管  理  人  レ  ポ  ー  ト



■2024.3.27/『ライト兄弟に始まる』の種本を見付けた!
■2024.3.19/「『少年愛の美学』における『男色文献書志』の役割
 ──附録/『少年愛の美学』における引用文献一覧」をアップしました
■2024.1.7/「"ART SMITH'S STORY"を読む」をアップしました
■2023.10.26/アポカリプシスの獣
■2023.7.4/カーティス・ミュージアムのサイトにびっくり!
■2023.6.11/「"Material Transcendentalism" が行方不明です」をアップしました
■2023.1.21/タルホに “The Sawmill”を見せたかった
■2023.1.7/ラリー・シーモンの映画について──YouTube上の状況
■2022.11.27/「弥勒が弥勒になるまで(II)」をアップしました
■2022.8.17/「「弥勒」─テキストのヴァリアントについて」に「「法句経」と「Tat-tvam-asi」について」を増補しました
■2022.8.8/サントス=デュモン再考
■2022.4.3/「私のタルホ的年代記──I. 妄想篇」をアップしました
■2022.2.1/「春風にエアロの動く二三間」をアップしました
■2021.12.17/「「弥勒」─テキストのヴァリアントについて」をアップしました
■2021.8.17/「気配の物理学──ポッカリ空いた大きな穴についての考察──」をアップしました
■2021.1.26/出来事
■2020.11.8/「タルホ円錐宇宙創造説」をアップしました
■2020.8.17/登場人物を確認する
■2020.8.3/“Come Josephine In My Flying Machine”
■2020.7.20/Flight The Pioneer Era 1900 to 1914
■2020.2.15/最後にもう一つ
■2020.2.4/「タルホと私」について
■2019.3.10/映画(活動写真)館のこと
■2019.1.3/西村天囚の琵琶歌
■2017.12.5/パナマ・太平洋万国博覧会の動画がすごい !!
■2017.10.16/タルホの机
■2017.3.23/タルホの作品年譜について
■2017.2.23/「タルホが口ずさんだ音楽」をアップしました
■2017.1.4/♪爺さん酒飲んで酔っ払って転んだ
■2016.10.15/ハモンズポートに行ってきた!
■2016.10.16/キウカ湖で水上飛行機を見た!
■2016.10.6/タルホ年譜ノートに乗り換える
■2016.10.5/『真鍮の砲弾』という本があった!
■2016.10.3/タルホのお父さんの写真があった!



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■2024.3.27
『ライト兄弟に始まる』の種本を見付けた!

 今回、『少年愛の美学』の引用文献を〈国会図書館デジタルコレクション〉で調べるという〈暴挙〉に出たわけですが、振り返ってみると、このところずっと、特に〈イナガキタルホ・フラグメント〉に切り替えた後は、ネット上で見つけた資料を通してタルホのこと再考してみる、というパターンになっていることに改めて気づきました。
 もちろんそれが面白いと思うからで、昔はこんなネット環境になるとは夢にも思っていなかったわけですから、かつては不可能だったやり方でタルホ世界を捉えなおしてみよう、という考えが生じたのは不思議ではありません。今やタルホが体験した世界を、いい加減な〈想像〉でなく、映像や資料を通して〈目にする〉ことができる、あるいはタルホが観ていなかったものさえ観ることができるようになったからです。
 たとえば、ラリー・シーモンはそれまで写真で見るだけでしたが、米国からビデオテープを入手して、初めて〈動くラリー〉を見ることができた、それが今では誰でもYouTubeで、筆者が入手した本数以上のラリーの映画を観ることができるようになりました。タルホ自身が観たのは、その中のほんの一部にすぎなかったのです。
 パナマ太平洋万国博覧会についても、タルホのように〈絵葉書〉でなく、過去のフィルムによって動画としてその光景を観ることができます。しかもリンカーン・ビーチーの墜落直前の飛行機の様子やアート・スミスの夜間宙返り飛行など、タルホの文章から想像するしかなかった出来事を、映像によって〈目撃〉することができるようになったのです。
 タルホの中でこれまであまり注目されなかった音楽についてもそのとおりで、かつて〈チペレリ〉という曲を実際に聴けると思った読者がいたでしょうか。それが"Tipperary"のことだと想像したでしょうか。〈バグダッドの太守〉や〈グッドナイトレディス〉がどんな曲か知りたいと思わなかったでしょうか。YouTubeが登場したからこそ、そうした曲を簡単に〈聴く〉ことができるようになったのです。
 "ART SMITH'S STORY"や『少年愛の美学』の引用文献についても、然り。
*

 と、前置きはここまでにして、而して今回、またもやそのパターンを踏襲して取り上げるのは、『ライト兄弟に始まる』の種本のことです。
 これについては、タルホ自身が「種本はニューヨークのマクミラン社刊The Story of American Aviationである。」(タルホ=コスモロジー)と、すでに種明かしをしているので、熱心な読者は、とっくにその訳本も突き止めていることでしょう。したがって、今さらここで紹介する必要はないかもしれませんが、筆者にとって『少年愛の美学』の引用文献と『ライト兄弟に始まる』の種本を明らかにすることが昔からの懸案だったので、今回、引用文献がひとまず片付いたので、もう一方に目を向けることにしたわけです。
 この原著は、Ceiling Unlimited. The story of American Aviation From Kitty Hawk to supersonics, New-York, The Macmillan Company, 1953. SMITH, Kendall MORRIS, lloydで、その翻訳本は、『限りなき上昇 : キティー・ホークから超音速機までの航空物語』ということが分かりました。
 この訳本を試しに〈国会図書館デジタルコレクション〉で検索すると、なんと収蔵されている! したがって、これを利用しない手はない、ということになります(ただし、この本は(◎送信サービスで閲覧可能)扱いになっており、利用者登録をしていないと閲覧できません)。
 筆者はまだ通して読んだわけではありませんが、タルホが、ハリエット・クインビーの没年が間違っている、と「タルホ=コスモロジー」で指摘している箇所を見つけることができました。
 この本の口絵写真はかなり充実しています。本文は2段組みで、文字がぎっしり詰まっている感じですが、貴重な人物写真も所々に差し挟まれています。何より、タルホがどのようにリライトしたのか、その跡を辿ってみるだけでも、タルホの〈創作〉の一端を垣間見ることができるわけで、興味深いテキストです。
 ということで、これも先で何らかの形でまとめるのか、というと多分しないような気がしますが、種本を見付けたことでひとまず安心した、というところです。



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■2024.3.19
『少年愛の美学』における『男色文献書志』の役割
──附録/『少年愛の美学』における引用文献一覧」
をアップしました

 『少年愛の美学』は引用文献が非常に多いことが特徴的です。中でも日本の古典籍からの引用が多いのが目を引きます。
 『少年愛の美学』は、初出の「ヒップ・ナイドに就いて」に始まり、「増補・HIP-NEID」「少年愛の形而上学」「Principia  Paedophilia」と幾度も「作家」誌上で増補・改訂を重ね、最終的に単行本『増補改訂 少年愛の美学』(徳間書店)として刊行されたわけですが(『全集』は、この本にさらにタルホが加筆したもの)、こうした増補・改訂を重ねる中で、引用も次第に増えていきました。『全集』版を見ると、日本の事例を扱ったものだけでも、延べ200か所に及ぶ引用がなされています。
 今回、こうした『少年愛の美学』における引用のうち、我が国の古典籍を中心にして、岩田準一の『男色文献書志』と〈国会図書館デジタルコレクション〉を参照しながら網羅的に調査し、その一覧を作成しました。
 その作業の中で、〈デジタルコレクション〉所蔵の各文献にリンクを張ったので、タルホが引用した部分をweb上で閲覧することができるようになりました。併せて、『男色文献書志』との関係についても、この本なくして、あのような形の『少年愛の美学』は成立しなかったろう、ということも分かりました。



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■2024.1.7
"ART SMITH'S STORY"を読む」をアップしました

 偶然、英文の"ART SMITH'S STORY"(『アート・スミス物語』)がネット上に公開されているのを見つけました。タルホが『生い立ちの記』として幾度も言及している飛行家アート・スミスの〈自伝〉です。
 作品「墜落」の第3章に置かれた「白鴎の群を越え行く時」は、タルホが中学時代に読んだという『アート・スミス物語』を、記憶によって再現したという驚異的な一篇です。
 今回、その物語の基となった英文の"ART SMITH'S STORY"に接することができたので、「白鴎の群を越え行く時」と対照しながら、物語の内容を辿ってみることにしました。



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■2023.10.26
アポカリプシスの獣

 以前から「弥勒」第一部の校異作業をしているのですが、その中で、「飛行機は精神が物質に打克つ最後の勝利です」という言葉が出てきました。ただし、この言葉は、「弥勒」のヴァリアントのうち、【小山書店】版と【作家】には出てくるのですが、最後の【大全/タルホスコープ】では削除されています。しかしタルホ読者ならきっと、この言葉はどこかで聞いたことがあるでしょう。
*
 「飛行精神」(『全集6』p.453)に、「森鴎外が明治四十二年頃出した「飛行機」と題した訳本には、エドワルト=ステッケンの戯曲「飛行機」と、他にもう一篇が収録されている。/私は子供だったので、そこに書いてあることはよくわからなかったが、只その中に、「ヒコーキは精神が物質に打ち勝つ最後の勝利です」という文句があったことを、よくおぼえている。」とあります。
 また、「カフェの開く途端に月が昇った」(『全集5』p.174)でも、「その頃、森鴎外が訳出した『飛行機』というドラマにも、「飛行機は、精神が物質に打ち勝つ最後の勝利です」というセリフがあったことを、自分はよく憶えている。(この鴎外の訳本は、アンドレーフの『人の一生』と合わして、明治四十四年二月、春陽堂刊となっている。戯曲『飛行機』の作者は、エドワルト・シュテッゲンである)」と言っています。
*
 鴎外のこの訳本は、幸い国会図書館のデジタルコレクションに収録されています。それを見ると「飛行機」の原作者は"Eduard  Stucken"とあるので、そのカタカナ表記は〈エドゥアルト・シュトゥッケン〉とするのがより正確でしょう。また奥付には、「明治四十四年一月二日発行 著作者・森林太郎」とあります。
 タルホの言う当該箇所は、p.296に次のように出てきます。

「妻。それはさうとしまして、その飛行機が人生の幸福になるでせうか。
世話娘。それはきつとなりますわ。アンセルムさんがさう仰やいましたつけ。人類が自然に打ち勝つ最後の勝利、精神が物質に打ち勝つ最後の勝利が飛行機ですつて。」

 〈アンセルム〉は、この劇における家庭の主人、〈妻〉は、その夫人、〈世話娘〉は、アンセルムと妻の一人娘を世話する女性。
 上の〈世話娘〉の台詞に対して、〈妻〉は、

「妻。自然に打ち勝つなんと云つたつて、何も自然といふものが、人間がそれを相手にして戦はなくてはならないものではないぢやありませんか。」

と反論し、さらに、

「飛行機といふものは、言つて見れば、(間、)アポカリプシスの獣ですの。啓示の獣ですの。/それが出現する時が世界の末でございますの。混沌の時代でございますの。」

と、黙示録を持ち出して、飛行機を〈啓示の獣〉と見なします。
*
 この戯曲のタイトルは「飛行機」ですが、劇中において飛行機そのものの存在はあまり大きくありません。家庭内の人々の複雑な関係が次第に明らかなっていき、最後のクライマックスに向かって劇が進行していく、というドラマの展開に主眼が置かれているからです。タルホが、子供の頃に読んだけれども内容はよく分からなかった、と言っているのも無理はありません。タルホはただ、本の題名に惹かれて読んだのでしょうから。
 飛行機にしても、主人のアンセルムが製作した模型の飛行機(たぶん実物のための試作品)が登場するだけです。ただ、以前実際に飛行機に乗って事故を起こして、足が不自由になったとしています。
 筆者が興味を持ったのは、ここに登場する模型飛行機に対する描写が稀薄で、ほとんどリアリティが感じられないことです。おそらく原作者自身は写真でしか飛行機を見たことがなかったのではないかと想像されます。鴎外にしても、訳語が〈飛行機〉〈飛行器〉〈向上機〉〈向上器〉などと一定していません。この訳本が発行されたのが明治44(1911)年1月ですから、おそらく原作はそれより数年前に発行されたものでしょう(残念ながら、原著の発行年が分かりません)。
*
 ちなみに、当時の航空状況を調べてみましょう。
 1908年10月 アンリ・ファルマンが動力飛行機による初のクロスカントリー・フライト
   同年12月 ウィルバー・ライトが2時間20分の飛行
 1909年 7月 ルイ・ブレリオがドーバー海峡横断
   同年 8月 フランスのランスで国際飛行大会開催
 そして1910年になると、ヌーベル・ラタム、ルイ・ポーラン、レオン・モラーヌ、ホルヘ・チャベスらが、さまざまな飛行記録を打ち立てていきます。
 日本ではこの年、明治43(1910)年12月19日に徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉による日本初の動力飛行が成功します。

 驚くことに、徳川・日野両大尉の初飛行は、鴎外の訳本が発行されたちょうど2週間前になります。つまり鴎外は、この本を翻訳するに当たって日本で飛行機が飛んだ姿を一度も見ていなかったことになります。
 原作者であるドイツのシュトゥッケンにしても、この戯曲を書いた1910年以前においては、状況は似たようなものだったろうと思います。彼も飛行機に関するニュースは、おそらく新聞記事や写真で知る程度だったでしょう。飛行機の描写にリアリティがないのは、そのせいだろうと思われます。
 毎年さまざまな飛行記録が樹立される傍ら、飛行家の犠牲も増えていきます。このページで以前にも記しましたが、特に1910年は、1年に36名もの犠牲者が出たとタルホが言っています。そんな熱気渦巻く時代のさなかにあって、「飛行機は精神が物質に打ち勝つ最後の勝利です」という高揚感溢れる言葉は、当時の観客にも強い共感を得たに違いありません。
*
 一方、先に挙げたアンセルムの妻は、〈アポカリプシスの獣〉の比喩に続けて、飛行機について次のように述べます。

「まあ飛行機といふものが、誰でも持つてゐるものになつてしまつた世の中を好く想像して御覧なさい。蒸熱い夏の夜に、窓をしめて寝てゐると、息が屏まりさうになつて来るでせう。そこで窓を開けてゐる。そこへ飛行機がひらひらと飛んで来ますのね。声も無く、音も無く梟が飛んでくるやうに。どんな身を慎んでゐる処女でも誘ひ出されてしまひます。力づくで連れて行かれてしまひます。昔話の木彫の鳥に乗せられて行く王女のやうに。自動車で乗り廻つてゐるうちは、国境で調べて見ることも出来る。飛行機で行く日になつては、もう国境といふものがないでせう。どんな暴動でも勝手に起されます。町へも家へも空の上からダイナマイトを投げ付ける。そしてほんとの高跳びをしてサハラの沙漠の真中まで唯一飛びに逃げて行く。国家にも政府にもなんの威力もないのです。禁制といふものはない。何を為るのも自在です。自然に対して人間の犯す罪科の極点は、まあそんなやうなものでせう。人間は翼無しに作られてゐるのです。」

