

Transcendentalismo materiale
「物質的超絶」
「先験的物在者」
(物質的過境主義)

改訂・美のはかなさ
【作家】〈1959(昭和34)年〉8月〉

Transcendentalismo materiale
マティーリァル・トランセンデンタリズム
「物質的超絶」
「先験的物在」
(物質的過境主義)


「本の手帖」〈1967(昭和42)年1〜7月〉については未確認
美のはかなさ
【大全5】〈1970(昭和45)年6月〉

Material Transcendentalism
「物質的超絶」
「先験的物在」
(物質的過境主義)


未来派へのアプローチ
【作家】〈1964(昭和39)年8月〉

Material Transcendentalism
「物的超絶」


「本の手帖」〈1966(昭和41)年〉については未確認
未来派へのアプローチ
【大全1】〈1969(昭和44)年6月〉

Material Transcendentalism
「物的超絶」

カフェの開く途端に月が昇った
【人間人形時代】〈1975(昭和50)年1月〉

Material Transcendentalism
「物質的超絶」

 これを見ると、"Material Transcendentalism"という〈英語〉表記が多いのですが、「記憶」では、改訂順に〈英語〉⇒〈イタリア語〉⇒〈フランス語〉と、その表記が定まらず、語順も一定してません。
 また、〈日本語〉表記についても、「質的超絶」「物質的先験論」「物質的超絶」「先験的物在者」「先験的物在」「物的超絶」と6種類もの訳語を当てています(「物質的過境主義」は他者の訳語の例として挙げたもの)。


2つの重要な情報


 タルホが言うように、ボッチョーニはほんとうに"Material Transcendentalism"という言葉を使ったのかどうか、これからそれを見ていきましょう。
 『タルホ/未来派』(河出書房新社、1997年)という本の中で、著者の茂田真理子氏は、"Material Transcendentalism"について、次のように述べています。

「"Matériel Transcendantalisme"は〈未来派絵画技術宣言〉中に表された物質の相互浸透状態を指しているが、足穂はこれを「物質的超絶」あるいは「先験的物在」と訳している。」
※ここで茂田氏が、"Material Transcendentalism"でなく"Matériel Transcendantalisme"とフランス語で表記している理由は、引用元が作品「記憶」の最終稿で、上の一覧表で示したように、元の綴りがフランス語表記になっているからです。したがって、"Transcendentalisme"でなく"Transcendantalisme"となっているのは誤植ではありません。

 このように述べて茂田氏は、さらにその〈注〉において、

「ボッチョーニ自身はtranscendentalismo fisico("Manifesto tecnico della scultura futurista", 1912)という言葉を用いている。」

と記しています。
 ここには2つの重要な情報が記されています。
 1つは、"Matériel Transcendantalisme"という言葉は、〈未来派絵画技術宣言〉中に表された〈物質の相互浸透状態〉を指しているということ。
 もう1つは、ボッチョーニ自身は、この〈物質の相互浸透状態〉について、1912年の"Manifesto tecnico della scultura futurista"の中で、"transcendentalismo fisico"という言葉を用いて表している、ということです。
 この"Manifesto tecnico della scultura futurista"というのは、後で触れますが、ボッチョーニによる1912年の〈未来派彫刻技術宣言〉を指しています。"transcendentalismo fisico"についても、後で詳しく述べたいと思います。
 筆者は、茂田氏のこの2つの記述を手掛かりにして、これから考察を進めていくことにします。


〈未来派絵画技術宣言〉と〈物質の相互浸透状態〉

 まず、茂田氏が指摘しているように、「"Matériel Transcendantalisme"は〈未来派絵画技術宣言〉中に表された物質の相互浸透状態を指している」ということについて検討してみましょう。

 そもそも〈未来派絵画技術宣言〉とは、どのような内容のマニフェストなのか。
 WEB上を検索したところ、角田かるあ氏の「〈未来主義絵画技術宣言〉を読む」という論文を見つけました。幸い、その末尾に〈未来派絵画技術宣言〉の全訳も掲載されています。以下、それを参考にしながら、この考察を進めていくことにします(論文では〈未来派〉でなく〈未来主義〉となっていますが、以下、〈未来派〉で統一)。
 角田氏は、〈未来派絵画技術宣言〉における〈相互浸透〉に触れる前に、未来派が参考にしたというベルクソンの考え方について、次のようにまとめています。

「まず、ベルクソン哲学における〈相互浸透〉の考え方を概観しておこう。普段の生活において私たちは、科学的な知性によって対象を空間的に把握することに慣れている。そのため、椅子や路面電車は、それがある場所によって、言い換えれば空間によって隔てられる。留意すべきは、こうした空間的な把握には、対象の固定化がともなうことである。ゆえに、椅子も路面電車も、ここでは不動のものとして認識される。他方、ベルクソンが提唱したのは、対象を哲学的な直観によって時間的に把握する方法であった。この方法によれば、対象の固定化を避け、これを持続のうちに把握することが可能になる。結果、ここでは、空間が個々の物体を隔てることがないゆえに〈相互浸透〉が生じることになる。」

 すなわち、対象を、空間的に把握するのではなく、時間的持続のうちに認識することによって、対象は固定化されることなく、お互いを隔てるものが無くなる、そこに〈相互浸透〉が生ずることになる、ということのようです。
 〈未来派絵画技術宣言〉の全訳を見ると、その中で〈物質の相互浸透状態〉らしきことが述べられているのは、[第8段落]と[第10段落]です。角田氏の訳文では、以下のようになっています。

[第 8 段落]
[8.1]空間はもはや存在しない。雨に濡れて電灯に照らされた道は、大地の奥底にまで沈み込む。[8.2]「太陽」は我々から限りなく離れているものの、目の前にある家は、我々には陽の光によって輪郭づけられているようには見えないのではないだろうか。[8.3]研ぎ澄まされて増幅された我々の感受性が、降霊現象の曖昧な顕示を我々に直観させるなか、誰が物体の不透明性をなお信じられるだろうか。[8.4]どうしてエックス線に類似した結果をもたらし得る我々の視覚的能力を考慮することなしに、創造し続けなければならないのか。

[第 10 段落]
[10.1]走っている路面電車のなかで、あなた方の周りにいる 16 人の人物は、1 人であり、10 人であり、4 人であり、3 人である。彼らは、止まり動く。向こうに行ってこっちに来ては、道の上で跳ね、ひなたに飲み込まれ、それから戻ってきて腰掛ける、つまり彼らは世界の振動の持続的な象徴である。[10.2]そして時折我々は、立ち話をしている相手の頬の上に遠くを過ぎゆく馬を見る。[10.3]我々の身体は我々が腰掛けるソファのなかに入り込み、ソファは我々のなかに入り込む。家々のなかに入り込む路面電車も同様であり、家々の側も路面電車に突進してそれと融合する。