 飛行機を、梟のように音も無く「ひらひらと飛んで来る」というのは、あくまでも誇張した表現でしょうが、それでも実物の飛行機を見たことがなければ、それがどんなにけたたましい大きな音を発する機械であるかは想像できないでしょう(当時、映画はありましたが無声映画でした。タルホは、須磨天神浜の海岸で、アトウォーターの水上飛行機を初めて見たとき、エンジンが馬鹿でかい破裂音を轟かせたのに度肝を抜かれたことがあるので、最初からその音の大きさを知っていました)。
 この中で、もう一つ筆者の注意を引く事柄があります。かつてこのページでサントス=デュモンのことを取り上げたとき、彼がフランス革命記念日に、自ら操縦する飛行船〈プチ・サントス号〉から、ピストルで21発の礼砲を無邪気に撃ったとき、その行為の持っている意味に彼自身はまだ気づいていなかった、という逸話を紹介しました。
 それに対してここでは、作者は、飛行機が将来もたらすであろう災いとして、国境を無意味なものにしてしまう、空からダイナマイトを投げつけるようになる、とアンセルムの妻に言わせています。1910年以前、第一次大戦が始まる何年も前に、作者シュトゥッケンは、すでにそういった事態を危惧していたことになります。
 それから100年以上経って、飛行機を取り巻く状況は大きく変わりました。人類は原爆投下を経験し、今や爆撃機から超音速ミサイルの時代になり、1万発以上の核弾頭が地球上に配備されるようになった現在、もしこの戯曲がいま上演されたとしたら、観客は、アンセルムの言葉より、彼の妻が発した言葉、〈アポカリプシスの獣〉のほうにより深く強い印象を受けるのではないでしょうか。
*

【補注】
 実は、「飛行機」は鴎外が翻訳に当たって改題したタイトルのようです。では、原題は何だったのか? wikiのシュトゥッケンの作品リストを見ると、〈Myrrha(ミルラ)〉しかありません。なぜなら、それはこの劇の中の一人娘の名前だからです。筆者は一生懸命、飛行機のドイツ語“Flugzeug”を探していましたが、見付からないはずです。迂闊にも〈ミルラ〉を見逃していました。
 それにしても、〈ミルラ〉では日本人に劇の内容が分からないからといって、なぜ鴎外は、中心テーマではない飛行機をタイトルとして改題したのでしょうか。少年タルホは、まんまとそれに騙されたわけで、結果的にそれによって、「飛行機は精神が物質に打ち勝つ最後の勝利です」という、終生忘れられない言葉に出合えたわけですが。
 もう一つ大事な点は、wikiによれば、この「ミルラ」が1908年に作られていることです。1908年といえば、上に見たようにブレリオのドーバー海峡横断や、ランスの国際飛行大会もまだ行われていません。飛行機に関する華々しいニュースが登場するのは、まだ1〜2年先のことです。そんな時期すでに、「飛行機は精神が物質に打ち勝つ…」や〈アポカリプシスの獣〉を、劇中の人物に言わせた作者シュトゥッケンの先見は、すばらしいものだったと改めて思わざるを得ません。(2023.11.1)



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■2023.7.4
カーティス・ミュージアムのサイトにびっくり!

 グレン・カーティス・ミュージアムのことは、以前このページで紹介したことがありますが(⇒ハモンズポートに行ってきた!)、久しぶりにミュージアムのサイトを訪れてみると、意外な発見があったので報告します。
 サイトそのものは、以前と比べて大幅に変更されていて、ミュージアム内部の画像や動画が減っていたのが残念です。それに10ドルだった入場料が、13.5ドルに値上がりしていたのも残念!(行ったことはありませんが)
 サイトの、“Education”という項目の中の“Teaching the World to Fly”というページを今日は紹介します。
 ページを開いた途端、見覚えのある写真がヘッドの部分に大きく出てきたのに驚いたのです。それは、本サイトの「TAKEISHI KOHAを知っていますか?」の中で、「飛行学校在学中の武石氏と其学友」というキャプションで紹介した写真──武石浩玻の『飛行機全書』に掲載されていたもので、中央右に浩玻が写っています──と同じものだったからです。
 その“Teaching the World to Fly”のページを繰っていくと、カーティス飛行学校の卒業生たちが何人も出てきます。翻訳で見ていくと、アフリカ系アメリカ人のエモリー・C・マリック、女性のブランシュ・スチュアート・スコット、中国のトム・ガン、女性ルース・ニコルズ、オランダのフレデリック L. デ ランスダイク、インドのモハン・シンといった人たち……そして、次に近藤元久の名前と写真が記事とともに紹介されているのです!
 近藤元久といえば、タルホの作品「墜落」の中で、「近藤はカーティス飛行学校で武石とは同期生である。只彼は一月三十一日から練習を始め四月二十七日に試験に合格した。そのライセンスはNo.120で、武石はNo.122である。近藤はアルバイトとして、カーティス発動機会社に頼まれてテスト中に、風車塔に衝突したもので、飛行機による日本人最初の犠牲である。」とあり、名前だけは知っていましたが、写真を見るのはもちろん初めてです。タルホ自身にしても、ここに出ているように、カーティス機の操縦桿を握った写真は見たことがなかったのではないかと思います。
 サイトに掲載されている彼のプロフィールのデータの細部は、必ずしもタルホの書いたものとは一致していませんが、彼が非常に優れた操縦の才能を持っていたことは確かなようです。
 その記事の中で、唯一残念なことは、1912〜13年当時、カーティス飛行学校で学んでいた日本人の中で、“Kono Takeishi”とあるのは、明らかに武石浩玻のことで、“Koha”を“Kono”と間違えていることです。そのほかには、見覚えのある“Chikuhei  Nakajima”(中島知久平)の名前もあります。
 なお、グレン H. カーティス本人については、同じ“Education”のページの“Who was Glenn Curtiss?”が、彼の生涯を簡便にまとめた記事になっており、非常に興味深い内容です。



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■2023.6.11
"Material Transcendentalism" が行方不明です」をアップしました

 「弥勒」〈第1部〉のヴァリアント(【小山書店】【作家】【大全/タルホスコープ】)のテキスト化の作業が、〈第2部〉からずいぶん経ってようやく完成(結局、都合10年近く掛かったのかな)。そこでしばらく一休み、と思う間もなく、早く次の作業──1センテンスごとに校異を注記する──に取り掛かりたい気持ちを抑えがたく、すぐさまそれに手を付けることに。すると早速あちこち気になって〈引っ掛かる〉。しかし、そこで立ち止まってしまうと作業がなかなか前に進まない。調べ始めると、つい横道に逸れてしまう。それが道草で済めばいいけれど、深みに嵌ってしまうと、結局、行き着くところまで行かなければならないような羽目になってしまう。
 今回、その〈引っ掛かり〉が冒頭付近に出てくる〈未来派画家の「物質的先験論」〉。タルホ読者にとって、それは〈今更〉の事柄でしょうが、関わり始めるとなかなか終わらないテーマだ、ということが図らずも分かった次第。いつものように見通しを立てないで始めたところ、今回も予想もしなかった着地点に降り立ってしまった、という印象。
 しかし、道中の〈道草〉こそ自分にとって意味があったのだ、とまたいつものように自らの気持ちを慰撫してこの作業をひとまず終わることに……。
 ちなみに、その少し前に出てくる〈ジャン・クリストフ〉にも引っ掛かったのですが、それについては次の機会に、今度は簡単な報告で。



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■2023.1.21
タルホに “The Sawmill”を見せたかった

 今回、YouTubeでもう一度ラリーの映画を見直してみたのですが、つまりタルホは1923年以前のラリーの作品は観ていなかったのです。筆者は1921年の“The Sawmill”を、ラリーの天真爛漫さが最も発揮された最高傑作だと思っています。動き、ギャグ、スタント、どれも最高です。しかもボウラーハットに白シャツ、短いサスペンダー型ズボンという、ラリーの典型的なスタイルをここで見ることができます。1921年〜1922年のThe Bakery(1921)、The Show(1922)、Golf(1922)といった作品はどれも、このスタイルで動き回るラリー全盛期の趣があります。ここでは上着は着ておらず、ネクタイも締めていません。大人か子供か分からないような不思議な雰囲気を醸し出しています(“The Show”では園児服のような上着)。タルホにこの時代のラリーを見せたかったと思ったのでした。それにしても、ちょうど100年前の映画を観ていることに深い感慨を覚えます。



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■2023.1.7
ラリー・シーモンの映画について──YouTube上の状況

 長らくチェックしていませんでしたが、ラリー・シーモンの映画を取り巻く状況が大きく変化している様子です。筆者がラリーの映画6巻(22作品)をアメリカから取り寄せたときはビデオテープでしたが、その後それがDVDに変わり、今では何とそのすべてをYouTubeで観ることができるようになっているのです。

 筆者がこのサイトにラリーのことを取り上げるために資料を調べていた当時は、アメリカの専門家(収集家)でもラリーの作品は15本程度しか所有していないというような状況でした。それがクラシック・フィルム専門の販売会社が22本のラリー映画をまとめ、今のYouTubeの時代になって、さらにそれを凌駕する本数がアップされるようになっていたのです。タルホ・ファンにとっては、まさにいい時代になったと言えます。
 思い返せば、1980年代に日本で一度、クラシック喜劇の映画が上映されたことがあって、その中にラリーやハリー・ラングドンが登場したことがあったと記憶しています。ラリー・シーモンの映画が目に触れる機会は、そんな〈一瞬のチャンス〉しかなかったのです。それがビデオになりDVDになって、とうとうネットでいつでも観られるようになった──それを思うと隔世の感があります。
*

 今回、YouTubeのラリー映画を観て驚いたのは、タルホが取り上げている作品で、筆者の観た22本の中になかった作品がいくつもあったことです。それは、
 "The Midnight Cabaret"
 "The Barnyard"
 "Stop, Look And Listen"
 "Spuds"
 (それにラリーが主演ではない"Underworld")
です。
 これでタルホ・リストに挙がっていてYouTubeでも観ることのできない映画は、原題名不明の「無茶苦茶ラリー」と「電光ラリー」の他は、"The Girl in the Limousine"(「豪傑ラリー」)だけとなります。

 そこで、これを機会に本サイトのラリーのページも少しばかり改訂することにしました。
 一つは、「タルホ作品に登場するラリーの映画」のページにおいて、それぞれの作品タイトルにYouTube上の映画をリンクさせたことです。これによって、作品タイトルをクリックすれば、すぐにその映画が観られるようになりました。
 もう一つは、「ラリー・シーモンの22本の作品」のページでも、同じように作品タイトルをクリックすれば、該当の映画を観られるようにしました。それに伴って、以前は作品タイトルごとに〈あらすじ〉を記していましたが、それは別ページに移しました。そうしないと〈ネタバレ〉になってしまうからで、興味のある方は〈あらすじ〉をクリックしてからお読みください。
*

 筆者にとっては、これまで観られなかった"The Midnight Cabaret"、"The Barnyard"、"Spuds"などが観られるようになったことは非常に嬉しいですが、中でも"Stop, Look And Listen"は最近になって日本で発見されたフィルムだということで、タルホ・ファンにとっては幸運としか言いようがありません。

*

 怠惰な筆者がよそ見をしている間に、ラリーを取り巻く環境にもう一つ大きな変化が生じていました。それはラリーのページの「ラリーの映画を観て──VIII. ノート」の中の注3「今後の研究」でかつて紹介したClaudiaSassenというドイツの女性が、“Larry Semon──Daredevil Comedian of the Silent Screen”というラリーの評伝を上梓していたことです。彼女はラリーのバイオグラフィーを書くのが目標だと当時言っていたので、その目的を見事に果たしたわけです。ラリーの本が単著で出版されるのは世界でも最初ではないでしょうか。すばらしいと思います。




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■2022.11.27
「弥勒が弥勒になるまで(II)」をアップしました

 「『弥勒』成立史考」として「弥勒が弥勒になるまで(I)」を発表してから、長い期間が経過していましたが、ようやく「その(II)」を形にすることができました。
 「その(I)」は、作品の成立過程に的を絞って考察しましたが、今回は物語の時空構造から〈弥勒〉を考えてみました。『弥勒』の〈魅力?〉は、あの時空構造にあると思ったからです。
 「もくじ」は次のようになっています。

☆〈黒い宝石〉と〈百科辞典〉
☆「あれからいったいどれくらいの時が流れたか知ら」
☆〈あの預言者〉から〈未来仏の預言〉へ
☆「あれが地球です。」
☆〈生まれ変わった場所〉は〈この地球上〉とは限らない
☆〈黄ばんだ星〉は〈遠い未来の地球〉
☆〈過去〉〈現在〉〈未来〉
☆江美留は何を〈嘘〉だったと言ったのか
☆もしも江美留の〈脳内独り語り〉が無かったとしたら
☆五十六億七千万年を隔てて、第1部と第2部がループ
☆エピグラフ≠ノついて、もう一度考えてみる
☆〈進化過程における予感〉あるいは〈彼岸意識〉
☆[補遺]

 なお、今回の「弥勒が弥勒になるまで(II)」は、「ポン彗星幻想物語」の〈PART 3〉として掲げていた「幻想物語の救済」とも関連するので、そこにもリンクを張っておきました。


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■2022.8.17
「弥勒」─テキストのヴァリアントについて」に「「法句経」と「Tat-tvam-asi」について」を増補しました

 「今さら」ですが、テキストを見直していたら気付いたもので…。


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■2022.8.8
サントス=デュモン再考

 先日、新聞の全面広告の左上にある、一枚のモノクロ写真に目が留まりました。山高帽を被った紳士が、機械の枠組みたいな中に腰掛けています。彼の頭上には大きなボートのオールのようなものがあり、それが飛行機のプロペラであることはすぐに気が付きました。ボウラーハットを被っている飛行家──私の頭にはすぐにサントス=デュモン≠フ名前が思い浮かびました。写真右のキャプションをよく見ると、まさにそのとおり! 写真では飛行機の全体像が明らかではありませんが、そうすると彼が乗っているのは、愛機ドモアゼル≠ノ違いありません。
 ところで、広告の見出しコピーは「サントス ドゥ カルティエ」、進化を続ける意志=Bそう! 言わずもがなの時計の広告だったのです──と言いたいところですが、実は私は時計に限らず、いわゆるブランド物には全く興味がないので、文字盤がローマ数字の四角い腕時計が、飛行家サントス=デュモンに由来するということを、恥ずかしながら知りませんでした。ネットでサントス=デュモン≠検索すると、まず最初に出てくるのはカルティエの時計のほうなのです。
 長々とした広告コピーを読んでみると、当時、飛行船に乗ってエッフェル塔を周回するなどして世間の耳目を集めていたサントス=デュモンは、飛行船を操縦する際、簡単に時刻を確認できる時計を望んだ。というのも、両手で重い操縦桿を支えていた当時のパイロットに、服から懐中時計を引き出す余裕はなかったためだ。彼はその切実な願望を、友人のルイ・カルティエに話した。≠ニいうようないきさつから、腕時計のサントス ドゥ カルティエ≠ェ誕生したらしい。