 角田氏は論文の中で、先の茂田氏の言う〈物質の相互浸透状態〉とそのまま対応するように、〈相互浸透〉という見出しを付けて一節を設けています。そこで次のように述べています。

「ここで問題になるのが〈相互浸透 compenetrazione〉の考え方である。たしかに〈絵画技術宣言〉本文に鑑みるならば、この語が直接的に用いられることはない。とはいえ、ボッチョーニは独自の声明〈未来主義彫刻技術宣言Manifesto tecnico della scultura futurista〉(1912)のなかで、〈絵画技術宣言〉において〈相互浸透〉の考え方が提示されたことを振り返りつつ、その重要性を強調した(Boccioni 1912b: 68)。こうした意味でもこれは、〈絵画技術宣言〉における主要概念に数えられるだろう。」

 少し分かりにくい内容かもしれませんが、角田氏はここで、「〈絵画技術宣言〉本文に鑑みるならば、この語が直接的に用いられることはない」と言っています。確かに、"Manifesto tecnico della pittura futurista〈未来派絵画技術宣言〉"の原文を見ると、それと似通った"amalgamano"(融合か?:筆者)という語は見つかるものの、"compenetrazione〈相互浸透〉"という言葉は見当たりません。
 しかしながら、ボッチョーニの〈彫刻技術宣言〉の中で「その(相互浸透の)重要性を強調した」と言っているのです。


〈未来派彫刻技術宣言〉と"transcendentalismo fisico"


 では、その"Manifesto tecnico della scultura futurista〈未来派彫刻技術宣言〉"を見てみましょう。このマニフェストの全訳は、『未来派─百年後を羨望した芸術家たち』(多木浩二著、コトニ社、2021年)の〈付録〉で見ることができます。
※この本には〈付録〉として、〈未来派彫刻技術宣言〉だけでなく、〈未来派宣言〉〈未来派画家宣言〉〈未来派絵画技術宣言〉〈未来派音楽家宣言〉〈未来派建築宣言〉ほかのマニフェストの全訳が掲載されており、参照するのに非常に便利です。ただし〈付録〉の訳者は、子息の多木陽介氏。ここでは、〈未来派宣言〉は〈未来派創立宣言〉、〈技術〉は〈技法〉と訳されています。

 〈未来派彫刻技術宣言〉の原文を見ると確かに、1ページの下から3行目に太字で"compenetrazione"、それと3ページの3行目に"compenetrazioni"という語が見えます。多木(陽介)氏の訳でも〈相互浸透〉とあって、「内面と外面と記憶と感覚のすべてが同時に存在するという意味」と注記されています。この注記は重要ですので、後でまた取り上げることにします。

 ところで、ボッチョーニのこの〈未来派彫刻技術宣言〉は、もう一つの重要な語句"transcendentalismo fisico"も出てくる非常に重要なマニフェストです。
 これも原文を見ると、2ページの5行目に、茂田氏が言うように、確かに太字で"transcendentalismo fisico"の語句が見えます。
 筆者はイタリア語には不案内ですが、イタリア語の"fisico"は、〈物理的〉〈肉体的〉という意味で、英語の"physical"に相当するようです。〈Google翻訳〉で"transcendentalismo fisico"を英訳してみると、"physical transcendentalism"と表示されます。日本語では〈物理的な超越主義〉と出ます。ボッチョーニについてのWEB上の英文記事でも、"physical transcendentalism"と表記されている場合が多いようです。
 このように、イタリア語の"transcendentalismo fisico"を英訳すると普通、"physical transcendentalism"となるはずなのに、なぜタルホは "Material Transcendentalism"という言葉を使っているのか、というのが筆者の疑問です。
 英語の"physical"には確かに、〈物理的〉や〈肉体的〉の他に、〈物質的〉という意味もあります。多木(陽介)訳の〈未来派彫刻技術宣言〉(本では〈未来派彫刻技法宣言〉)では、〈物質的超越性〉となっています。しかしながら、元のイタリア語が"Materiale"でなく"fisico"なのに、なぜタルホは"physical"という英語を用いないで、"Material"を使っているのか、という疑問です。


未来派の〈マニフェスト〉を整理してみる


 ここで、未来派のマニフェスト(Manifesto)について簡単に整理しておきましょう。
 まずは、詩人・マリネッティによって書かれた最初の〈未来派宣言〉。タルホはその中の〈11か条〉を書き写しました。

@ 1909年2月20日、 "Manifeste du Futurisme"〈未来派宣言〉
※〈未来派宣言〉は〈未来派創立宣言〉とも。

 この宣言は、フィガロ紙にフランス語で掲載されました(以下、それぞれの宣言についてWEB上にリンクを張りましたので、確認してみてください)。
 ところが、未来派の宣言には、〈文学〉〈絵画〉〈音楽〉などさまざまあって、なかなかややこしいのです(〈絵画〉の中にも紛らわしいものがいくつかあるので混乱しないように)。
 〈絵画〉の分野における最初の宣言は、

A 1910年2月11日、"Manifesto dei pittori futuristi"〈未来派画家宣言〉

です。この宣言書をWEB上で見てみると、末尾にボッチョーニ、カルラ、ルッソロ、ボンザーニ、ロマーニの5人の署名があることが分かります。
  そして、それからちょうど2か月後、

B 1910年4月11日、"Manifesto tecnico della pittura futurista"〈未来派絵画技術宣言〉
※〈未来派絵画技術宣言〉は〈未来派絵画技法宣言〉とも。

が発表されます。ここにはボッチョーニ、カルラ、ルッソロ、そしてボンザーニとロマーニに代わって、バッラとセヴェリーニが加わっています。
※多木浩二著『未来派』の〈付録〉(陽介氏訳)によると、〈未来派画家宣言〉はボンザーニとロマーニでなく、〈未来派画家技術宣言〉と同じバッラとセヴェリーニを加えた5人のメンバーの署名になっています。タルホもこのページの冒頭に示したように、〈未来派画家宣言〉のメンバーをボッチョーニ、カルラ、ルッソロ、バッラ、セヴェリーニの5人と考えていたようです。
 これはどういうことかというと、角田かるあ氏の「〈未来主義絵画技術宣言〉を読む」に、次のようにその理由が書かれています。