*

 サントス=デュモンといえば、飛行船もそうですが、箱型凧の飛行機14bisが有名で、それが飛んでいる古い動画があることを以前紹介しました。しかし、タルホを通してこれまで知ることができた彼に関する情報は、せいぜい次のようなものに限られていました。

アルベール・サントスデュモンは小男で、天才的魅力の持主であった。彼は勇敢と愛想の良いことでも聞こえていた。彼の葉巻型飛行船は、フランス陸軍の「リベルテ号」よりも先に、アンリ・ルソーの画題に選ばれるべき筈のものであった。一九〇一年、二十世紀を記念する万国大博覧会が巴里に開かれた時、彼は奇妙な誘導気球を操縦して首尾よくエッフェル塔を旋回して帰着したが、この時に貰った賞金六万フランを、自分の職工らへの分配だけを残して、あとは巴里の貧しい人々に頒けるようにと警視総監に託したのだった。のちに「ドモアゼル」という世界最小の可愛らしい単葉飛行機を作った時にも、彼はその設計図を、ほしいという人に原価で譲り渡している。もともと彼の飛行船は、搭乗者が細長いゴンドラの上を前後に移動して、即ち体重を利用して船体を上向けたり下向けたりするので、(余りにも小型の飛行機の方と共に)軍用に適さなかったのであるが、それ以外に、彼自身がサンパウロの大きな珈琲栽培家の息子だったこともあって、いつだって特許など受けようとしなかった。航空術研究のため莫大な資金はお父さんが出してくれるので、サンクルーにある彼の飛行船工場には多くの職工が傭われていた。=i「ライト兄弟に始まる」)

 今回、この広告がきっかけで、彼のことをもっと知りたいと思い、調べて見ると、『空飛ぶ男 サントス-デュモン』(ナンシー・ウィンターズ著・忠平美幸訳、草思社、2001年)という本があることを知りました。著者は飛行機の専門家ではありませんが、サントス=デュモンの簡便な伝記になっており、写真も豊富なので手に取ってみました。
 写真で見るサントス=デュモンが、同時代の他の飛行家たちとかなり違った印象を与えるのは、その風貌にあるように思います。多くの飛行家たちが鳥打帽姿であるのに対し、サントス=デュモンの頭に載っているのはたいがい山高帽です。それに口髭をたくわえている姿は、どことなくチャップリンを想わせるところがあります。彼が操縦するbis14≠フ奇妙な姿と相俟って、何となくユーモラスな印象を与えるのは、そんな彼自身の風貌のせいがあるかもしれません。
 以下の記述は、『空飛ぶ男 サントス-デュモン』の内容からアレンジしたものです。

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 サントス=デュモンは、痩せた小男だったとはいえ、飛行船や飛行機に乗るときも、ネクタイ姿でパリッとした身なりを崩さないような人物でした。特にスーツの襟元から飛び出た高いカラーと、ズボンの裾を折り曲げて穿くのが彼のトレードマークでした。そうしたファッション・センスと自身の性格の良さもあって、社交界の花形だったようです。
 タルホによるプロフィールにもありますが、1873年生まれのサントス=デュモンは、大金持ちの息子で、彼の飛行船・飛行機づくりは、まさに金持ちの道楽だったわけですが、そこには子供の頃に読んだ本の影響もあったようです。彼はジュール・ヴェルヌの「海底二万里」や「八十日間世界一周」のような小説を貪り読むような少年で、しかもそれがフィクションであることを知らなかったといいます。そういった夢想家のような性格の一方で、父の経営する農場にあるさまざまな機械──果肉採取器、選別機、皮むき機などの扱いに幼い頃から精通していたばかりか、12歳の頃には、農場にある全長九六キロにおよぶ私設鉄道のボールドウィン機関車の運転までしていたということです。
 したがって、後のサントス=デュモンの飛行船・飛行機づくりは、決して金儲けのためではなく、空を飛びたいという純粋な気持ちからだったはずです(もちろん功名心はあったでしょうが)──なぜなら彼にはすでに有り余るほどのお金があったのですから。特許を取らなかったというのも、お金持ちの鷹揚さというより、そもそも金儲けが目的ではなかったからでしょう。
 そんなサントス=デュモンは、パリ市民からも愛されていたようです。彼の飛行船は、後のツェッペリン型飛行船のように巨大で威圧的なものではなく、せいぜい全長30メートル前後の黄色いプチ・サントス≠ナした。
 飛行船の1号機が草深い森に落下したときは、ゴンドラから下にいる少年たちに身振りで合図して誘導させ、安全な場所に着陸しました。
 また、5号機がエドモン・ド・ロートシルド家の庭に墜落したときは、隣家のウー伯爵夫人(ブラジル皇帝ペドロ2世の娘)に届けてもらったシャンパン付き昼食を楽しみながら飛行船の修理を待っていた、といういかにもタルホ好みのエピソードも伝えられています。

*

 そのような愛すべき理想家のサントス=デュモンにとって、嫌な予感のする時代が訪れます。
 彼がフランス革命記念日に、自ら操縦する飛行船プチ・サントス号≠ゥら、ピストルで21発の礼砲を無邪気に撃って、眼下で見守るフランス陸軍の兵士たちを驚かせたとき、彼はまだそのことの持つ重要な意味に気付いていませんでした。さすがにフランスの陸軍大臣は、その礼砲の意味するところを見過ごすことなく、さらなる軍事的可能性に思いを巡らせていたのです。
 『空飛ぶ男 サントス-デュモン』は次のように記します。

強まりつつある軍備拡張主義にたいする彼の感情は、しかし、答えを出せないままだった。
 理想家としての彼は、自分なりの計画に固執した。それはつねに、飛行船で世界の距離を縮めることによって平和に貢献するというものだった。科学者としての彼は、飛行船が戦争で果たしうる多くの用途を想像せずにはいられなかった。新しいことをひとつ発見するたびに、そのような展開が当然のものになるようだった。なぜなら地中海を滑空して、おそらくほかならぬ「乱気流」──高度を変化させる予測不能な気流──に関心があったのだろうが、海図に風向きを書きこみ、誘導策の実験をしていたとき、彼は潜水艦を追跡することがどれほど簡単かにも気づいていたからである。
 しかし、彼の発明が軍事的に応用されるのは、まだずっと先のように思われた。ご丁寧なことに、彼は政府にたいし、必要とあらば自分の飛行船隊を(北米と南米に向けては絶対に使わないこと、という無邪気な条件つきで)寄付しようと申し出て、軍事利用の問題を自分の胸の奥にしまった。

 時代は、彼の思い描く未来とは違う方向に進んで行きつつありました。ひたむきで果敢なアマチュア、いわば空のスポーツマンたちは、ほどなく消え去る運命にあった≠フです。

*

 ところが1910年、36歳のとき、サントス=デュモンは多発性硬化症という病に侵されます。そのため、彼は以前のような世間との関わりを避けるようになりました。彼は二度と空を飛ぶことはなく、昼間は気象学に、夜は空の星の観察に没頭するようになります。
 病のため情緒不安定になることも多く、ツェッペリン型飛行船や飛行機からの爆弾投下の責任は自分にあると思い、自らを責めるようになります。また国際連盟に対して、今後、航空戦を禁止するよう嘆願して、無視されたりもします。そして飛行機が墜落するたびに、すべて自分の責任だと思い込むようになっていました。
 故国ブラジルで内戦が始まると、彼は平和を求めて嘆願しますが、またしても聞き入れてもらえませんでした。1932年7月23日、サントス=デュモン59歳の誕生日の3日後、開戦から2週間後のその日、彼は、広々した美しい海岸の上を低空飛行している飛行機を見守り、続いて爆弾が投下される音を聞きました。
 憂鬱症と病気に打ちひしがれた彼は、自分が考案した飛行機が歪められて、こんな恐ろしい結果を招いたことに絶望しました。彼はネクタイを手にしてバスルームに行き、動かない手でそれを首に巻き付け、フックに引っ掛けたのでした。

*

 以上、『空飛ぶ男 サントス-デュモン』の内容を引用しながら、彼の生涯を簡単に追ってみました。タルホによるプロフィールからは窺い知れなかった事実を知ることができ、飛行家サントス=デュモンの人生がより陰影に富んだものとなりました。
 タルホは述べています。

サントス・デュモン氏の飛行機は、その初め「鼠取り器械だ」と悪口を云われた。この時分こそ飛行機の上に、人類解放の夢が托されていたのだ=i「オブジェ・モビール」)

 しかしながら、以前にも述べたことがあるように、この夢の時代≠ヘあっという間に終わり、サントス=デュモンの苦悩の時代が始まったのでした。

ところが、「絶え間のない飛行家の死ほどに美しいものがあろうか」と未来派の詩人をしていわしめた事情を背景にした設計上の行詰りは、第一次大戦勃発によって新たな地平線を迎えることになった。いわば、罌粟の花畠に赤い月が昇るシャンパニューの野が、編隊を組んだダークエンジェルの影におおわれるようになってから、飛行機に関する一切は急に色褪せてしまった。それはもう、存在の底に可能性の刃先で透し彫りにされた輪郭ではなくなった。「常にそれだけのもの」「この先どうなるものではないもの」でなくなり、「現にあるもの」「行われているもの」「継続的に発展するもの」に取って換られた。米国陸軍によって、戸棚のようなライト複葉や三輪付のカーチス式が廃棄された一九一四年六月以降、飛行機は、われわれがそう思っていたのとは全く別なものになってしまった!=i「ライト兄弟に始まる」)

 ここでタルホが言う「一九一四年六月」とは、第一次大戦勃発の引き金となった「サラエボ事件」のことを指しているのでしょうが、サントス=デュモンが彼の14bis≠ヨーロッパで最初に飛ばした1906年から、わずか8年しか経っていません。すなわち「人類解放の夢が托されていた」期間は、たったの8年しかなかったことになります。以前このページで紹介した“Flight The Pioneer Era 1900 to 1914”という古い動画は、まさにこのつかの間の夢の時代≠フ映像だったわけです。


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■2022.4.3
私のタルホ的年代記──I. 妄想篇」をアップしました

 前回アップした「春風にエアロの動く二三間」のなかで、友人(客)からタルホの語彙索引≠フことについて水を向けられましたが、以来、どうしようかとずっと考えていました。それだけ取り出して書いても、パソコンの無い時代の苦労話にしかならないような気がするし、どうしたものか思案していたところ、そうだ! 索引づくりに至るまでの、タルホを台にした我が妄想≠フ歴史と関連付けたら、少しは面白い話になるのではないかと思いました。
 タルホの本との出会い、何度も妄想≠フ手紙を書き送ったこと、そしてついにタルホに会いに行ったこと、その後も妄想≠ヘ已むことなく、さらに輪を掛けるようになったこと──そんなあれこれを昔のノートから拾い出しまとめてみたらどうか、と考えたのです。
 その作業は懐かしいだけでなく、再考を促すようなテーマもあって、改めて自分に向き合ういい機会となりました。また新たに気が付いたことも少なからずあり、思いがけず有意義な作業となりました。


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■2022.2.1
春風にエアロの動く二三間」をアップしました

 タルホは中学生の頃、飛行場に出入りして関係者と顔なじみになり、機体を押す手伝いなどをして得意になっていました。実物の飛行機を間近に見たり、手で触ったりしながら、飛行機の感じ≠肌身で感じ取ったものと思われます。
 その頃、タルホは偶然ある光景を目にします。それは一瞬の出来事でしたが、タルホの心を強く捉えました。
 その出来事とはいったい何だったのか。今回はその問題について考えてみました。以前取り上げた、軍艦浅間≠ニロバチェフスキー空間の問題同様、長い間、筆者の気になっていたテーマです。いずれも、タルホならではの感性がもたらした存在把握の最も魅力的な事例の一つだろうと思います。
 飛行機は、タルホを通して語られて初めて、その存在学的意味が開示されたとさえ言えます。タルホが飛行機について語るとき、そこには常に懐かしさ≠ェ共にあります。それが私たち読者にとっても、時代を超えて共感を覚える理由ではないでしょうか。


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■2021.12.17
「弥勒」─テキストのヴァリアントについて」をアップしました

 「今さらヴァリアントかよ」と思う方もいらっしゃるでしょう。ごもっともですが、長い間やっていた作業が一段落したので、中休みの気分転換にと思って、気になっていたことを調べ始めたのです。そうしたら、なかなか面白いことを発見したので、その報告がてら…。ただ、こういうことを面白いと感じるのは我が性分なので、興味の無い方は素通りしてください。
 「「弥勒」成立史考」と題して、これまでに「弥勒が弥勒になるまで」と「貧窮の記」をアップしていますが、今回の報告はそれらとも関連することなので、その3番目に加えることにしました。
 テキストのヴァリアントを書誌的な側面から整理することは、もちろん大事で意義のあることですが、実際に個々の改訂箇所にフォーカスして、その跡を丹念に追っていくと、タルホがどのように文章に拘ってきたかが手に取るように分かり、そのときの意識の動きまで伝わってくるような気がします。
 幸い(?)改訂の多いことで知られる作家ですから、その意味では、タルホが作家としてどのように文章を彫琢していったかを知ることができるテキストが豊富にあるわけで、そうした方面から研究してみるのも面白いのではないか、と思った次第です。


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■2021.8.17
気配の物理学──ポッカリ空いた大きな穴についての考察──」をアップしました

 タルホが小学校2年生のときに経験した、ある出来事にまつわる奇妙な感覚についての考察です。
 昔から興味を引いた話の一つだったのですが、それについて考えてみようと取り掛かったら、思いがけず6万字に及ぶ長尺≠ノなってしまいました。
 対象となったテキストは主に「宇宙論入門」です。関連部分を一つずつ読解していく作業は、筆者にとっては、なかなかエキサイティングな体験でした。
 先の「タルホ円錐宇宙創造説」から宇宙物≠ェ続きますが、偶々です。苦手な方も入り口だけは覗いていってください。


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■2021.1.26
出来事

 実は、このサイトは昨年の11月まで使っていたアプリとは違うアプリで作り直してアップロードしています。
 その理由は、昨年11月28日に自分のPCがダウンてしまったからです。
 中のデータはどうなるのかが大問題でしたが、幸運にも、しかるべきところでデータを救出してもらうことに成功しました。
 そこで新しいPCを導入して、このサイトもいざ再起を!≠ニ意気込んだのですが、以前のPCでは非常に古いアプリで作成していたので、新しいPCには対応しないことが判明。
 ということで、これを機会に新しいアプリに切り替えることにしたのですが、前に使っていたアプリと同じものをまた使うのも面白くないと考え、思い切って別のアプリを導入することにしました。
 使い勝手が違うので、慣れるまでしばらく時間がかかりましたが、結果的には、新しいアプリで以前のサイトのデータをすべて再現することができました。ご覧のように、たぶん作り直したことにお気づきにならないと思います。
 一応、全体的にざっとチェックはしたのですが、あるいはリンク切れになっている箇所などがあるかもしれません。そうした点は追々修正していくつもりです。
 ともあれ、2か月ぶりに無事再開することができたので安堵しています。


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■2020.11.8
タルホ円錐宇宙創造説」をアップしました