「〈絵画技術宣言〉を検討するための前提として,その前に発行された〈画家宣言〉にも目を向けたい。1910 年にリーフレットとして発行されたものには、三つの版が確認される。すなわち、『ポエジーア』出版部 Uffici di "POESIA" から発行された初版と第二版、未来主義運動指導部Direzione del movimento futurista から発行された第三版である。初版のみ、決定版の署名者バッラとセヴェリーニに代わって、ロモロ・ロマーニ(Romolo Romani, 1884-1916)とアロルド・ボンザーニ(Aroldo Bonzagni, 1887-1918)の署名が確認される。」

 このようないくつかの宣言を経て、茂田氏の注記にあったように、さらにそれからちょうど2年後、ボッチョーニ自身による、

C 1912年4月11日、"Manifesto tecnico della scultura futurista"〈未来派彫刻技術宣言〉
※〈未来派彫刻技術宣言〉は〈未来派彫刻技法宣言〉とも。

が発表されます。不思議なことに、いずれも日付が〈11日〉になっています。
※多木(陽介)氏は〈付録〉の注として、これについて以下のように記しています。

「未来派の本当の創立の日付(初稿はイタリア語で1908年の12月に書かれた)は、マリネッティがこの創立宣言を書いた1909年2月11日、この11日という日付は偶然ではなく、マリネッティ以下、未来派のメンバーは縁起が良いと考えていたため、このあと、すべての宣言も月はいろいろあるが、11日の日付で書かれている。」

 以上、整理したマニフェストの中で、茂田氏の言う〈物質の相互浸透状態〉という考え方は〈B 未来派絵画技術宣言〉に、そして "compenetrazione〈相互浸透〉"と"transcendentalismo fisico〈物質的超越〉" という用語は〈C 未来派彫刻技術宣言〉に述べられている、ということが確認できました。

 これらに付け加えると、マニフェストではありませんが、タルホがミラノから取り寄せたというボッチョーニの原著、すなわち、

 D 1914年、"Pittura Scultura Futuriste"〈未来派の絵画及び彫刻〉

この本が年代的にはここに位置します。多木浩二氏は、この"Pittura Scultura Futuriste"は、ボッチョーニが未来派の機関誌『ラチェルバ』誌上に発表した「未来派彫刻と絵画の造形的基礎」(1913年3月)、「造形的ダイナミズム」(1913年12月)、「絶対的運動+相対的運動=ダイナミズム」(1914年3月)などの文章をまとめたものだと述べています。


〈力線〉についての唯一の論考


 さて、先の茂田氏は、"Matériel Transcendantalisme"についての解説に続けて、次のように述べています。

「しかし、足穂の記述を読めば、彼のこのことばに対する解釈は、ボッチョーニ自身が意図したものを超えていることがわかる。ボッチョーニは現実にあるものから出ている力線(linee-forze)を看取し、物質同士が相互に影響を及ぼし合う様を絵画の上に表現しようとした。このとき、力線の始点としての物質の存在は確固としており、個としての物質自体に内在する力が関心の対象となっている。これに対して足穂は、この「物質的超絶」の結果として、「おしなべて実体のないエーテルが立体的存在の虚空に投影しているファンタジー」を見るのである。このときには、個としての〈モノ〉は失われ、そこに残されるのは、互いに浸透し合い、切り放すことができない、渾然とした状態にもつれ合った〈モノ〉たちの影だけである。」

 ここで茂田氏は、〈力線〉に対して"linee-forze"という語を補っていますが、これこそ英語の〈フォース・ライン〉の元となったイタリア語です。
 先に見た〈未来派彫刻技術宣言〉、すなわち

C 1912年4月11日、"Manifesto tecnico della scultura futurista"〈未来派彫刻技術宣言〉

 この中でも3ページの下から8行目に"linee-forze"という語句が見えます。
 茂田氏は、「彼(足穂)のこのことばに対する解釈は、ボッチョーニ自身が意図したものを超えていることがわかる。」と述べています。つまりタルホの"Matériel Transcendantalisme"に対する解釈は、ボッチョーニ自身が意図したものを超えている、と言っているのです。

*

 しかしここでは、ボッチョーニの意図とタルホの解釈との違いの問題に立ち入る前に、"Matériel Transcendantalisme"と切り離すことのできないもう一方の概念、〈力線〉に目を向けてみたいと思います。
 とはいえ、〈力線〉とは何かについて、正面から解説した資料になかなか出会うことができません。その中で筆者がようやく見出したのは、〈力線〉そのものをテーマにしたほとんど唯一の論考、「ボッチョーニの力線──その成立をめぐって」(後藤新治、「西南学院大学国際文化論集」、1990年2月)です。ここでは、この論考を基に話を進めていくことにしましょう。

 著者の後藤氏はまず、ボッチョーニの〈力線〉について、次のように述べています。

「しばしば、自明の表象を持っているかのごとく語られる力線の概念は、しかしながらきわめて複雑で曖昧である。研究者によっても、力線の意味する内容やその表象の特定をめぐって、微妙な差異が見受けられるのが事実のようだ。」

 つまり、〈力線〉の概念そのものが〈複雑で曖昧〉であって、研究者によって、その定義にも違いが見られる、ということのようです。
 そして後藤氏は、〈力線〉の概念を複雑にしている要因として、次の3つを挙げています。

1. 本来直観によってしか捉えられないという、論証不可能な力線の存在自体にある。
2. 力線の成立において、これまであまりにもキュビズムの影響のみが強調され、力線本来の特質がほとんど顧みられなかったこと。
3. ボッチョーニの力線が、たしかにキュビズムの影響を受けることで、その成立直後から短期間のうちに大きく変化したこと。

 そもそもボッチョーニが〈力線〉という言葉を最初に使ったのはいつなのか、後藤氏は次のように述べています。

「ボッチョーニが〈力線〉という語を最初に用いたのは、1912年2月5日から24日までパリのベルネーム=ジュヌ画廊で開かれた、未来派最初の海外展〈イタリアの未来派画家〉のカタログ序文の中においてである。序文は〈出品者から公衆へ〉と題されているが、これはフランス語で書かれた一種の宣言文と考えてよい。」

 ボッチョーニは、このカタログ序文〈出品者から公衆へ〉の中で初めて、〈力線lignes-forces〉という言葉を使ったと述べています。
※この点については、ページ末尾の〈■附録/未来派およびボッチョーニの略年表〉を参照。

 そこで、後藤氏が定義した〈力線〉の概念とは、次のようなものです。

「すなわちボッチョーニにとって力線とは、対象を眺める主体(画家)と対象である客体との共感関係を示すとともに、さらには絵を見る主体(観客)と絵の中の客体が、ある種の精神状態を共有するために描かれるべき、直観によって得られる、ダイナミックな線である、と定義することができる。すくなくとも、1912年2月の成立時における力線の意味はそのようなものである。」