 といっても、実はすでにひと月ぐらい前にアップしていたのですが、なかなかこのページで触れることができませんでした。
 タルホのこの円錐宇宙創造説≠ニいうのは、「彗星倶楽部」の初稿である「彗星問答」にしか登場しません。なぜなら、この箇所が改訂時にそっくり削除されてしまったからです。削除されたこの部分には、そもそも円錐宇宙がどのようにしてできたのか、それはどのような構造・性質をもっているのか、といったような重要≠ネことが語られています。
 私が「彗星問答/彗星倶楽部」に拘るのは、この作品にはタルホ世界のエッセンスのようなものが含まれていると思うからです。中でも改訂で削除された円錐宇宙創造説≠ヘ、その創造過程や構造の奇想さが無類のものであるということもありますが、円錐宇宙の頂点(ユートピア)が、「ひっきょうするに無である」という博士の言説の根拠が、実は円錐宇宙の成り立ちを前提にして初めて導き出されるものであり、その重要な部分がここに述べられていると思うからです。改訂作「彗星倶楽部」からは知り得ない円錐宇宙創造説≠、紹介を兼ねてあえてここで取り上げる所以です。
 このサイトでポン彗星幻想物語≠アップしたときから、次はPART 2として、この円錐宇宙創造説≠ノついて考えてみたいと思っていました。以来、ずいぶん時間が経ってしまいましたが、ようやくここに不十分ながらその思いを形にすることができました。


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■2020.8.17
登場人物を確認する

 前々回に記した “Flight The Pioneer Era 1900 to 1914” の映像を、別のYouTubeの映像と比較することで確認できたことをレポートします。
 別の映像とは “The Pioneers Of Flight (The Pioneers) 1900 to 1945” です。
 まず、“1900 to 1945“ のライト式飛行機の映像の途中で、10:45頃から出てくる人物は、“1900 to 1914”でオーヴィル・ライトとウィルバー・ライトではないかと推定した人物と同じです。したがって、2人はライト兄弟に間違いありません(弟のオーヴィルはやはり老けて見えますが)。
 次に、13:20過ぎに出てくる黒ハットの人物を、ナレーターは「金持ちのブラジル人、サントス=デュモン」と言っているので、やはり彼もサントス=デュモンで間違いありません。
 また15:05頃に出てくる、操縦席から後ろを振り返る人物のことを、「アメリカ人のグレン・カーティス」と言っているので、これも正解です。“ジューン・バグ” も出てきます。
 18:10には、1910年1月にロサンゼルスで開かれた “AVIATION MEET” のポスターも出てきます。
 その次に、ホルヘ・チャベスのアルプス越え飛行の映像が出てきます。ホルヘ・チャベスの名前は、タルホでは「ジョルジュ・シャーヴェ」として出てきます。シャーヴェも1910年に命を落とした36人の飛行家のうちの一人です。「ライト兄弟に始まる」には、「重傷を負うて病舎に収容され、手厚い看護を受けたが、二十七日の午後に息をひき取った。アルプスの峯に咲く花が村の乙女らによって手向けられ、人々の涙をいっそうにそそった。ペルーの青年ジョルジュ・シャーヴェは二十三歳、パイロットとしては第一九番目の犠牲である」とあります。
 アルプス上空を飛ぶシャーヴェの乗ったブレリオ機の映像は、タバコの「エアーシップ」のデザインを想わせます。明治時代に発売された最初の丸缶の「エアーシップ」には、アルプスのような山々を背景にして飛行船・飛行機が描かれています。この丸缶が発売されたのは1910(明治43)年5月ですから、もちろんシャーヴェのアルプス越え(1910年9月)とは無関係に描かれた図柄です。この絵の作者が、後にシャーヴェの死を知って、その偶然の一致に驚いたかどうかは分かりません。それから10年以上経って、1921年(大正10)年に発売された紙箱10本入りの「エアーシップ」には、同じように飛行機や飛行船が入り乱れて飛んでいますが、曖昧だった機影はいずれも丸缶より明快に描かれています。もしかして、この改訂版の図柄の作者は、シャーヴェ最期のアルプス飛行が念頭にあったのかもしれません。単葉機の姿がシャーヴェが乗ったブレリオ機によく似ているからです。
 そして、次に出てくるのが、帽子を被って操縦席に座る例の女性です。ナレーターは「フランス人女性、レイモンド・デ・ラロッシュ、史上最初にパイロット・ライセンスをとった女性」と言っていますので、やはりこの女性がデ・ラロッシュその人だったわけです。


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■2020.8.3
“Come Josephine In My Flying Machine”

 YouTubeの映像 “Flight The Pioneer Era 1900 to 1914” のBGMになっていた歌 “Come Josephine InMy Flying Machine” を、空で歌えるようになりました。といって自慢にはなりませんが…。
 この歌は、エイダ・ジョーンズビリー・マーレイという歌手がデュエットで歌っています。作曲はフレッド・フィッシャー、作詞はアルフレッド・ブライアンで、この曲は、男女の掛け合いで歌われる、いわゆるデュエット・ソングです。
 歌を覚えるなら、こちらのサイトがお勧め。

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 この曲は、1910年にできたようですが、すると前回取り上げたランスの飛行大会の翌年ということになります。飛行機の国際大会が開催されて、人間が自由に空を飛ぶ様子を世界中の人々が知るところとなり、その興奮の中から飛行機の歌まで出来てしまった、ということでしょう。

 歌詞の内容は、男性がミス・ジョセフィンに、ボクと一緒に飛行機に乗って大空高く飛び立とう! と誘う無邪気なものです。 “up” という言葉が繰り返し出てきますが、単に飛行機の形容というだけでなく、時代の高揚感のようなものも表わしているように思います。また、“airplane” や “aeroplane” でなく、“flying machine” という言葉が、プリミティブな時代を物語っていて、好ましい感じがします。楽譜の表紙に描かれた飛行機は、前方の昇降舵がライト式みたいな形ですが、車輪がありますし、プロペラは1基しかなく、しかも奇妙な位置に付いています。それにしてもジョセフィンの長いスカーフは、プロペラに巻き込まれそうで危ない気がします。
 歌詞の中に、“the moon is on fire”、“don't hit the moon” と、moonという言葉が2度出てくるのが興味を引きます。これはひょっとして、ジョルジュ・メリエスの映画「月世界旅行」(1902年)の影響があるのではないか、月の存在が身近になった時代の気分を表わしているのではないか、という気もします。

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 「ライト兄弟に始まる」には、この歌が作られた年、「一九一〇年の一月一日から二〇日にわたって、アメリカ最初の国際飛行大会が、ロサンゼルス郊外ドミンゲーフィールド(通称ドミングス)で開かれた」とあります。そしてこの頃から、「冒険好きな、投機的な人々が、自ら飛行機を購入するか、あるいは我手によってそれを製作して、博覧会やお祭の興行によって生計を立てようとする風潮が起っていた。従って賞金目標の職業的飛行家の数も次第に増しつつあった」のでした。
 飛行機の性能が高まるにつれ、それを競うようにして技術的に難度の高い、冒険的な飛行が試みられるようになったのです。そうした飛行ぶりを見て、「男も女も、子供も、みんなが、いま直ぐに、そこにおいて、青空へ飛び上がりたいと希った。──大正前半期に、阪神沿線鳴尾競馬場を中心にして活躍した米国仕込みの日本民間飛行家らは、総てこのL・A・エアミートを、飛行志願の動機としているといっても過言でない」というような熱気が渦巻いていたのでした。もちろん、“Josephine” の歌も、そういった時代の飛行機熱を背景としていたわけです。
 ところが、この1910年は、飛行家の犠牲者が数多く出た年でもありました。「ライト兄弟…」には、「──そのモアサンも、ラルフ・ジョンストンも、アーチ・ホクシーも、同じ年内に墜死を遂げた。この一九一〇年には、まず一月四日のデラグランジュの死を筆頭に、三十六名の著名な飛行家の命が失われている」とあります。
 何と1年に36人も亡くなっているのです。しかしながら、このように犠牲者が相次いでいるにもかかわらず、「相つぐ航空惨事はしかし、年初のL・A大会を導火線に航空技術へ関心を懐くようになった米国青年、並びに在米日本青年らばかりでなく、実に全世界の若うどの血を湧き立たせ、空中飛行という美しき理念への情念をいよいよ煽ることになったのである」とタルホが言うように、飛行機の性能と飛行技術の進歩は、一刻も留まることはなかったのでした。
 その一方で、飛行機が軍事目的に使われはじめ、機関銃を備えた戦闘機や、爆弾を積んだ爆撃機が現われるようになるのは、そのすぐ後になります。そして1914年に第一次大戦が始まると、もう “Josephine” どころではなく、今度は “Tipperary” や “Over There” など、軍歌の時代になっていきます。
 タルホは、その間の事情を次のように書き記しています。
 「ところが、「絶え間のない飛行家の死ほどに美しいものがあろうか」と未来派の詩人をしていわしめた事情を背景にした設計上の行詰りは、第一次大戦勃発によって新たな地平線を迎えることになった。いわば、罌粟の花畠に赤い月が昇るシャンパニューの野が、編隊を組んだダークエンジェルの影におおわれるようになってから、飛行機に関する一切は急に色褪せてしまった。それはもう、存在の底に可能性の刃先で透し彫りにされた輪郭ではなくなった。「常にそれだけのもの」「この先どうなるものではないもの」でなくなり、「現にあるもの」「行われているもの」「継続的に発展するもの」に取って換られた。米国陸軍によって、戸棚のようなライト複葉や三輪付のカーチス式が廃棄された一九一四年六月以降、飛行機は、われわれがそう思っていたのとは全く別なものになってしまった!」(「ライト兄弟に始まる」)


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■2020.7.20
Flight The Pioneer Era 1900 to 1914

 またしても飛行機の話題で恐縮ですが、YouTubeで “Flight The Pioneer Era 1900 to 1914 という映像を見付けたのでご紹介します。
 全体は4つのセクションに分かれていますが、タイトルがあるだけで解説は一切ありません。

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 最初は “Flying the Air-mail to Mineola” です。ミネオラはニューヨーク州ロングアイランド島にある町の名前なので、場所は合衆国でしょう。タイトルからすると、カーティス機に乗った操縦士の横に置いたのは「郵便袋」だと思います。格納庫のような建物に “OVINGTON” という文字が見えますが、おそらく彼は、Earle Ovingtonという飛行家でしょう。

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 2番目のタイトルは “Daring Aviators and their Machines” です。このセクションに出てくる映像が特に興味深い。各種飛行機がこれだけ参集しているのは、ひょっとしてタルホが「ライト兄弟に始まる」で述べているところの、1909年8月23日からフランスのランスで開催された「第一回国際航空大会」の模様ではないか、と私は想像しています。以下、それを前提に話を進めますが、もちろん、それ以外の映像も編入されている可能性は否定できません。
 最初に、帽子を被った女性が出てきますが、誰でしょうか。彼女は操縦席に座ってハンドルを握っていますが、飛行機を飛ばしているわけではありません。彼女の背後に見える尾翼が「箱型」になっているようなので、乗っている飛行機はボァザン/ファルマンではないかと思われます。もしそうなら、ひょっとして「ライト兄弟…」に、「国際飛行免状を受けた最初の女性は、フランスのレイモン・ド・ラ・ロッシュ男爵夫人である。彼女は、一九〇九年十月二十二日にボァザン式複葉で初飛行をやったが、翌年三月にライセンスを獲った」と出てくる “ラロッシュ男爵夫人” かもしれない、と想像が膨らみます。だとすると、映像の1909年8月の時点では、まだ実際に飛行をしたことはなく、ライセンスも持っていないことになるからです。この写真と似ていると思いませんか?
 次の革ヘルメットの飛行士は誰か分かりません。
 その次に出てくる禿げ頭の年配の男性は、ライト兄弟の弟オーヴィル・ライトではないでしょうか(ただし、1909年当時の映像だとすると、38歳ということになり、それにしてはちょっと老けているなと思いますが)。そして、その次の映像のハンチング帽子を被った3人の男性のうち、左側にいる人物が兄のウィルバーではないでしょうか。
 次に松葉杖姿のルイ・ブレリオが出てきます。彼はランスのひと月前の7月25日にドーバー海峡横断に成功しています。プロペラを折って軟着陸はしていますが、負傷はしていませんので、この松葉杖は何が理由でしょうか。それにもかかわらず次のシーンでは、彼は自らブレリオ機の操縦席に座っています。
 続いて、眼鏡をかけた操縦者が乗っているのはボァザン機。
 その次に一瞬出てくる黒ハットをかぶった人物は、サントス=デュモンではないでしょうか。
 次にカーティス機の操縦席にハンチング帽を被って腰かけ、後ろを覗き込むような仕草をしているのは、コメント欄にもあるようにグレン・カーティスその人でしょう。
 その次に突然画面が切り替わって、後ろから離陸の様子を映している小さな単葉飛行機は、サントス=デュモン・ドモアゼルではないかと思います。
 次に出てくる飛行機が、かの有名なサントス=デュモンbis14です。箱凧のお化けです。映像は、その飛び具合からすると1906年の最初の飛行の模様かもしれません。写真だと一体どっちに飛んで行くのか分かりませんが、映像で見ると派手に飛んで行って?いますね(そう、そっちに飛んで行くのです!)。それにしても、何と壊れやすそうな飛行機だこと! ちなみに、ミッシェル・オスロ監督のアニメ映画「ディリリとパリの時間旅行」に、サントス=デュモン氏が登場します。もっともこちらは飛行機ではなく、こぢんまりした飛行船に乗って。
 最後に登場するのは、カーティスの “ジューン・バグ” どころではなく、上の翼だけが極端に湾曲している複葉機です。何という飛行機か知りませんでしたが、この飛行機のようです。

*

 次のセクション “Louis Bleriot Flys the English Channel” の最初に出てくる場面は、ドーバー海峡横断飛行の出発の様子でしょうか。その次の着陸映像を見ると、何か緊急事態が発生したのか、ブレリオは飛行機から飛び降りて、自分が「人間ブレーキ」となって飛行機を停止させています。すごい! 遠景は海になっていて、海岸近くであることは間違いありません。海上にはボートが数隻待機しているようにも見えます。ただし、この着陸の映像は、他のドーバー着陸時の写真と異なっているのです。たとえば他のサイトでは、
 https://www.youtube.com/watch?v=JLUG_ZR9a0U
 https://www.youtube.com/watch?v=ThIC41uEhSg
 ドーバー着陸のときは、斜面にやむなく軟着陸して、機体も損傷しているのですが、この映像では飛行機の停止こそ非常事態のようですが、機体は損傷していないようですし、何より他の写真にあるように着陸地点が傾斜地ではありません。この着陸映像は、タイトルと違って別のものかもしれません。

*

 最後のセクションは “A Thrilling Day at the Air Meet” です。
 最初に出てくる飛行機は、操縦席の横腹にハンドルが付いています。ということは、アントワネット単葉機でしょう。
 すると、操縦者はヌーベル(ユベール)・ラタムということになります。ラタムのアントワネット機は、ランスの大会で「高度賞」を獲得しています。ちなみにランスでは、航続距離部門はファルマン、速度部門ではカーティスが優勝しています。
 「彼の前にはベネット優勝杯がシャンデリアを照り返していたものの、その銀彫りの山顛に立った像は、精巧な彫物のライト複葉の方へ手を差し伸べているのだった」とタルホが語っている、カーティスが速度部門で獲得したのが、この「ベネットカップ」です。
 次からは、カーティス、ボァザンなどいろんな飛行機が映し出されますが、市松模様になったポールの周りを、優雅に旋回しているのはライト式のようです。タルホは「カーチス式の写真と引きくらべて、“ライト複葉の優美”を確めて頂きたい」と言っていますが、実際の飛行ぶりも優美そのものという感じです。これは、1か月前の1909年7月27日撮影という別の映像です。
 ライト式はカタパルトから離陸していて車輪は備えていません。それから1か月後のランスの映像でも、やはり車輪はありません(ライト式は、1911年の “モデルB” という型から車輪を備えるようになりました)。
 次に登場する、ハンチング帽を逆さに被り、眼鏡を額にかけてタバコを吸う、かっこいい髭の男性は誰でしょうか。この精悍な面構えの人物は、ウジェーヌ・ルフェーブルに間違いないでしょう。
 https://en.wikipedia.org/wiki/File:Aviatiker_Eug%C3%A8ne_Lefebvre_c._1909.jpg
 https://www.air-journal.fr/2010-09-07-le-7-septembre-1909-dans-le-ciel-eugene-lefebvre-1er-pilote-tue-510824.html
 「ライト兄弟…」にも出てくるように、彼はランスの大会にはライト組の一人として「ベネットカップ」に出場したものの、カーティス、ブレリオらの後塵を拝しています。彼はランスからすぐ後の9月7日、ライト式飛行機のテスト飛行中に墜落死し、飛行士として航空界最初の犠牲者となっています。上の “Air-Journal” の写真では、彼の背後にライト式特有の長い駆動チェーンが見られます。写真の彼のいでたちは映像と同じなので、映像は彼の最期の日のものかもしれません。
 それを知った上で、次の墜落機の映像を見ると、あたかもルフェーブルが墜落したように思ってしまいます。しかしながら、墜落したのは複葉機みたいですが、車輪が見えるのでライト式ではないようです。だとすれば、ルフェーブルの墜落映像ではなさそうです。
 タルホによれば、ランスの大会は「参加飛行機は、予備機も合わして三十八台。この中で、テスト中に六機が破壊して、負傷者が出た。それら事故は気流の特に悪い一隅で起ったのでその場所は“飛行機の墓場”と名が付けられた」とあります。

*

 以上、わずか数分の映像ですが、第一次世界大戦(1914〜)前、「この時分こそ飛行機の上に、人類解放の夢が托されていたのだ」とタルホが言う、20世紀初頭における飛行機の気分を味わうには、もってこいの映像だと思います。
 この映像を何度も見直しているうちに、BGMの歌が耳から離れなくなってしまいました。“Come JosephineIn My Flying Machine” という曲だそうですが、楽譜と歌詞もYouTubeに上がっていますから、興味のある人はどうぞ。
 https://www.youtube.com/watch?v=yxT0lDE2wjE

*

【付録】
 https://www.youtube.com/watch?v=o0sM5hMeqlo
 グラフ・ツェッペリンの雄姿です。その巨大さを確認できます。


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■2020.2.15
最後にもう一つ

 お茶を濁すといえば、かつて雑誌に載せたものが、もう一つ残っていました。雑誌『ユリイカ』に発表した〈「見出された作品」解題〉というものです。これはタルホのいわゆる〈未収録作品〉を雑誌に掲載した際、それに付けた解題です。これを、このウェブサイトのどこに載せたらいいか悩みましたが、〈前置き〉を新しく付けて、やはり「タルホと私」のページに載せることにしました。私がこれまでやってきた、タルホに関する作業と大いに関係することだからです。解題そのものは断片的なものですから、このウェブサイトの中では、特に意味のあるものではありません。


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■2020.2.4
「タルホと私」について

 更新がなかなか思うに任せないので、どうしようかと考えていたら、昔、雑誌等に発表したものがまだ残っていたので、とりあえず、それに「タルホと私」というタイトルを付けて、お茶を濁すことにしました。「スプロケットの回転」は『別冊幻想文学』(幻想文学会出版局、1987年12月)、「盥」は『足穂拾遺物語』(青土社、2008年3月)に発表したものです。ただし、前者は〈私のタルホ体験〉というテーマの下で書いたものですが、後者のほうは作品解題の一つとして書いたものですから、アプローチの仕方が全然異なります。
 「スプロケット」はもちろん、「山ン本五郎左衛門…」などの文末に登場する、タルホおなじみの主客問答のスタイルを真似たものです。当時、それを書いた後たまたま、仏教学者の津田真一氏がある文章の中で、まさに映写機的発想によって、弥勒出現までの五十六億七千万年を一瞬の一コマとする、「華厳経」毘盧舎那仏の大宇宙について解説されているのを知って、シンクロナイズにびっくりしたのですが、自分の映写機妄想の中に突如タルホの弥勒が出現したように錯覚して、興奮した記憶があります。
 残像現象といえば、その後、私の関心はジョルジュ・スーラたち点描派の絵画にリンクして行きましたし、さらにはオフセット・カラー印刷の網点や、テレビ・ブラウン管の三原色原理などにもつながって行ったのでした。
 一方の「盥」に関しては、一期一会の〈タルホ会見〉については、まだまとめたことがありませんし、返信ハガキの後半に出てくる「ハイゼンベルク変奏曲」のことも懸案になっています。いつか着手したいと思っているのですが、それがいつになるのかまだ分かりません。


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■2019.3.10
映画(活動写真)館のこと

 最近、『映画館と観客の文化史』(加藤幹郎、中公新書)という本を読んだのですが、興味深いことが書かれていたのでご紹介します。

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【その1】
 アメリカでは、1905年以降、「ニッケルオディオン」と呼ばれる、ニッケル硬貨1枚(5セント)で映画が観られる常設映画館が次々にできるようになり、各地で映画ブームが起こったということです。それまで映画は、19世紀からあったヴォードヴィル劇場のさまざまな演し物の合間などに上映されていたのでした。それがいつも映画だけが上映される、しかもヴォードヴィル劇場の料金(25セント)よりうんと安く観られる専用映画館ができたわけです。リュミエール兄弟の最初の映画上映(1895年)から、まだ10年しか経っていません。
 ところが、このニッケルオディオンも、1910年代の後半から1920年代になると、より大資本の「ピクチュア・パレス」と呼ばれる映画館に取って代わられるようになります。ニッケルオディオンが100〜300人程度の収容人員だったのに対し、ピクチュア・パレスは実に1000〜3000人収容という、10倍規模の巨大映画館でした。まさにパレス(宮殿)のような壮麗で贅を尽くした映画館が全米に建設されるようになったのでした。

 興味があるのは、ラリー・シーモンは1916年からヴァイタグラフ社で映画を撮り始めていますが、1919年にヴァイタグラフ社と、向こう3年間で360万ドルという、チャップリン並みの出演契約を交しています。これは映画館のピクチュア・パレス時代とぴったり重なります。映画会社が莫大な報酬を俳優(=監督)に支払うようになったのは、それだけ興行収入の規模が大きくなったわけです。チャップリン、ロイド、キートン、そしてラリー・シーモンらの喜劇俳優が一躍有名になっていったのも、映画を観る観客の数が爆発的に増えていったからに他なりません。ニッケルオディオン時代にすでに、映画館は毎週4900万人もの観客を動員していたといいます。当時のアメリカ合衆国の人口は1億人ぐらいのようですから、驚きです。
 幼い頃から、ヴォードヴィル劇場の舞台に立っていたチャップリンやラリーが、後にスクリーン上で活躍するようになったのは、まさにこうしたアメリカ映画産業の規模拡大と軌を一にしていた、ということが改めて浮き彫りになった気がします。
 (→ 本サイトの「人形人間ラリー・シーモン劇場」)

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【その2】
 前回のレポートで西村天囚の薩摩琵琶歌のことを取り上げましたが、武石浩玻のフィルムになぜ琵琶歌が? という疑問が生じるのではないでしょうか。
 無声映画時代、映画館ではいわゆる「弁士」が活躍していたわけですが、上掲書によると、「日本におけるこの弁士の隆盛は従来、歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の義太夫語りの芸能伝統に帰して説明されてきた」とあります。歌舞伎や義太夫があるのなら、琵琶歌があっても不思議ではない? そもそも弁士の語りは一本調子でなく、独特の抑揚をもっていたようですから、そこには義太夫だけでなく、あるいは講談や浪曲などの要素も入っていたかもしれません。いずれにしても、弁士の語りには、日本のさまざまな古典芸能の伝統が色濃く反映されていたでしょう。弁士の語りのもつ「音楽性」ゆえに、かえって伴奏音楽との棲み分けに軋轢を生じた、というようなことが上掲書にあります。

 武石浩玻のフィルムが、事故のあった年に上映されたとすると、それは大正2年(1913年)のことになります。
 『白鳩の記』には、「「……大正二年夏のはじめの比かとよ、錦を飾るふるさとの空澄み渡る五月四日」──というところにくると、パッと観客席の電灯が消え、入れ代って始まった西洋楽器による勇壮なメロディー、…」とあるので、琵琶歌は洋楽器と併用されていたようです。なかなか味な演出だと思います。タルホはこの年、まだ12歳の子供でしたが、映画館で違和感なくこの琵琶歌の演奏に耳を傾けていたようです。特に珍しいものではなかったのでしょうか。

 本サイトの「タルホが口ずさんだ音楽」でも引用した大阪音楽大学の塩津洋子先生は次のように述べています。

「当時は無声映画のため、内容を説明する弁士と効果音楽が不可欠であった。映画館での演奏は明治末期の民間音楽隊から始まり、荒削りな吹奏楽よりピアノや弦楽器の入った小アンサンブルへ、そして管弦楽へと変遷する。映画と管弦楽の組合せが定着するのは、大正8(1919)〜9(1920)年頃である」

 つまり映画館での演奏には、中には琵琶歌のような邦楽系もあったのでしょうが(三味線だってあったかもしれません)、大正期にはブラスバンドなど洋楽器による演奏が主流を占めていた、しかしそのブラスバンドも、より繊細なニュアンスを表現できるオーケストラ(もちろん極めて小編成のものでしょうが)にその座を譲っていった、ということになるのでしょう。
 ちょうどその頃(大正8年)、関西学院を卒業したばかりのタルホは、映画「真鍮の砲弾」を観て、そのBGMとしてオーケストラによって演奏された曲“Two-step Zaragoza”を聴いて、ニルヴァーナを感じたのでした。
 アメリカで映画館の形態が劇的に変化していた頃、日本の映画館における伴奏音楽のスタイルも大きく変わっていったようです。その意味で、映画館での武石浩玻の琵琶歌演奏というのは、歴史的に見れば、あるいは最後のパフォーマンスだったのかもしれません。


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■2019.1.3
西村天囚の琵琶歌

 昨年暮れの朝日新聞に、「西村天囚」という名前とその人物の肖像が、大きく見出しに取り上げられているのが目に留まりました。タルホ読者ならきっと、その名前に聞き覚えがあるはずです。──そう、かの武石浩玻と関係のある人物です。

 タルホの作品『墜落』には、次のようにあります。
 「この章の表題は、大朝社の西村天囚博士作詞、薩摩琵琶歌『武石浩玻』中の文句、「無惨や君は今ここに。三十年を一期とし。深草に置く露の身の」からの引用である」

 また、『白鳩の記』では、
「それは今日思い出しても身内が引き緊る思いがする……あの西村天囚博士作の琵琶歌でした。(中略)──開け行くわがすめらぎの大御代は、つばさなき身も天翔り、風に乗じて雲披く、飛行術こそ目醒しけれ、に始まる弾奏が進んで、……大正二年夏のはじめの比かとよ、錦を飾るふるさとの空澄み渡る五月四日──というところにくると、パッと観客席の電灯が消え」

 そして、『ライト兄弟に始まる』では、
「すは来れりと見るうちに、角度を変へて下り来り。今着陸の折しもあれ、鉄片飛んで落墜す。……西村天囚作詞の薩摩琵琶歌にあるが、そうではない」

などと、何度も取り上げられている西村天囚のことです。

 朝日新聞の記事によると、西村天囚は1865(慶応元)年、鹿児島県西之表市(種子島)の生まれで、1883(明治16)年、東京大学古典講習科入学(後に中退)、その後1890(明治23)年、大阪朝日新聞社に入社、明治〜大正時代に新聞記者として活躍、1904(明治37)年から始まったコラム「天声人語」の命名者、1919(大正8)年、大阪朝日新聞社を退社後は、宮内省御用掛に就任、東京に移り住み、1924(大正13)年に死去、とあります。
 なお西村天囚は、江戸時代に設立された大坂の学問所「懐徳堂」の再興・顕彰を目指し、1910(明治43)年「懐徳堂記念会」を創設、1916(大正5)年には大阪市に「懐徳堂」の新学舎を再建したということです。

 すなわち西村天囚は、大阪朝日新聞社に30年近く在職した新聞記者でした。ですから、上に引用したタルホの記述の中で、「大朝社」とあるのは、つまり「大阪朝日新聞社」のことになります。ただし、タルホは西村天囚のことを「博士」と呼んでいますが、先の朝日新聞の記事では、東京大学古典講習科を中退していますし、後に新聞社に在職中だった1916(大正5)年に、「京都大学講師に就任」とあるものの、「博士」であったかどうかは定かでありません。
ところで、なぜ大阪朝日新聞社の記者であった西村天囚が、武石浩玻のことを歌った薩摩琵琶歌の作詞をしたのでしょうか? ──それは武石浩玻が墜落死した都市聯絡飛行大会の主催者が、大阪朝日新聞社だったからです。

*

 実は今回、この西村天囚の特集記事を目にしたことで、思わぬ幸運を手にすることができました。それは、タルホが断片的に語っている、薩摩琵琶歌『武石浩玻』の歌詞の全貌が明らかになったからです。
 朝日の紙面には、この琵琶歌のことは全く触れられていませんでしたので、念のためネットを検索してみると、何と国立国会図書館のデジタルコレクションの中に、次のような薩摩琵琶歌『武石浩玻』があることが分かったのです。

@『薩摩琵琶歌図式之曲譜・第6輯』(南波杢庵・著、富田文陽堂、大正2年10月10日)
この本には、『武石浩玻』のほかにも、他の作者の琵琶歌が4曲収録されています。目次には、「西村天囚氏 作歌」と記されています。この琵琶歌の曲譜は、横組みの手書き文字で、その上、音の高低や節回しの記号などが付記されているので、歌詞が読みにくく、しかもいわゆる変体仮名が用いられていることもあって、読み解くのに苦労します。
A『薩摩琵琶歌 武石浩玻』(永井重輝・著、金尾文淵堂、大正2年6月21日)
この本は、表題作のみが収録された単著で、巻頭には、飛行機事故や葬儀の写真も掲載されています。琵琶歌本文のタイトルの下には、「天囚居士作曲 永井重輝作譜」と記されています。タルホは「作詞」としていますが、ここでいう「作曲」「作譜」あるいは「作歌」が、どのように違うのかは分かりません。この本の琵琶歌は活字化されており、ルビ付きで非常に読みやすくなっています。ただし、漢字と平仮名の文字遣いは、@とはだいぶ異なっています。
B『薩摩琵琶正曲集 上巻』(琵琶歌研究会編、本吉琵琶店、大正3年8月28日)
この本には、『武石浩玻』のほかにも、二十数曲が収められています。ただし、いずれの曲にも作者の名前が記されていません。