 一言で言えば、〈力線〉とは、〈主体〉と〈客体〉とが〈精神状態を共有〉するために描かれる、〈直観〉的でダイナミックな線、ということでしょうか。

 後藤氏は、ボッチョーニだけでなく、カルラやルッソロら未来派の画家たちの表現は、物理学者のマッハ(E. Mach、1838-1916)による衝撃波を撮影した写真や、生理学者マレイ(E. -J. Marey、1830-1904)が撮影したクロノフォトグラフィー(いわゆる連続写真)の影響抜きには考えられないであろう、と述べています。

 しかも、〈力線〉という言葉はボッチョーニの専売特許ではない、と後藤氏は言います。

「〈力線〉という術語は、おそらくフランスの哲学者ベルクソンの著作に由来する。」

こう述べて、

「ベルクソンの著作において、少なくとも5箇所に登場する〈力線〉lignes de forceという語は、つねにイギリスの物理学者ファラデー(M. Faraday)の用いた意味で使われている。」

として、磁石と鉄粉による〈磁力線〉の写真を掲げながら、5か所の〈力線〉の語の用法を掲示しています。

「ベルクソンは、ファラデーの〈力線〉を、宇宙における物質の相互作用をつかさどる線として、すなわち部分と全体を媒介する線として理解している。われわれは、先にボッチョーニの力線を、主体と客体との共感関係を示す線であると定義したが、これはベルクソンの用いた〈力線〉の概念と基本的には一致している。両者にとって、原子と宇宙は、あるいは主体と客体は、力線を媒介に、相互に深く浸透し合っているということである。」

 そして、このように〈力線〉をめぐる、ファラデー ⇒ ベルクソン ⇒ ボッチョーニ、この3者の関連性について指摘しています。


〈精神状態の同時性〉──〈記憶〉と〈知覚〉


 さらに後藤氏は、〈力線〉と並んでもう一つの重要な概念である〈精神状態の同時性simultanéité des états d'âme〉について取り上げています。
 この概念については、ボッチョーニはすでに1911年5月のローマでの講演で、「精神状態の同時性、それは記憶しているものと見ているものとの間の結合の表現を意味している。」と語っており、それが1912年2月の「パリ展カタログ」の序文〈出品者から公衆へ〉でも繰り返され、「観客を絵画の中心で生きさせてやるために、われわれが宣言した表現にしたがえば、絵画は、記憶しているものと見ているものの総合でなければならない。」と述べていると指摘しています。

「すなわち、ボッチョーニの言う〈精神状態の同時性〉とは、〈記憶しているものと見ているものの総合〉の意味にほかならない。」

 このように後藤氏は結論づけながら、しかしこの「パリ展」では、その序文とは裏腹に、ボッチョーニが実際に出品した絵画には、以下の3つの異なったレベルの表現が含まれている、といいます。

 1)記憶像と知覚像の総合という本来の表現のほかに、
 2)キュビズムがすでに行っていた、同一対象の多視点的表現や、
 3)クロノフォトグラフィーによって明らかとなった、時間的経過における連続的表現

 これらの絵画表現の曖昧さが、その後〈同時性〉をめぐって展開されるキュビズムとの論争の原因のひとつにもなっている、と言っています。
 そしてボッチョーニの唱える〈精神状態の同時性〉そのものについても、

「この〈精神状態の同時性〉という概念が、やはりベルクソンに由来することは間違いない。ただし、ベルクソンの著作には、〈精神状態の同時性〉という表現そのものは見当たらない。おそらくボッチョーニは、ベルクソンのいくつかの著作からヒントを得て、彼自身の用語および意味をつくりあげたのだと思われる。」

と述べて、またもベルクソンのボッチョーニへの影響を指摘しています。さらに、

「ボッチョーニの〈力線〉によって描かれた〈精神状態の同時性〉の絵画が、記憶と知覚の総合という、さまざまに変化してやまないわれわれの意識状態の視覚化を超えて、いわば純粋持続としての時間性そのものの表現を目指していたことはあきらかである。」

と、ここで〈純粋持続〉というベルクソンの用語を引用しながら指摘していることは重要です。しかしその反面、

「力線という記号的表象を用いて、直観によってしか捉えられない持続としての時間性を、空間的に表現しようとすること自体、きわめて〈危険〉な賭であると言わざるを得ない。」

とも述べ、一方でボッチョーニの表現自体が根本的矛盾を内包しているのではないか、という危惧も表明しています。

*

 これに対して、先の多木浩二氏は『未来派─百年後を羨望した芸術家たち』の中で、次のように述べています。

「昔はひとつひとつのものを輪郭で区別していたし、近代に入っても印象派はイメージを細分化していくが大雑把に全体を提示するだけであったし、キュビズムは対象を分解して並べているだけで、現実の三次元よりも高次な次元としてのあたらしい次元はもたらしていないのである。
 ボッチョーニの提案は、このような事実的なものしか認めていない概念の代わりに「ダイナミックな連続性」の概念をおくのである。このような形態によって、ボッチョーニは四次元に近づく。しかしそれは視角化するのだから、三次元を決定する、高さ、幅、奥行きのすべてを受け入れることはしなければ可能ではない。ダイナミズムつまり四次元とは、この「ダイナミズムによって、理念的な高次の次元へと芸術が昇る」ことを意味する。「この次元がスタイルを生み出し、速度と同時性の時代を表現する」ようになるのである。ボッチョーニはここでベルクソンのようないい方をする。あらゆるものは動いている、と。」

 後藤氏が、ボッチョーニの時間/空間の表現自体が根本的矛盾を孕んでいるのではないか、という懸念を示していたのに対し、多木氏は〈四次元〉という言葉を使って、その時間/空間の問題を、むしろ楽観的に捉えようとしているように見えます。
 多木氏は別のところでも、次のように述べて〈四次元〉を強調しています。

「二〇世紀初頭の人びとの知的関心は、非線形幾何学とか(それ自体は一九世紀に出来上がっていたのだが本当に関心をひくのは二〇世紀である)、アインシュタインの相対性理論とか、時間/空間(したがって四次元)とか、科学が不可避的にもたらしたものに向けられていた。」

 ここで言う〈二〇世紀初頭の人びと〉がどのような人々を指しているのか分かりませんが、1910年代初頭に活動していたボッチョーニたち未来派の画家が、仮にアインシュタインの特殊相対性理論(1905年)やミンコフスキー時空(1907年)などの数学・物理学的な〈四次元〉の概念に〈知的関心〉を示していたとしても、それを理解していたとは考えにくいのではないか。
 たとえば、日本では詩人の野川隆が、1920年代になってリーマンやロバチェフスキー、ミンコフスキーらの名前を用いて詩を書いていますが、それは必ずしもこうした数学者の幾何学や時空の概念を理解していたわけではありません。
 未来派の画家たちについても、彼らを触発したのは、後藤氏も述べていたように、19世紀後半に登場したマイブリッジやマレイらのクロノフォトグラフィー、物理学者マッハによる衝撃波の写真、あるいは最初期の映画も加えられるかもしれませんが、こういった〈視覚的〉なものだったはずです。彼らの〈知的関心〉の対象は、数学・物理学的な抽象理論ではなく、むしろ角田氏が〈相互浸透〉について述べていたように、彼らが理解しようとしたのは、あくまでもベルクソンの提唱したように、〈対象を哲学的な直観によって時間的に把握する方法〉であったろうと思います。
※いわゆる〈映画〉にしても、タルホが〈活動写真が時空の形式をとり入れたものであったら、その時間とは云うまでもなく歯車の廻転というようなところにまで抽象されているものである〉と言って、すでに1920年代の日本で活動写真における〈時空原理〉を指摘していたことは、全く例外的なことで、映画自体はすぐに娯楽(スクリーン上に描かれるもの)として普及していきます(J. メリエスの「月世界旅行」〈1902年〉等々)。

 いずれにせよ、多木氏が作品例に挙げているように、そうした〈ダイナミズム〉の方法がはたして、ボッチョーニの「空間における連続性の唯一の形態」や「一本の壜の空間への展開」といった彫刻作品に芸術的にに昇華されているのかどうかは別の問題でしょう。ただしボッチョーニについては、タルホは次のように述べてあまり評価していません。

「ボッチョーニの三部作、「訣別」「去り行く人」「あとに残る人々」は、未来派的試作という点では貴重な資料であろうが、いずれも説明的で、芸術作品としての完結を持っていない。テクニックにしても、カルラの同傾向の「無政府主義者某の葬儀」には遠く及ばない。彼の有名な未来派彫刻は、シネマの原理をプラスティックの上に強引に応用した幼稚さに置かれている。」(「カフェの開く途端に……」)

※後藤氏は、ボッチョーニのこの〈精神状態II〉3部作について、1912年3月のロンドン〈サックヴィル画廊〉における展覧会カタログの作品解説を紹介しています。リンクを張った絵と照らし合わせて読むと非常に興味深いです。

【1.別れ】
 出発の混乱のまっただなかで、具体的なものと抽象的なものとが入り混った感覚は、ほとんど音楽的なハーモニーによって、力線force-linesとリズムに翻訳される
 人物と物体との組み合わせによってできた、波打つ線やまっすぐな線に注目して欲しい。目立った要素、たとえば機関車の番号、絵の上部に見える機関車のプロフィール、別れの象徴でもある中央の風切り前部などが、心に消えがたく刻まれた情景の特徴を暗示している。

【2.行く人】
 彼らの精神状態は、左向きの斜線によって表わされている。色彩は、孤独で、苦痛に満ち、当惑したような感情を暗示しており、それはさらに煙と速度の暴力によって運び去られる顔で、説明されている。また切り刻まれた電柱や、列車が通り抜けてゆく風景の断片を見分けることができる。

【3.残る人】
 垂直の線は、彼らの意気消沈した状態を、あらゆるものを地に引きずり降ろしてしまう無限の悲しみを、暗示している。数学的に精神化されたシルエットは、後に残る人々の魂の、苦痛にみちた憂鬱を表している。

*

 さて、これまで後藤氏の論考を長々と引用しながら述べてきましたが、ここで〈力線〉と〈精神状態の同時性〉という概念について、もう一度おさらいをしておきましょう。

 〈力線〉とは、〈主体〉と〈客体〉との〈精神状態を共有する〉ために描かれる〈直観的な線〉である。
 〈精神状態の同時性〉とは、〈記憶〉しているものと〈見て〉いるものの〈総合〉である。

 この定義を、先に触れたように、多木(陽介)氏が〈未来派彫刻技術宣言〉の中で〈相互浸透〉の注として述べた、〈内面と外面と記憶と感覚のすべてが同時に存在するという意味〉という説明に当て嵌めて言い換えてみると、次のようになるのではないでしょうか。

 〈相互浸透〉とは、〈力線〉によって〈主体〉と〈客体〉との〈精神状態の共有〉を描き、さらに〈記憶〉と〈視覚〉を総合して〈精神状態の同時性〉を表現することによって到達すべきヴィジョンである。

 すなわち、内面(主体)と外面(客体)と記憶と感覚(視覚)のすべてが同時に存在するのが〈相互浸透〉ですから、多木(陽介)氏が〈ある物質の存在は、その外形を超えている(超越している)ということ〉と注記した、〈物質的超越性〉(タルホの言う"Material Transcendentalism")の概念は、おのずから導き出せるものでしょう。
※後藤氏は、この〈物質的超越性〉を〈物理的超越主義transcendentalisme physique〉と訳していますが、この語自体については論考の中で特に議論を展開していません。

 ベルクソンのボッチョーニへの影響はさらに議論があるようですが、私たちの論点からは外れますので、ここからは再び、茂田氏の言う「彼(足穂)のこのことば( "Matériel Transcendantalisme" )に対する解釈は、ボッチョーニ自身が意図したものを超えている……」というテーマの方へ焦点を移すことにしましょう。


〈澎湃たるもの〉と〈力線〉


 茂田氏は、〈力線〉および〈物質的超絶〉に対するタルホの解釈は、ボッチョーニ自身が意図したものを超えているとして、その理由を次のように述べていました。

「ボッチョーニは現実にあるものから出ている力線(linee-forze)を看取し、物質同士が相互に影響を及ぼし合う様を絵画の上に表現しようとした。このとき、力線の始点としての物質の存在は確固としており、個としての物質自体に内在する力が関心の対象となっている。これに対して足穂は、この「物質的超絶」の結果として、「おしなべて実体のないエーテルが立体的存在の虚空に投影しているファンタジー」を見るのである。このときには、個としての〈モノ〉は失われ、そこに残されるのは、互いに浸透し合い、切り放すことができない、渾然とした状態にもつれ合った〈モノ〉たちの影だけである。」