 発行年月日の古さからすると、A→@→Bという順序になるのですが、@の末尾には、「大正2年5月12日 東京朝日新聞載」と典拠の日付が明記されており、それがいちばん古いので、@を元にし、Aも参照した上で、歌詞の全文を、タルホ読者のご参考のために、以下に掲げておきます。

*

  開らけ行く 我すめらぎの大御代は つばさなき身も天かけり
  風に乗じて雲を披く 飛行術こそ勇ましけれ1) 万里に羽うつ大鵬の
  図南の翼何かあらん 人の力は天に勝ち 地も縮まらんばかりなり
  戦略さへも亦将に 変ぜんとする勢に 国々競ふて此わざを
  学べる中に我国の 武石浩玻其人ぞ 世にめづらしき勇士なる
  生国常陸2)を跡にして 八重の汐路を打わたり 北亜米利加に物学び3)
  十年の辛苦業成りしが 御国の為めに飛行術 危険を冒して修業し
  技倆絶倫の名も高く 大志を抱いて帰へりけり
  比は大正二年 夏の初めの比かとよ 錦をかざるふるさとの
  空すみ渡る五月四日 都市聯絡の大飛行4) 鳴尾を出でゝ浪華潟
  三つの浜辺を見おろして 早くも飛来る天王寺 公園上を旋回し
  天辺高く舞ふたるは 雁か燕か白雲の 中より聞ゆる機関の音
  遠雷の轟々たる如く 疾風落葉を捲くに似て 壮観譬へん方もなし
  満都の士女は手を拍ちて5) アレヨアレヨと見てあれば 操縦自在下り来り
  練兵場の真中に 輪をゑがいてぞつきにける 凛たる雄姿功に誇らず
  大胆にして細心なる 其風采ぞなつかしき 志ばし憩ひていざ左らば
  京の群衆やまつらんと ハンドルしっかと渥りつゝ 猛虎の叫 獅子吼の
  耳を劈くほどこそあれ 砂塵を蹴て滑走し 天津乙女の舞ふ如く
  羽衣ならぬ飛行機は ふわりと地上を離れたり 飄飄として登仙し
  一瞬千里空を行く 群衆アッと感嘆し 延びあがりつゝ見送るうち
  雲や霞に隔てられ 姿は見江ず成にけり 人の心も深くさの
  練兵場の内外には 久邇宮殿下6)を始めたてまつり 長岡第十六師団長7)
  其外将校いふに及ばず 都鄙遠近の老若男女 君が今日のはれわざ見んと
  十重二十重の人の山 たかきいやしき集ひたり 手並すぐれし君は又
  一筋しるき淀川を 目標にして北進し 若葉も匂ふ男山8)
  伏拝みつゝ斯くとだに 白羽の神箭ゆひつけし9) 機上に行手を見わたして
  八幡、山崎、淀、伏見 行程廿五哩を 二十五分に飛行して
  姿は高く現はれぬ スワ来たれりと見るうちに 角度を変へて下り来り
  今着陸の折しもあれ 鉄片飛んでついらくす 無惨や君は今此に
  三十年を一期とし 深草に置く露の身の 消えてはかなくなりければ
  只悄然たるばかりにて 人皆なみだの其なかに 長岡中将の令嬢は
  君が成功祝せんと 玉のやうなる手にもちし うつくしの花わこそ
  今は手むけとなりにけれ 斯くと世上に伝はれば 知るも知らぬもなみだにて
  木村、徳田の二中尉10)に 続いて君の此の不幸 歎き惜まぬものぞなき
  左は左りながら君が名は 雲井の上にきこし召し いともかしこき御諚あり
  日比より斯の技に 御心深き久邇の宮は 殊更らいたく惜しませ給ひ
  生前の約束なればとて 彼の飛行機に白鳩11) と 命名ありしぞありがたき
  壮図一たびつまづくも 白鳩の名は後の世に 其のいさをしを止むべく
  天晴栄ある最後かな 夫れ智者は惑はず
  勇者は懼れずとかや 犠牲と為りし人々の 遺志を継いで勇みたち
  すめら御国に尽すこそ ますらたけをの誉れなれ
                          (大正二年五月十二日 東京朝日新聞載)

*

 この歌詞の根底にあるのは皇国史観そのものですが、そこから修辞を取り除けば、その内容は武石浩玻の足跡と墜落死事件を簡潔にまとめたものになっています。以下に若干の註を添えておきます。

1) 勇ましけれ/タルホは「目醒しけれ」と記していますが、元歌は「勇ましけれ」。
2) 生国常陸/武石浩玻の生まれは、茨城県旧那珂郡。
3) 北亜米利加に物学び/1903(明治36)年にサンフランシスコに渡って以来、飛行機操縦の技術を学んで、1913(大正2)年春に帰国するまで、ちょうど10年間、アメリカに滞在したことになります。
4) 都市聯絡の大飛行/この飛行は、西宮鳴尾競馬場→大阪城東練兵場→京都深草練兵場の三か所を結ぶ、三都市聯絡飛行大会でした。
5) 満都の士女は手を拍ちて/大阪城東練兵場には、十数万の観衆が繰り出したといいます(『飛行機全書』)。
6) 久邇宮殿下/久邇宮邦彦王(1873-1929)
7) 長岡第十六師団長/長岡外史(1858-1933)
8) 男山/石清水八幡宮のある京都府八幡市男山
9) 白羽の神箭ゆひつけし/浩玻はこの日の飛行前に、石清水八幡宮に詣でた折、お守りの白羽の矢を受けて、それを自らの機体に結び付けていました。
10) 木村、徳田の二中尉/木村鈴四郎、徳田金一の両中尉。浩玻が亡くなった1か月少し前の1913(大正2)年3月28日、二人の乗ったブレリオ機が埼玉県所沢で墜落。日本航空史上最初の犠牲者となりました。
11) 白鳩/久邇宮殿下は、事故後に浩玻が乗っていた飛行機に「白鳩」の名を追贈しました。

 ところで、この曲譜の末尾に記載されている「大正二年五月十二日 東京朝日新聞載」という日付について若干考えてみましょう。5月12日というと、事故のあった5月4日の8日後になります。タルホは『白鳩の記』で、次のように述べています。

「わたしの父は最初、わたしたちがもし出かけたのであったならば、汽車に轢かれた人を目撃せねばならなかったかのように、そんな口吻で当日の事件を取扱いましたが、次の日夕刊にいまの薩摩琵琶が発表された時には、わざわざわたしを呼びつけて、くすんくすんと鼻を詰らせ、勝手な節を付けて、感動的に、全歌詞を読んで聞かせてくれたのでした。」

 「次の日夕刊にいまの薩摩琵琶が発表された」とタルホは言っています。そうすると、それは事故の翌日の5月5日ということになります。5日の朝刊には、前日の事故の模様が写真入りで大々的に報道されていたでしょうし、夕刊にもなお後追い記事が紙面を埋めていたはずです。それにしても、事故翌日の夕刊にもう薩摩琵琶歌が発表されたというのは、いくらなんでも早すぎるような気がします。歌の中で「鉄片飛んでついらくす」と事故原因にまで言及しているのですから…。ここでは琵琶歌の掲載日が5月12日となっていますので、おそらくそれが最初だったのではないでしょうか。東京朝日新聞となっていますが、もちろん大阪朝日新聞(タルホのお父さんが読んだ)にもほぼ同時に掲載されたものと思われます。
 いずれにしても、事故から8日目に琵琶歌が発表されたのですから、週刊誌並みの早さです。そして、その1か月半後の大正2年6月23日には『飛行機全書』が発行されるのですから、当時のマスコミ・出版のスピードは現在と変わりありません。

 最後に、『白鳩の記』には、
「「……大正二年夏のはじめの比かとよ、錦を飾るふるさとの空澄み渡る五月四日」──というところにくると、パッと観客席の電灯が消え、入れ代って始まった西洋楽器による勇壮なメロディー…」
とありますから、この薩摩琵琶歌『武石浩玻』は、映画館(活動写真館)でニュース映画のBGM(といっても、もちろん無声映画で、伴奏も生演奏でしょう)として用いられていたことが分かります。

※タルホと武石浩玻の詳細については、本サイトの「TAKEISHI KOHAを知っていますか?」をご覧ください。


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■2017.12.5
パナマ・太平洋万国博覧会の動画がすごい !!

 最近、1915年に開催された「パナマ・太平洋万国博覧会」について書かれた文章をたまたま読んでいて、この博覧会の動画がYouTubeにアップされているのを知った。
 それはこちら ↓
 https://www.youtube.com/watch?v=9t_PyZpbfFU

 タルホ作品の中で、「パナマ・太平洋万国博覧会」は重要なキーワードの一つ。この万国博覧会が開催された場所は、中南米のパナマではなく、アメリカのサンフランシスコである。
 タルホは中学生の頃、この万国博覧会の写真絵葉書を見て、後に自分の「ポン彗星幻想物語」の中の素材の一つに取り入れた。幾条ものサーチライトに照らされた博覧会の建築物の写真に、タルホは人類の最終都市の姿を重ね合わせたのだった。(本サイトの「ポン彗星幻想物語」http://taruhofragment.mods.jp/contents/astronomy/pongenso.html参照)
 かつて、博覧会のシンボルとなった「宝石の塔(Tower of Jewels)」の写真を初めて本で見たときは、私もその夜間照明の異様な光景に衝撃を受けた。今ではWikiでもその画像(http://Panama Pacific_International_Exposition)を見ることができる。
 YouTubeの動画ではさらに、さまざまな角度から撮影された「宝石の塔」が登場し、しかも昼と夜の映像が繰り返し出てくる。仰々しいサーチライトを何本も浴びて浮かび上がった「宝石の塔」の映像は、まさにタルホが絵葉書で見た姿で、「人類最終都市」のモデルとなった。

*

 しかしながら、今回はその話ではない。この動画にはさらに驚くような映像が出てくる。中ほどに飛行機の映像が出てくるけれども、それが何と! かのリンカーン・ビーチー(Lincoln Beachey)とアート・スミス(ArtSmith)が操縦する飛行機なのだ!
 最初に出てくる飛行機はビーチ―が乗っているものだ。映像のナレーターが、「ビーチーはいつもはbiplane(複葉機)に乗っているが、今回はmonoplane(単葉機)に乗っている」というようなことを言っている。これはまさにタルホが次のように述べていたことを裏付けている。

「時はちょうど千九百十四(十五の誤り/筆者)年の春を迎えて有名なパナマ太平洋万国大博覧会がサンフランシスコに開かれ、ビーチーはさっそく招聘を受けてその上空で花々しい冒険飛行を見せることになったのです。ビーチーはここでもやはり彼が長年の愛用をつづけてきたカーチス式の複葉を使っていましたが、また別に一つの新機軸を出した単葉飛行機による目ざましい演技を示して、観衆の胆をうばおうとしていました。それはその頃ドイツで発明されて好評嘖々たる鳩型(*タウベ)飛行機の長所を採り、それに彼独特の創案を加えたものでしたが、……」(「Little Tokyo's Wit」)

*「タウベ」:
「Little Tokyo's Wit」が収録された『多留保集2』では「タウバ」とルビが振ってあり、それが筑摩版『全集6』でも踏襲されている。ドイツ語の 'Taube' で「鳩」のことだから、「タウベ」という表記が正しい。

「彼がしばしば街路上でやっていたように、こんどは会場の工業館内から滑走離陸の離れ業が見せられたが、彼は別に鳩型単葉機を新造して、愛用のカーチス機に付いていたノーム五十馬力空冷エンジンを、それに取付けた」(「ライト兄弟に始まる」)

 ところが、この単葉機は脆弱で、飛行の途中で片翼が折れて墜落してしまう。飛行機は、すぐ近くのゴールデンゲート(金門湾)の海に墜落してしまい、ビーチーは命を落としてしまったのだ(ちなみに、ゴールデンゲートに有名な橋(ゴールデンゲート・ブリッジ)が架かるのは、20年以上も後の1937年で、このときまだ橋はない)。
 YouTubeの映像では、「このフィルムの数分後に、ビーチーの飛行機はゴールデンゲートに墜落しクラッシュした」と言っている。つまり、ここに出てくるフィルムは墜落直前の映像なのだ。

 この後、ビーチーの遺体が海から引き揚げられたとき、取り巻く群集の中に、「脱帽しないか!」「ビーチーは死んだぞ!」と声を張り上げた一人の日本人青年がいた、という話を書いたのが「Little Tokyo's Wit」という作品だった。

*

 ビーチーの次に画面が切り替わると、操縦席に座ったアート・スミスの映像になる。ハンチングを逆さに被った、キュートな笑顔の、あのアート・スミスである。動画で見るのは初めてだ。ナレーションも「アート・スミスが次の飛行のヒーローだった」というようなことを言っている。
 不思議なのは、ビーチーが墜落死したにもかかわらず、博覧会における、その後の飛行が中止にならなかったことだ。現代の感覚からすると、ちょっと違和感がある。たとえば遊園地などで事故が起こって死者が出れば、警察の調査が入り、事故原因究明のため、おそらく翌日からその遊具の使用は中止される。あるいは当分の間、遊園地そのものも休園を余儀なくされることだろう。
 ビーチーの追悼式は行われたのだろうか。
英語のwikiには、〈要出典〉ながら、「サンフランシスコでの彼の葬儀は、それまでの市の歴史の中で最大規模であると言われている」とある。また別のWEBページには、「サンフランシスコ、3月17日/日曜に単葉機が墜落してサンフランシスコ湾に突っ込み溺死した飛行士リンカーン・ビーチーの葬儀が本日、サンフランシスコ・ロッジ8番のBPOE埋葬地で執り行われた。オリベット山墓地。」とあり、3月14日(日)に亡くなったビーチ―の葬儀が、3日後の3月17日にサンフランシスコで行われたようである。また“Find a Grave”なるサイトには、ビーチ―の埋葬地と墓の写真が掲載されている。【2023.6.24追記】

 タルホも、そのへんは疑念なしに、次のようにさらりと語っている。
「ビーチェーに入れ代って、博覧会の夜天でマグネシュームの炬火をつけて宙返りをやってのけたのが、お馴染みのアート・スミスである」(「ライト兄弟に始まる」)

 映像を見ると、当のスミス本人が、ビーチーの墜落死があったにもかかわらず、飛行前に不安な表情も見せず、屈託のない笑顔を振り撒いているのである。
 とにかく、次はアート・スミスの出番だったのだ。スミスの操縦するカーチス機は、ほんの20〜30mも助走すると、あっという間に離陸した。何度も宙返りを見せた後、ガクン、ガクンと機体を大きく揺らしながら高度を落として着陸する様子がすごい!
 もっとすごいのは夜間飛行だ。タルホも述べているが、真っ暗な夜空を背景に、両翼の後ろから派手にマグネシウムの火花をまき散らしながら、何度も宙返りを繰り返している。深海を遊泳する「発光烏賊」を思わせるそれは、「本当か!」と叫びたいほどの衝撃的な映像だ。その「過剰さ」は、まさに「ショー」であり「見世物」である。そこに「宝石の塔」の仰々しいイルミネーションと共通するものを感じるのは私だけだろうか。
 しかしタルホは、次のように言っている。