 ここで茂田氏が、ボッチョーニの〈力線〉について述べているところは、先に引用した有島生馬訳の「印象派対未来派」の中の難解な一節を想起させます。すなわち、

「故に吾々は客格を一つの中心(ヌクレオ)点(求心的構造(コスツルチオネ・チエントリペタ))と定義する。之から力(レ・ホルツエ)(線─形─力)が生れ出る。其力が客格を周囲(遠心的構造(コスツルチオ子・チエントリフウガ))に完結する。改めて吾々は客格を結論すれば=客格─周囲(l'oggetto-ambiente.)を或る新らしい個性的合一(l'unita indivisibile)と解するのである。」

 茂田氏が引用した作品「記憶」には、"Matériel Transcendantalisme"は出てきますが、〈力線〉という言葉は直接登場しません。ただし、「窓のスペクトラムに射しぬかれて透きとおり、X線写真のように肋骨をぼやけさせているのが見えるように覚えられたり」というように、物質を〈突き抜ける〉ような〈力/線〉と、それによって生ずる〈相互浸透〉の様を表現しているような記述に出合います(ただし、初稿では〈X線写真〉という言葉は出てきません)。
 また、このページの冒頭で引用した「美のはかなさ」の一節は、タルホの〈力線〉に対するイメージをよく示しているように思います。

「各物体はそれ自身にそなわる力線を伸ばして、おのおの形態を粉砕し、無限に拡大しようとする傾向を持っている。」

 同じく「美のはかなさ」の次のような一節、

「僕はやはりボッチョーニを担ぎ出して、「そのとたん、トワイライトを嵌め込んだ西側の窓枠も、椅子、衣裳掛け、胡桃色に光っているグラモフォーンも、青レッテルを貼ったレコードも、壁面のペナントも踊子の写真も……この場所に坐している人物と合わせて、みんな等しくその限界を崩して、互いのフォースラインを無辺際に延長しようとする」としたい。」

 ここでタルホが言っているイメージは、ボッチョーニが述べている〈相互浸透〉の対象とほとんど違いがないように思われます(上記、角田かるあ氏訳の「〈未来派絵画技術宣言〉を読む」/[第8段落]および「第10段落」参照)。
 ただし、これに続く次の一節になると、ボッチョーニのイメージしているような対象を逸脱しているような気がします。

「こうして、「物質的超絶」あるいは「先験的物在」と解せられる力線の一束は、この館の屋根を貫いて、空間を渡り、銀河系を横断して、渦状星雲が散在している彼方へ紛れ入ろうとしている。また他方の放射の束は、ざわめく甍の波頭の上を辷って、同志を糾合し、遠く港内の碇泊船のマストの林をかすめて、水平線上に半顔を現わした月の出鼻をくじく……かと思うと、別な箭先はいち早く地球の核を突きぬいて、ボリビアの高山都市の歩道を行く靴を、その裏側から襲撃(アタック)している。」

 それでもここには、茂田氏が言うように、「〈モノ〉たちの影」すなわち「おしなべて実体のないエーテルが立体的存在の虚空に投影しているファンタジー」だけでなく、〈力線〉が貫くべき〈物質〉は厳然として存在しています。
 あるいは、たとえば次のような一節。

「「なの花や遠山鳥の尾上まで」(蕪村)の大景観が無量の力線を上空に伸ばして、人工の巨鳥を打ち落そうとし、機械仕掛の怪鳥は一望の菜畠を威嚇し、全面的に震撼させている。このような相互確執が、たとえば未来派的画面としてキャッチ出来ないであろうか……」(「ライト兄弟に始まる」)

 ここでは〈力線〉をいわば〈スペシウム光線〉のようなイメージで用いており、攻撃する相手ははっきりとした姿で存在しています。
 いずれにせよ、タルホの言う〈力線〉には、方向性を持った直線的な〈光線〉あるいは〈X線〉のようなイメージがあるように思われます。

 それとともに筆者には、タルホの〈力線〉の根底には、もう一つ重要なイメージが重ねられているように思われてなりません。
 それは「古典物語」における次の一節です。

「何者とも知れぬ澎湃たるものが物質を突抜けようとしている。そしてそれが物質と絡まり縺れ合う度合に応じて、植物や昆虫や、鉱石や、家屋や、電車や、また各人の相貌の差異が生じているように思われた。」

 多理が、ベルクソンの〈ピュアデュアレイション〉、すなわち〈純粋持続〉を理解したと感じた瞬間です。
 ここでは〈物質〉を突き抜けるものが、〈力線〉でなく〈澎湃たるもの〉になっています。しかし、これまでタルホが述べていることからすれば、〈澎湃たるもの〉≒〈力線〉としても差し支えないような気がします。ただしここでは、〈澎湃たるもの〉が〈物質〉と絡まり合う度合いに応じて、地上のさまざまな物(有機物や無機物)が生じる、と言っていることに注目しなければなりません。こんなことはボッチョーニも言っていないからです。
 このことから筆者が連想するのは、タルホの〈円錐宇宙モデル〉です(本サイトの〈タルホ円錐宇宙創造説〉における〈円錐宇宙における生命/物質/ホーキ星〉項参照)。このモデルにおいては、〈生命〉と〈物質〉は別箇のものではなく、回転における〈ピッチ〉の違いでしかありません。すなわち、両者の関係は〈グラデーション〉になっています。ピッチの違いによって、物質の(あるいは生命の)程度に違いが生ずるのです。このモデルに当て嵌めれば、〈澎湃たるもの〉≒〈生命〉とすることも可能かもしれません。
 これらを統合すれば、すなわち、

  〈澎湃たるもの〉≒〈純粋持続〉≒〈力線〉≒〈生命〉

という式が成立するように思います。先の後藤氏も次のように述べているからです。

「ボッチョーニの〈力線〉によって描かれた〈精神状態の同時性〉の絵画が、記憶と知覚の総合という、さまざまに変化してやまないわれわれの意識状態の視覚化を超えて、いわば純粋持続としての時間性そのものの表現を目指していたことはあきらかである。」

 また、ボッチョーニの絵画・彫刻が結局、〈精神状態の絵画〉(木村荘八の訳では〈心の有様を描く〉)へ到達すべきものならば、そこに描かれるものはやはり〈モノ〉ではないことになります。
 ベルクソンを共通項としてボッチョーニとタルホがお互いに共鳴したのだとすれば、〈力線〉や"Material Transcendentalism"といった概念に対して、タルホがそれほど懸け離れた解釈をしていたとは思えません。むしろ、当時の数少ない資料から、未来派/ボッチョーニのエッセンスを抽出してタルホがそれを理解した、ということのほうが驚くべきことのように思います。


〈ギュイヨン夫人〉の言葉


 さて、ここでもう一度茂田氏の解説に戻ると、〈力線〉について、ボッチョーニとタルホの違いについて、次のように述べていました。

「これに対して足穂は、この「物質的超絶」の結果として、「おしなべて実体のないエーテルが立体的存在の虚空に投影しているファンタジー」を見るのである。このときには、個としての〈モノ〉は失われ、そこに残されるのは、互いに浸透し合い、切り放すことができない、渾然とした状態にもつれ合った〈モノ〉たちの影だけである。」

 ただ、タルホの〈力線〉についても、〈相互浸透〉の前提として、方向性を持った直線的な〈光線〉あるいは〈X線〉のようなものが想定されている、ということは上に述べました。
 茂田氏が述べる、「おしなべて実体のないエーテルが立体的存在の虚空に投影しているファンタジー」というのは作品「記憶」の一節ですが、「弥勒」(第1部)では、江美留が描いた「虚無主義者の見たる夜の都会」という題名の未来派風小品画の解説文だとしています。曰く、

「──すでに群衆も自動車も電車も建築物も無く、吾人の観たる夜の都会は透明にして、只それは、エーテルが立体的存在の虚空に投影せる七色のファンタジーのみ」

 そしてこの解説文は、同じく「弥勒」(第1部)で、Fによって語られる増富平蔵訳『ショーペンハウエル随想録』の一節と関連付けられています。

「──我々がいったん、──いいかね」とFは続けた。「我々がいったん意志を断滅してしまうと、人生は、暁方の夢のように、おぼろに淡い只の現象とのみ観えてき、それすらついには、その夢と同じく、何時とも知らず、際立った移り変りもなしに、消えうせてゆく。それ故、ギュイヨン夫人も、自叙伝の終りに、今は何者も無差別に、絶えて何物も欲することなし。我は、自らの、なお此処に有りや無しやを知らず云々と、述べている」

 なぜなら、「それにしてもこのギュイヨン夫人の言葉は、あの夜の都会の絵には持ってこいの解説文になるが、……」と言っているからです。
 タルホの〈相互浸透〉のイメージには、この〈ギュイヨン夫人〉の言葉も大いに関係があるような気がします。
※ギュイヨン(Guyon)夫人の言葉は、増富平蔵訳『ショーペンハウエル随想録』(玄黄社、1913〈大正2〉年12月)の第7章「自殺について」(第166節)に出てきます。「弥勒」においてタルホはかなり正確にその言葉を引用しています。
 なお、ギュイヨン夫人の名前は、ショーペンハウエルの『意志と現識としての世界』(全3巻、姉崎正治訳、博文館、1910〈明治43〉年12月〜1911〈明治44〉年10月)にも、都合5か所出てきます。


〈ド・ジッター博士〉の宇宙


 もう一つ〈相互浸透〉と関連付けられそうな話を取り上げることができます。

「物質滅尽の思想、それは口で語られる物語の如く移ろい行き、ついに溶けて幻のような無に還元して了う物質の将来なのであろうか」(「あべこべになった世界に就て」)

「ねえ、口で語られる物語の如く移ろい行き、融けて幻に似た無に還元されてしまう物質の将来について語ろうじゃありませんか」(「物質の将来」)

 タルホ24、5歳頃からのテーマ(「一筆遺書参らせ候」)だという、〈物質の将来〉について語るときに出てくる一節です。
 これも先の〈ギュイヨン夫人〉の言葉を思わせますが、こちらはむしろ物理学者の〈ド・ジッター博士〉の話と結び付いているように思います。タルホがド・ジッター博士に注目する理由の一つは、〈ド=ジッター宇宙は物質無視〉(「物質の将来」)だからです。

「ド=ジッター理論では、宇宙はもはや極度に薄くなって、それが宇宙やら何やら判らないような状態になっている。即ち物質が無視されている。」(「男性における道徳」)

「ボクにとって特に興味があるのは、ド・ジッター模型が極端に未来的で、そこでは理論的に物質が皆無になっているということである。抽象化が行きすぎて、内容が空っぽになった点である。」(「ある宇宙模型をめぐって」)
※〈未来的〉という言葉を使っていることに注意。

「この物質を犠牲にして理論的完備を期したという点に、又、彼の宇宙が既に宇宙であるか何であるかも判らぬような稀薄さに置かれているという所に、僕はド・ジッター博士の性格をよみ取りたいのです。」(「遠方では時計が遅れる」)

 これらを読み合わせると、〈ギュイヨン夫人〉は、意志を断滅することによって、〈有りや無しやを知らず〉のうちに〈消えうせてゆく〉のでしたが、〈ド・ジッター宇宙〉は、天体の後退(宇宙の膨張)によって、〈既に宇宙であるか何であるかも判らぬような稀薄さに置かれている〉のです。こうした〈意志〉や〈宇宙〉が、〈融けて幻に似た無に還元されてしまう物質の将来〉につながっているのは明らかでしょう。
 タルホにおける〈相互浸透〉のイメージが、こうした思想や宇宙論によって支えられていると仮定すれば、確かにこれらのタルホ的な部分はボッチョーニには見られないもので、茂田氏の言葉を用いれば、「ボッチョーニ自身が意図したものを超えている」ことになるかもしれません。


残った疑問


 以上、長々と論じてきましたが、最後に2つの疑問を記しておきます。

@"Material Transcendentalism"なる用語は、タルホ以外の資料には見つかりませんでした。
 "Material Transcendentalism"が最初に出てくる作品は「記憶」(【新潮】1929〈昭和4〉年5月)ですから、それまでのどこかの時点でこの言葉に接したのでしょうが、それがいつ、どういう資料に依ったものか判明しません。
 WEBを見ると、" Transcendental Materialism(超越論的唯物論)"という用語がありますが、ボッチョーニの概念とは全く別のものです。

A「未来派へのアプローチ」(「カフェの開く途端に月が昇った」の初稿)の末尾に、〈マリネッティ宣言〉(1909)、〈未来派画家宣言〉(1910)、〈展覧者より公衆へ〉(1912)からの抜粋を掲げています。しかし、タルホが何を参照したのか、その出典が不明です。
 「未来派へのアプローチ」の初稿は、【作家】〈1964(昭和39)年8月〉発表ですから、この頃までに、なにがしかの本か雑誌に掲載されたものを参考にしたはずです。もちろん〈マリネッティ宣言〉も古い木村訳ではありません。〈未来派50周年〉に際して本や雑誌が、当時、日本で発行されたのかどうか。


附録/未来派およびボッチョーニの略年表([後]=後藤/[多]=多木/[木]=木村)