「次はサンフランシスコの金門わきに開かれた、パナマ太平洋万国博覧会である。宝玉塔の七色サーチライトの放射回転が呼び物で、他には週に二回、マリナの芝生からアート・スミスの赤翼の飛行機が舞い上がって、曲芸を見せた。世界嚆矢の花火仕掛けの夜間宙返り飛行もこの時の話である。これは「ファンシーフライト」であって、俗悪な今日のショーではない」(「タルホ的万国博感」)

 いずれにせよ、地上を照らし出すライトのようなものは見当たらない。暗闇の中で宙返りをしているが、高度が何百メートルもあるようには見えない。スミスは地上との距離をどのようにして測っているのだろうか。マグネシウムの光が、かすかに地上を照らし出しているのか。しかし、マグネシウムの火花が出ているのは、操縦席よりも後方だ。もし目測を誤れば、一瞬にして地面に激突である。

 「パナマ・太平洋万国博覧会」は、パナマ運河開通(1914年)のほかにも、サンフランシスコ大地震(1906年)からの復興、バルボアによる太平洋発見400周年などを記念して開かれたようだが、一方で当時のアメリカの国力を見せつける博覧会でもあったに違いない。エジソンやヘンリー・フォードが登場するのを見ても、アメリカの工業化が著しく発展した時代だったことを物語っている。チャップリンも姿を見せている。1915年といえば、チャップリンがアメリカの映画会社エッサネイ社に入った年で、翌1916年にはミューチュアル社に移って、立て続けに作品を発表し、初期のチャップリン・スタイルを確立した時代である。この時期の映画もDVD化されているので、ご覧になった人も多いだろう。ウッドロウ・ウィルソン大統領も姿を見せる。ヨーロッパでは前年、すでに第一次世界大戦が始まっている。アート・スミスが曲乗りを見せたカーチス機が、軍用機となっていくのは間もなくである。
 こうした時代背景を考え合わせると、このパナマ・太平洋万国博覧会は、経済的に発展を遂げたアメリカという国が、世界の中で頭角を現してくるエポックだったのかもしれない。そうすると、べらぼうな電力を要したであろう、あの過剰なイルミネーションの理由も分かるような気がする。
 タルホは「人類最終都市」の様子を、このように記している。

「こんな遠景都市の中心部からは、そのかそけさは恰も蜘蛛の糸になぞらえたい採光が幾千条となく扇形に放射して、華麗無類な矢車となって夜天を漉しながら廻っていたが、この儚さは蜉蝣の翅であり、しかも寂としたなかに動いているだけに、滅入るとも何とも云い様のない快い淋しさがそそられる……それは東洋の経典にある「極楽」を想わせた」(「彗星倶楽部」)

 私も、サーチライトをあたかも後光のように背負った「宝石の塔」の写真を初めて見たとき、タルホの描くイメージそのままのように感じた。人けのまったく感じられない建築物の醸し出す異様な雰囲気は、まさに人類最終都市のシンボルとしてふさわしいもののように思われた。
 しかし今回の動画を見て、「パナマ・太平洋万国博覧会」は、19世紀とは桁違いに膨大なエネルギーを消費するようになった20世紀の幕開けを象徴する一大セレモニーであったことが分かる。それは、タルホの言う「かそけさ」や「儚さ」とは正反対の、実際は「過剰」で「仰々しい」ものだったのである。もちろんタルホはそこに、このような20世紀文明が、はるか何十世紀も後に辿り着くであろう「人類最終都市」を見通そうとしたのだろうけれども…。
 できたら、タルホと一緒にこの映像を見たいと思った。

*

 最後に、この「パナマ・太平洋万国博覧会」が行われた場所を確認しておこう。幸い、非常に詳細で鮮明な会場の地図がサイト上にアップされている。

https://i0.wp.com/imagesofoldhawaii.com/wp-content/uploads/Panama-Pacific-International-Exposition-1915-map.jpg?ssl=1

 地図の北側がゴールデンゲートで、会場があった場所は「マリーナ・ディストリクト」と呼ばれている地域である。東はヴァン・ネス・アヴェニュー、南はチェスナット・ストリートに挟まれており、西側は湾沿いに市街地をずっと外れた地域にまで延びている。
 この地図の中では目立たないが、ちょうど中央辺りに“TOWER OF JEWELS”(宝石の塔)という文字が小さく見える。
 また、いちばん左端上に“AVIATION FIELD”とあるので、ビーチーやスミスの飛行は、ここで行われたのだろう。
 中央やや左寄りに“FINE ARTS PALACE”という目立つ建物がある。これは巨大な円形の四阿のような建築物で、この建物だけは現在もこの位置に建っている。といってもそれはレプリカで、この象徴的な建物も1964年には取り壊されたようである。そのときのニュース映像がYouTubeに上がっている(https://www.youtube.com/watch?v=rap_98LxkjA)。現在のこの周辺の風景は、ストリートビューで確認できる。ベイカー・ストリートを湾に向かって北進すると、左手にFINE ARTS PALACEの円形建物が見えてくる



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■2017.10.16
タルホの机

 先日、10月12日の朝日新聞に瀬戸内寂聴さんがタルホのことを書いているのが目に留まった。それによると、今年はタルホ没後40年に当たるそうだ。うっかりしていたが、そういえばこの10月25日が命日である。
 いろいろ感慨はあるけれども…。それはさておき、紙面には寂聴さんがタルホから貰ったという机の写真が載っていた。その机は現在、徳島県立文学書道館というところに展示されているらしい。写真を見ると、机の引き出しが一つ外されて、その底の裏側が見えるように、机の上に伏せて置いてある。よく見ると、その引き出しの裏側には何か文字が書いてあるようだ。ひょっとしたら寂聴さんが貰うときに、タルホが何か書いたものかもしれない。
 寂聴さんの『奇縁まんだら』という本に、タルホのことが書かれているらしい。それで図書館でその本を借り出してみた。すると、まさにその引き出しの文字のことが書いてあった。そこには「この机の遍歴」とあって、タルホが京都に移って以来の住まいが5か所書いてあった。引っ越しのたびに、この机も一緒についてきた、ということだろう。最後に「昭和四十五年一月二十三日」の日付があり、「稲垣足穂」の署名があって、「瀬戸内晴美江」とある。作家というのは、こんなことをするんだ、と私はちょっと驚いた。
 寂聴(瀬戸内晴美)さんは、最初にタルホに会ったのは「出家する前の年」だ、と新聞にも『奇縁まんだら』にも書いているけれど、出家は1973(昭和48)年ということなので、するとそれは1972(昭和47)年ということになる。もちろん、そうだと机の引き出しの署名の日付と合わないので、思い違いだということになる。
 タルホ夫人の稲垣志代さんの『夫 稲垣足穂』によると、「十年間ごやっかいになった桃山婦人寮から引っ越しの前日、瀬戸内晴美さんが折目博子さんといっしょにみえた」とある。するとそれは1969(昭和44)年3月のことだ。寂聴さんの話では、最初の訪問から半年後に、再び折目女史とタルホ宅を訪れたが、「先のお住いは夫人の勤務先の桃山婦人寮であったが、今度のお家は、同じ桃山でも町中のしゃれた住宅街で、夫人の御家族と賑やかに暮らしていた」とあるので、今度は伏見区桃山養斉の住居である。机を貰ったのは、この二度目の訪問の折である。
 この机の件については、タルホも「裸形執筆」(別冊文芸春秋、1970年新年号)で書いているし、1970(昭和45)年4月21日には、二人でNHKラジオの対談もしているので(「瀬戸内晴美さんとの問答」〈『パテェノ赤い雄鶏を求めて』新潮社、1972年3月収録〉)、1969年から70年にかけての1年間に、二人は3度も会っていたことになる。
 ※なぜこの机が寂聴さんに渡ったのかは、『奇縁まんだら』を参照してください。


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■2017.3.23
タルホの作品年譜について

 本サイトの「タルホ年譜ノート」には、いわゆる事柄を年代順に配列した年譜の中に、作品年譜も一緒に組み入れています。その理由は、この作品が発表されたとき、タルホはこういうことをしていたんだ、ということがはっきりするからです。
 この作品年譜は、『全集』の「解題」に記載されたものを基本とし、その上で自分用の作品年譜を併せてまとめています。
 今回、ある時期の作品に、時系列的に目を通してみたいと思ったとき、本サイトの作品年譜では、その作品が『全集』の何巻に収録されているのかが、すぐに分かりません。それを知るには、一度五十音順の作品INDEXに当たらなくてはならない、という不便さがありました。つまり、年譜上の作品に直接、『全集』の巻数と頁数を併記しておけば、そうした目的のためには非常に便利だ、ということに気づいたわけです。
 そして、せっかくやるのならすべての作品について…、といういつもの無謀な(?)考えが頭をもたげ、結局その作業にとりかかる羽目になりました。
 ということで、現在ようやく終戦後まで進んだところですが、今回こんな作業をやっている中で、改めて気づいたことがあります。

 一つは、やはり西巣鴨新田時代には、安定してたくさんの作品を書いているということ。
 もう一つは、戦時中はもちろん、作品を発表する場がほとんどなかったのだから作品が少ないのは当然として、昭和7年に明石に戻ってから最後に上京する昭和11年までの数年間は、「ヰタ・マキニカリス」をまとめていたとはいえ、他の時期に比べて作品の数がきわめて少ないということです。


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■2017.2.23
タルホが口ずさんだ音楽」をアップしました

 アップロードの不手際で、何日かロスしましたが、ようやくファイルを転送することができました。
 タルホ作品に出てくる音楽については、以前から興味があって、どんな曲なのか聴いてみたいとずっと思っていました。本サイトの「タルホ辞典−オブジェII」に、「ミュージック」の項を設けた所以です。
 折を見てYouTube上でタルホ音楽を検索していましたが、たとえば「チペレリ」が “Tipperary” という綴りだと探し当てるのに苦労しました。けれども、その曲を実際にYouTubeで聴いて、私もすっかり虜になってしまいました。タルホではありませんが、この曲はメロディと歌詞が実によくマッチしていて、一度聴くと忘れられない曲です。
 謡曲は別にして、これまであまり注目されることのなかったタルホ音楽ですが、今回、大阪第四師団軍楽隊に関する資料に出会ったことで、タルホ音楽についての視野を一挙に広げることができました。
 皆さんも活字の上だけでなく、実際にその曲を聴いてみたら、イメージが覆されるかもしれませんよ。


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■2017.1.4
爺さん酒飲んで酔っ払って転んだ

 タルホの「古典物語」の中に、「爺さん酒飲んで酔払って転んだは、歌劇マルタの一節でないか」という記述がある。
この「歌劇マルタ」というのは、フリードリッヒ・フォン・フロトー(Friedrich von Flotow)という人が作曲したオペラだということは分かったが、「爺さん酒飲んで酔払って転んだ」とは何のことか?

 その意味が分からなかったが、「歌劇マルタ」の一節の替え歌だということが判明。
 さらに、黒澤明監督の映画「酔いどれ天使」と山田洋次監督の「男はつらいよ 知床慕情」の中で、その替え歌が歌われている、ということも分かったので早速映画を観てみた。

 「酔いどれ天使」では、医者の志村喬が、ちゃぶ台の上の空のコップを箸で叩きながら、「爺さん酒飲んで酔っ払って転んだ」「婆さんそれ見てびっくりして…」と、ここまで歌ったところで、婆さん役の飯田蝶子が「あたしゃ、びっくりなんかしませんよ!」と突っ込みを入れる。
 「男はつらいよ 知床慕情」では、渥美清が三船敏郎と一杯飲んでいるときに、やはり箸を振りながら、「爺さん酒飲んで酔っ払って死んじゃった」「婆ちゃんそれ見てびっくらして死んじゃった」と歌う。
 渥美清のほうは少しいい加減に歌っているので、この二つを勘案すると、「爺さん酒飲んで酔っ払って転んだ」「婆さんそれ見てびっくりして死んじゃった」というのが、どうも正解のようだ。

 すでにタルホの少年時代には誰でも知っているような曲だったようで(子供はきっとこの替え歌が大好きだろう)、タコのような口をした近所のお兄さんが、うっとりするような見事な口笛でこの曲を吹いたという。私も替え歌は知らなかったが、メロディは聴いたことがある。

 「タルホが口ずさんだ音楽」を調べていたら、ある重要な資料を見つけたので、その紹介も兼ねて近いうちに当ウェブサイトにアップできたら、と思っています。


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2016.10.15
ハモンズポートに行ってきた!

 アメリカはニューヨーク州、ハモンズポートに行ってきた!
 ハモンズポートは言わずと知れたアメリカの飛行機のパイオニア、グレン・カーティスの本拠地があったところ。
 目的はもちろん「グレン・カーティス・ミュージアム」を訪ねることである。
 アルファベットのYの字の形をしたキウカ(Keuka, ケウカ?)湖。
 この湖のいちばん端っこに位置するハモンズポートは、人口わずか700人足らずの小さな村。
 その村の中心地から少し離れた場所に、「グレン・カーティス・ミュージアム」はある。
 (タルホは、「ハモンドポート」「ハモンズポート」「ハモンドスポート」と、いくつかの書き方をしている。
 “Hammondsport”だから、発音的には“goods”とか“needs”と同じ[dz]で、カタカナでは表記しにくいが、あえて表記すれば、「ハモンヅポート」か?)

 ニューヨークから飛行機でバッファローへ飛ぶ。そこでレンタカー(日本車のプリウス)を借りる。
 高速道路のルート90に乗り、東へ向けて出発。所々に雑木林や森が見えるだけの真っすぐな道をひたすら東へ。
 日本の高速と違って、道路の両側にコンクリート塀や土手がなく、刈り込んだ原っぱになっているので開放感がある。
 約1時間走ったところでインターチェンジへ。ルート390に乗り換え、今度は南へ。こちらの道も同じような景色が続く。
 再び約1時間近く走ってバス(Bath)という町で高速を降りる。ようやく人の歩く姿や信号を見てホッとする。
 いくつか交差点を曲がりながら町なかを通り抜け、ここからルート54を北上する。
 この道は一般道だが、民家がほとんど見えない。殺風景な道だ。
 5〜6km走ると、左手道路沿いに突如、銀色をした実物飛行機(後で分かったことだが、Curtiss C-46“Commando”という1940年代の軍用輸送機だった)の巨体が見えてきた。これがカーティス・ミュージアムの目印だ。
 飛行機のそばに“Curtiss MUSEUM ENTRANCE”の看板が出ている。ミュージアムはこの奥にある。
 しかしせっかくだから、先にハモンズポートの中心地に行ってみようと思い、1kmばかり進んで左折、メインストリートに入る。
 ところがそこは、白いペンキを塗った民家が両側にパラパラとあるばかりのひっそりとした通りだった。
 住民が数百人の村だということに納得する。
 タルホは、ハモンズポートのことを「葡萄産業のための鉄道支線の終点」だと言っていたが、昔も今も人口はほとんど変わらないらしい。
 すぐ近くにある名高いキウカ湖を見てみようと思ったが、それは後回しにして、道を引き返し、さっそくカーティス・ミュージアムへ。
 さっきの看板のところを右に入り細い道を行くと、すぐにミュージアムの建物が見えてきた。
 半円形の赤い日除けが張り出したエントランスは、レストランの玄関のようで、大げさでない外観が好ましい。
 建物の正面左上に“Glenn H. Curtiss Museum”(H.はHammondの略)と記されているが、先ほどの看板同様、筆記体で書かれた“Curtiss”の文字がロゴマークになっているのが分かる。

 さっそく入場する。入場料は大人10ドル。
 ほぼ正方形の平面を持つこのミュージアムには、カーティスが発明・開発したさまざまな乗り物が陳列されている。
 コレクションは、飛行機、自動車、ボート、オートバイに大きく分けられている。
 彼の創り出したものは、陸・海・空にまたがる乗り物なのだ。
 飛行機よりも先にグレン・カーティスは、1907年、オートバイ用のエンジンを開発し、自ら時速136.4マイルのスピード世界記録を打ち立てて、“ Fastest Man on Earth(地上最速の男)”と称されたという──というのは、タルホも同様なことを書いていた。
 時速136.4マイルというと200kmを超えるすごいスピードである。
 前後に長く引き伸ばしたような自転車の下部に、むき出しの40馬力空冷V8エンジンを取り付けたカーティスのオートバイ。
 車体が長い分、ハンドルが手前に異様に長く伸びていて、それを上から押さえつけるような格好で運転するらしい。
 カーティス本人がまたがった写真が残っている。それでも基本的な構造は今のバイクとほとんど同じであることに感心する。
 カーティスは最初、自転車屋もやっていたそうで、出発点がライト兄弟と同じであることを面白いと思う。

 何と言っても目的は飛行機なので、早速そちらへ移動。
 すぐに、髭をたくわえた人物が乗った飛行機が目に入った。
 かの有名な「ジューン・バグ(June Bug)」に乗ったカーティスの姿が、ロウ人形で再現されているのだ。
 ウールのズボンに革靴、長袖の白シャツにネクタイを締めたカーティス。
 頭のハンチングのひさしのところにバッジを付けているのが見える。
 何のバッジか小さくてよく見えないが、それを見たとき、「このことか!」と私は小さく叫んだ。
 「鳥打帽の鉢を庇の上まで引きよせてバッジでとめている」とタルホが言っていたのは、まさにこのことだったからだ。
 今のハンチングは、ひさしのところで縫い付けたりホックで留めたりするようになっているが、カーティスのバッジは、帽子を留める実用性というより、むしろオシャレのためのように見える。なかなか格好いい。
 飛行機は思ったほど大きくない。驚いたのは、何と「竹」が使われているのだ! 
 上下の主翼をつなぐ支柱には木が用いられているが、前後に伸びた何本かのフレームは確かに節のある「竹竿」なのだ。
 これはレプリカだが、おそらくオリジナルの飛行機にも竹が使われていたに違いない。
 アメリカにもこんな竹が生育するんだろうか?

 カーティス・ミュージアムには、もちろんオリジナルもあるのだが、古い時代のレプリカが数多く展示されているのが目を引く。
 1904年、飛行興行団のキャプテン・ボールドウィンから、カーティスが最初にエンジンの注文を受けた飛行船のゴンドラ
 1908年7月4日の独立記念日に、アメリカ最初の公認長距離記録を打ち立てた“June Bug”
 1909年、電話王グラハム・ベルも加わった“Silver Dart”
 1911年、水上飛行機の“Triad”
などなど、黎明期の歴史的名機のレプリカがずらりと並んでいる。

 幸運なことに、今日と明日、何とカーティス・プレーンを実際に飛ばしてくれるというではないか!
 今日は通常の飛行機、明日はキウカ湖で水上飛行機ということだ。
 この日は絶好の飛行機日和! スタートは午後1時半とのこと。待ち遠しい。

 ──格納庫から外に引き出されてきたのは、1910年の“Curtiss Hudson Flier”のレプリカ。
 淡い黄色の羽根に、カーティス機の特徴である、操縦席の前に突き出したトライシクル(三輪車)のタイヤ。
 この飛行機は、操縦席の前に長く突き出した水平の昇降舵がある。
 1913年5月に墜落した武石浩玻のカーティス機(白鳩号)はもっとシンプルで、前方の昇降舵は付いていなかった。
 この“Curtiss Hudson Flier”のほうが古い型だ。
 (タルホは、前方昇降舵のない白鳩号は「尻下がり」のクセがあったと言っている)

 滑走路上で準備のできた“Hudson Flier”は、主翼の両端をそれぞれ2人がかりで押さえている。
 複葉の主翼の両端の間に、小さな補助翼が付いている。(これがライト兄弟からクレームがついた構造だ)
 カーティス機のエンジンとプロペラは操縦席の後ろに位置する。
 1人が前でエンジンを調節し、もう1人“Curtiss”のロゴが入ったシャツを着ている人が、素手で後ろのプロペラを回す。
 みんな定年退職したような年輩の男性である。
 プロペラの長さは、人間の背丈ぐらいある。トネリコ製だろうか?
 勢いをつけて何度かプロペラを回すが、なかなかエンジンがかからない。
 しばらくしてようやくエンジンがかかった。するとすぐにプロペラを回していた人が、ぐるりと前方に回って操縦席に座った。
 彼が操縦するのだ。半袖シャツにスニーカーである。
 ゴーグルとヘルメット、そして手袋を着けて操縦席に座った。シートベルトは締めたようが、体はむき出しである。
 いよいよスタート。難なくスルスルと動き出した。
 ゆっくりと長い滑走路のいちばん端までたどり着くと、そこで何人かにスタートの態勢を整えてもらっている。
 エンジン音が高鳴ってきた。エンジンの回転数がどんどん上がって、飛行機が動き始めた。
 飛行機のスピードが次第に上がっていく。
 遠くてよく見えないが、100〜200mぐらい助走したのだろうか、前輪が先に浮いて、ついに機体がフワリと浮き上がった。
 そのままグングン上昇するのかと思ったら、2〜3mの高さからなかなか上昇しない。
 横滑りするような様子を見せながら、しばらく水平飛行をしている。
 ゆらりゆらりと揺れながら、それでも最終的には10〜15mぐらいの高さまで上昇したろうか。
 しばらく飛行を続けた後、ゆっくりと旋回して戻ってきた。
 地上近くでガクッ、ガクッと高度を落としながら、最後はストンと無事着陸した。
 私は別にタルホのように、この好ましい光景を目を閉じたり開けたり、見直したりはしなかったけれど、100年前の出来事を今ここで見ているような錯覚に陥った。

 タルホは、「すばらしきヒコーキ野郎」などの映画に出てくるクラシック・プレーンは食わせ物だ、堂々と飛びすぎる、と言っていたが、このレプリカの“Hudson Flier”は、おそらくエンジンも複製されたものだろう。
 急上昇するような強力な推進力はないように見えたからだ。
 タルホが「ジャガ芋畑の上では吸い込まれ、麦を刈った趾では逆に突き上げられ、木立の蔭を通るとその方へ傾いた」と言ったような飛び方を確かにしていた。
 高度も長い竹竿があれば届くぐらいの感じである。
 しかし、そこでふと思った──たかが10mの高さからでも、もし墜落したら死ぬかも知れない。
 パラシュートがあるわけでないし、第一そんな物が開く高度ではない。
 だから今日、操縦していたオジさんは、その覚悟で乗っているのだろう。
 無造作に飛行機を飛ばしているように見える彼らにも、100年を経て、グレン・カーティスのアメリカン・スピリットのようなものが脈々と受け継がれているような気がした。

 初めて見たクラシック・プーレーンの微笑ましくも優雅な飛行ぶりを何度も思い返しながら、この日のミュージアムを後にした。

 今日の宿は、ミュージアムのすぐ近く、道路の反対側にある「ハモンズポート・ホテル」である。
 チェーン・ホテルのせいか、こんな田舎にしてはずいぶん立派な外観のホテルである。
 中に入ると、ロビーの天井に実物大の赤いカーティス機が吊り下げられているのには驚いた。
 この夜、地元ハモンズポート産のワインも飲むことができて、満足の一日だった。明日のキウカ湖の水上飛行機が楽しみだ。


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2016.10.16
キウカ湖で水上飛行機を見た!

 今日も快晴、無風。飛行機にはもって来いの日和だ。
 水上飛行機のスタートは、昨日と同じ午後1時半。時間があるので、キウカ湖畔を散歩してみることにする。
 昨日、ハモンズポートのメインストリートに行って閑散としているのに驚いたが、そこから湖畔の方に歩いて行ってまた驚いた。
 村のこちら側には公園や小さな教会があり、土産物屋や飲食店などが軒を並べていて賑やかなのである。
 湖畔に出でみる。真っ青な湖面が眼前に広がった。これが有名なキウカ湖か! 
 湖は、長さは20〜30kmあるようだが、幅はせいぜい1kmぐらいだろう。向う岸がはっきり見える。
 桟橋にモーターボートが何艘も並んでいる。芝生のベンチで日向ぼっこをしている人たちがいる。
 小さな海水浴場のような感じだ。
 湖に突き出したカフェのデッキでコーヒーを飲む。沖をモーターボートが波を立てて走っている。
 対岸の丘の中腹には別荘のような家がいくつか見える。

 この日登場した水上飛行機は“Model-E”という1913年型である。
 飛行機は、胴体部分と主翼部分を分割して運んで来て、湖畔で組み立てられた。
骨組みをむき出しにした昨日の“Hudson Flier”と違って、この“Model-E”は、水上飛行機ということもあるのだろうか、操縦席から尾翼まで胴体部分が緑色にペイントされた板のようなもので覆われている。
 Hudson Flier”から3年後の飛行機で、見た目はすでに第一次大戦時の飛行機を思わせるような雰囲気を持っている。
 この短い期間に形態的に大きく進化した様子が窺える。
 プロペラをスタートするのも手で回転させるのでなく、反対側(操縦席側)からエンジンにクランクのようなものを取り付けて、それを回してプロペラをスタートさせる方法に進化している。
 一発でプロペラは回転を始めた。
 飛行機は、岸から湖に敷かれたレールの上を、台車に載せられて湖面に滑り込んでいく。
 水の上で態勢を整え、エンジンが回転数を上げていくと、飛行機は湖面をゆっくり滑り出した。
 白い波を蹴立てながらスピードを上げていく。しかしなかなか水面を離れない。
 数百メートルも走ったろうか。ようやく機体が少し浮かび上がった。
 しかし飛行機は2〜3mのところを水平飛行するばかりである。しばらくするとまた湖面に着水してしまった。

 再び態勢を整えてスタート。加速して機体が浮き上がった。今度は前より調子が良さそうだ。20〜30mぐらいは上昇したろうか。
 その高さでしばらくの間ゆっくりと飛行を続け、次第に高度を下げながら着水していった。そばにはポートが2艘、待機していた。
 この“Model-E”は、“Hudson Flier”よりもスピードがあったようなので、エンジン自体も3年の間に馬力が強力になったのだろう。
 しかし、それでも滑らかに水平飛行するばかりで、急上昇するような力があるようには見えなかった。

 カーティス社から派遣されたアトウォーターが日本に水上飛行機を売り込みに来たのは、1912年である。
 したがって、タルホが見たのはこの“Model-E”ではない。それより前の型である。できれば、それが飛ぶのを見たかった。
 アトウォーターが乗った「鴎号」は、「グレン・カーティス・ミュージアム」にあった1911年の“A-1 Triad”ではなかったろうか? 
 年代的にはそれでつじつまが合う。
 “A-1 Triad”は骨組みばかりの機体で、前方の昇降舵は無く、三輪車に細長い箱のようなフロートを組み合わせただけの水上飛行機である。
 それで本当に浮くのだろうかというような代物である。
 それまでにカーティス自身は、ヨーロッパまで出かけてフランスの飛行大会に出場し、ルイ・ブレリオを抑えて優勝したり、ライト兄弟たちとの特許訴訟に巻き込まれたりして、すでにビジネスとしての飛行機の競争も熾烈な段階に入っていたのかもしれない。
 しかし、まだ第一次大戦が始まる前である。カーティスの事業も、あくまで一民間会社のビジネスだったはずである。
 20世紀初頭のそんな時代、ハモンズポートのようなアメリカの片田舎で飛行機製作をしていたカーティスの小さな会社が、こんなプリミティブな水上飛行機を、情報も大して無かったであろう極東の日本にまで売り込みに来たということは、考えてみればすごいことである。

 明治45年(1912年)春、神戸の須磨天神浜の波打ち際で、W. B. アトウォーターが乗った水上飛行機のエンジンが、馬鹿でかい破裂音を轟かせたのに度肝を抜かれながら、目を細めたり見開いたりして、飛行機の動きを一瞬も見逃すまいと待ち構えていた11歳の少年タルホ。
 一方、1万km彼方の地球の裏側にあるニューヨーク州ハモンズポートで、ちょうど同じ頃、深いブルーの水を湛えたキウカ湖で、水上飛行機のテスト飛行を何度も繰り返していた34歳の若きアヴィエイター、グレン・カーティス。

 この二つの映像を、ノイズの入った古いニュース映画のように脳裏に焼き付けながら、糸杉の間から西日の当たるミュージアムを後にした。
 道路脇の“Commando”の巨体も陽の光を受けて輝いていた──

【This is a trip on websites ofGoogle Map/Street View,Glenn H. Curtiss Museum, andWikipedia. Seealso this page. →エアロプレーン aeroplane


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2016.10.6
タルホ年譜ノートに乗り換える

 これはまた別のもう一人のTさん(どういうわけか、皆さんTさん)から、「ユリイカ特集号」のタルホ年譜から、こちらの「タルホ年譜ノート」に乗り換えると言っていただいた。うれしい限り。お気づきの点がありましたら、どうぞ遠慮なくご指摘ください。よろしくお願いします。


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2016.10.5
『真鍮の砲弾』という本があった!

 ポン彗星幻想物語の中の重要なエピソードの一つであるアメリカ映画──『真鍮の砲弾』。
 この映画と同じタイトルの本が、大正時代に日本で出版されていたと、これは別のTさんから教わった。
 内容は映画のストーリーに沿ったものらしいけれど、これはメディアミックスというより、便乗商法といったところだろうか?

 映画の『真鍮の砲弾』をwebで調べてみたら、wikiによると、残念ながらフィルムは失われているらしい。映画のポスターが紹介されているのがせめてもの慰みだが、本編のタイトルバックを見るというのは、もはや「見果てぬ夢(Impossible Dream)」か?
 IMDb(Internet Movie Database)にも、『真鍮の砲弾』の別のイラストが載っていた。

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2016.10.3
タルホのお父さんの写真があった!

 この「増補版フラグメント」をアップロードしたとお知らせしたら、Tさんからの返事で、タルホのお父さん(忠蔵)の写真を見つけたと教えていただいた。
 びっくり仰天!
 継続して研究している人は、さすがに探査のレベルが違うなと感心した次第です。
 アップロードするかどうかずいぶん悩んだけれど、やはりアップロードしてよかった。


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