1909年2月20日
 "Manifeste du Futurisme"〈未来派宣言〉

1910年2月11日
 "Manifesto dei pittori futuristi"〈未来派画家宣言〉

1910年4月11日
 "Manifesto tecnico della pittura futurista"〈未来派絵画技術宣言〉
 "compenetrazione"〈相互浸透〉という言葉自体はないが、その考え方はすでにここに表されている。

1911年4月5日〜4月11日
 「ボローニャで第4回国際哲学会議が開催」[後]

1911年4月10日
 「ベルクソンが〈哲学的直観〉と題する講演を行った」[後]

1911年5月29日
 「ローマの国際芸術家サークルで行った講演〜〈力線〉という語がまだ登場していない」[後]

1911年5月
 「(1911年5月にローマの芸術サークルにおける未来派絵画についての講演で)私が〈物質的超越性〉と呼んだこのヴィジョン……」〈未来派彫刻技術宣言〉(1912年4月11日)[多(陽介)]

1911年5月
 「1911年の5月、羅馬国際美術協会の講演会壇上に於て、該派の先進画家ボッチォニの述べたところが左の論文であ る」[木]〜この中には〈力線〉も〈物理的超越〉も登場

1911年10月
 「1911年10月の未来派画家のパリ訪問」[後]

1911年10月
 「(1911年10月、パリにおける第1回未来派展のカタログにおける序文−宣言において)絵画における〈力線〉についてわれわれが述べたことは、彫刻についても言える……」〈未来派彫刻技術宣言〉(1912年4月11日)[多(陽介)]

1911年11月29日
 「フランスの批評家サルモンは、『パリ=ジャーナル』紙に、「ベルクソンとキュビスト」と題する論文を発表」[後]

1911年12月頃
 「イタリアの未来派画家・批評家のソフィチは、『ラ・ヴォーチェ』紙でただちにこれに反撃」[後]

1911年12月頃
 「ボッチョーニがベルクソンの著作から〈力線〉という語を"発見"するのは、パリ訪問直後の、1911年12月頃であったと推察される」[後]

1912年2月5日〜2月24日
 「ボッチョーニが〈力線〉という語を最初に用いたのは、1912年2月5日から24日までパリのベルネーム=ジュヌ画廊で開かれた、未来派最初の海外展〈イタリアの未来派画家〉のカタログ序文の中においてである。序文は〈出品者から公衆へ〉と題されているが、これはフランス語で書かれた一種の宣言文と考えてよい」[後]

1912年3月
 「英訳の展覧会カタログ(1912年3月、英京サツク井゛ル画堂に未来派画家の展覧会が開催された時刷られたもの)」[木]⇒ 木村荘八の底本

1912年3月
 「ロンドンのサックヴィル画廊で開催された展覧会カタログに、英語で書かれた出品作品解説」[後]

1912年4月11日
 "Manifesto tecnico della scultura futurista"〈未来派彫刻技術宣言〉(「ポエジア」誌上)[多]
 この中に"compenetrazione"〈相互浸透〉および"transcendentalismo fisico"〈物理的超越性〉の語が登場

1913年3月
 「未来派彫刻と絵画の造形的基礎」(「ラチェルバ」誌上)[多]

1913年12月
 「造形的ダイナミズム」(「ラチェルバ」誌上)[多]

1914年3月
 「絶対的運動」+相対的運動=ダイナミズム」(「ラチェルバ」誌上)「多」

1914年
 "Pittura Scultura Futuriste (1914)"〈未来派の絵画及び彫刻〉



※後藤氏は、ボッチョーニが1911年5月29日に〈ローマの国際芸術家サークル〉で行った講演では、「〈力線〉という語がまだ登場していない」と述べています。
 しかしながら、〈未来派彫刻技術宣言〉(1912年4月11日)の中には、「(1911年10月、パリにおける第1回未来派展のカタログにおける序文−宣言において)絵画における〈力線〉についてわれわれが述べたことは、彫刻についても言える……」という記述があります。
 この中の〈1911年10月、パリにおける第1回未来派展〉というのは、後藤氏の言う〈1912年2月にパリのベルネーム=ジュヌ画廊で開かれた未来派最初の海外展〉とは別のものなのか、あるいはボッチョーニが同じものを勘違いしているのか。もし同じものを指しているのなら、ボッチョーニが年月を間違えているということになります(ボッチョーニは〈未来派彫刻技術宣言〉の中で、〈相互浸透〉の語を〈絵画技術宣言〉の中で用いたと誤解していたようなところがあるので、間違いの可能性もあるでしょう)。
 同じく〈未来派彫刻技術宣言〉には、「(1911年5月にローマの芸術サークルにおける未来派絵画についての講演で)私が〈物質的超越性〉と呼んだこのヴィジョン……」という記述があります。この記述が正しければ、〈物質的超越性〉のほうが〈力線〉より先に登場したことになります。
 また、後藤氏の〈出品者から公衆へ〉からの引用に、次のような一節があります。

「これらの力線lignes-forcesが観客を取り囲み、引きずり込まなければならない。それによって彼もまた絵画の中の登場人物たちと戦うことを余儀なくされるであろう。全ての対象物は、画家ボッチョーニがいみじくも〈物理的超越主義transcendentalisme physique〉と名づけたものに従い、自らの力線によって無限へと向かっている。われわれの直観intuitionがこの力線の連続性continuitéを測定する。」

 ところが、この一節は、木村荘八が『未来派及立体派の芸術』の中で、「一九一一年の五月、羅馬国際美術協会の講演会壇上に於て、該派の先進画家ボッチォニの述べたところが左の論文である。」と述べて引用しているものと、恐らく同じものです。ここで木村の言う〈羅馬国際美術協会〉の講演は、後藤氏の〈ローマの国際芸術家サークル〉での講演と同じものを指していると思われます。
 その内容は、先にも挙げた次の一節です。

「之等の線条──力線(フォース・ライン)は、観者をして画中の人と悲しみを倶にし喜びを倶にしなければ止まない様にとさせるのだ。あらゆる事物は、(画家ボッチオニの)所謂物理的超越に依り力線の力を借りて無限に転位する。その線の連続は我々の直覚によつて測る事が出来る。」

 木村の翻訳は、1912年3月、ロンドンのサックヴィル画廊で開催された展覧会の英文カタログが元になっていますが、もし「一九一一年の五月、羅馬国際美術協会の講演」が間違いでなければ、明らかに〈力線〉および〈物理的超越〉の語が用いられており、1911年5月29日に〈ローマの国際芸術家サークル〉で行った講演では、〈力線〉という語がまだ登場していない、という後藤氏の記述と矛盾してしまいます。


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