inagakitaruhofragment
■附録/『少年愛の美学』における引用文献一覧
1. ここでは『男色文献書志』との対照を主目的としているので、日本の事例を扱った文献を中心に取り上げ、外国の翻訳文献はひとまず除外した。
2. 引用文献名の前の「p.」は、〈ちくま文庫〉『少年愛の美学』のページ。
3. 太字の文献名は、『書志』に収載されているもの。
4. 太字でないのは、それ以外もの。
5. 〇は、『書志』収載の文献名と解題。数字は『書志』における通し番号。
6. ◎は、〈国会図書館デジタルコレクション〉所蔵の文献。「/p.」は当該箇所のあるページ。ただし、タルホが底本にしたのがどの全集・叢書か不明なので、〈デジタルコレクション〉の中で参照しやすいものを選び、あくまでも参考文献として掲げた。したがって、引用箇所の文言は必ずしもタルホの引用文とは一致していない。なおタルホの引用の仕方は、句読点まで正確に転記するようなものでなく、たとえそれが古典であっても、いわゆる〈リライト〉が引用の基本スタイルとなっていることを考慮し、中には誤写もあると思われるが、一字一句の異同を取り上げることはしなかった。◎(送信サービスで閲覧可能)とあるのは、国会図書館の利用者登録をした者のみ閲覧可能。
はしがき
p.12 大阪少年鑑別所の若い医官から送られた資料
第1章 幼少年的ピップナイド
p.14 醍醐三宝院蔵『稚児之草子』
日本の秘巻──
醍醐三宝院蔵『稚児之草子』は、伝鳥羽僧正筆となっているが、実はそれから二百年もあと、兼好法師が御室にいた頃、仁和寺の宅磨派の巨匠、印玄阿闍梨によって描かれたものである。この絵巻物が完成した元亨元年(1321)、画家は四十四歳、兼好は三十九歳であった。
○32/〔醍醐男色絵〕 一巻 元亨元年(一三二一)
伝鳥羽僧正覚融筆。詞書を「稚児之草子」と普くいへるは函の表に稚児之草子と書し明治二十五年表幀を修復する由記せるを以てなるべし。爰には姑らく旧き命題に従ふ。尾崎久弥著「江戸軟派襍攷」(大正十四月(ママ)六月春陽堂刊)第一章、原始的な稚児物にて全文を始めて紹介せられたり。(此章は雑誌「江戸軟派研究」に掲載)後「江戸猥談」(坂田俊夫著)に其儘転載せられたり。〔「近世庶民資料」〕
◎江戸軟派雑考(尾崎久弥 著、春陽堂、大正14)原始的な稚児物/p.3〜p.21
※『書志』は、「稚児之草子」を〔醍醐男色絵〕として立項している。
※尾崎久弥著「江戸軟派襍攷」の発行年月に誤植があるが、正しくは「大正十四年六月」。
※「少年読本」(1930年)に、「私たちはKyotoのD院に所蔵されている「稚児の草子」というたぐいの絵巻物をいくつか知っている」とある。
p.16 秋夜長物語
明方の月、西より隈なく射入りたれば、寝乱れ髪のはらはらと懸りたるはづれより眉の匂ほけやかに、ほのかなるかほばせの思ひは色深く見えたるさま、別れて後の面影も又逢までを待つほどの命あるべしとも覚へず(秋夜長物語)
○43/秋の夜の長物語 一巻 永和三年(一三七七)以前
嘉吉二年の奥書ある所謂嘉吉本は絵巻物の詞書風にして本文二十四段に分れ、群書類従本との異同多く更にそれよりも委し。叡山の学僧律師桂梅(筆者:「海」か)と三井寺の稚児梅若との恋を綴り、併せて山門寺門の争闘によつて梅若の入水桂海遁世を以てす。昭和三十年高乗勲氏蔵永和三年書写本が印行せられ、又「国語国文」二四ノ一〇に全文翻刻さる。〔類従三一一。国文全書。文学全書。国文大観。続集覧。文学大系。観音八の四五。〕
◎日本文学大系:校註第19巻 国民図書、大正14-15/p-702, 11〜14行目
※『文学大系』本とは若干の異同有り。
p.17 賎のおだまき
心の中は最上川。上れば下る稲舟の。いなに非ざる粧は。譬んかたも梨の木の。花に湿ふ春雨や。軒の玉水音繁く。人も静まる折なれば。清家今は堪らへ兼ね。風に柳のよられつる。風情に似たる三五郎を。ただ後よりじつとだき。燈ふつと吹き消せば。闇はあやなし梅の花。袖に匂の馨り来て。色こそ見えね夜の雨。窓打のみ音ぞして。静まりかへる小座の内。思ひもつれし恋の名を。掛けてぞ解くる雪の肌。(賎のおだまき)
○688/賎のおたまき(平田三五郎物語) 一冊 明治十八年八月 東京同益出版社刊
市村丁四郎の出版にかかる。序跋無し。大正五年二月東京文教社出版の四方子の序文(明治十七年三月書)に「聞此書出於西薩婦女之手嗚呼以紡織之余而事及干此云々」。蜻蜒州西尽居士の跋文(明治十七年四月書)に「頃者茨城県人多羅尾某将上梓頒同好云々」と見ゆ。
◎市村丁四郎, 明18.8/p-27, 4〜10行目〜
※「賎」の読みは〈しづ〉。『書志』および『市村丁四郎』本とも、〈おだまき〉は〈おたまき〉と表記。
※『書志』には、この『市村丁四郎』本しか挙げられていないが、タルホの引用とは若干の異同あり。
p.18 貞享四年板・男色十寸鏡
腕股ひきやうの事──
ひき様口伝といへぱ、腕をひくときは弓いるときのごとく手をのばして。腕のうはつらえなりたる方を。少しそとのかたへ寄せてひく也。少しもうちの方へよれば筋を断ちいたむなり。よくよくもみさすり。やはらげて。ひかんと思ふ所の上皮をつまみて若衆にもたせてひく也。つまみ上げたるをあさくひくべし。ちと深きと思へば。手をはなしてみれば分量よりは底へ深きもの也。若又即座に自身をひく時はなる程手のうちをかろく。底をあさくほそ長にひくべし。むかひえ只一引にする法也。かへし刀とて後へひきもどすは不吉也。ぎようさんきらふ事也。股をひくも右に同じことはり也。本筋は底にあり。血脈の血筋は上に有るものなれば、かねて其意得専一也。ひかんと思ふ事。前より覚悟あらば杉原をよくもみて。おおくほほちにやきて懐中して疵につけべし。血おおく出るものなれば。つねの血止にてはとどめがたき也。但のまでかなはずはひかえべし。酒の上にての心中は血とまりかねる也。(貞享四年板・男色十寸鏡)
○220/男色実寸鏡 二巻 貞享四年序
三夕軒好若処士(吉田半兵衛)。巻上、兄分勧学之巻(衆道得心第一儀。衆道は只実を根本の事。兄分風俗并たしなみの事。若衆のために儀を思ふべし并若恩の事。恋道の契誓紙にあり付り腕股ひきやうの事。若道の初恋艶書かきやうの事。若衆への心いれ并教訓第一の事。少年を初の恋とりいりやうの事。少年若道のしたて気をとをす事。小姓小草履とりしたての事。野郎に初会の意得并唐物うりが事。)巻下、若衆勧学之巻(若衆得心第一儀。身持たしなみの事。伊達風流心得の事。若衆心がけ有へき事。他所の若衆とつきあひ心得之事。余所へ行心得之事。主人に愛せらるゝ若衆心得之事。僧に愛せらるる若衆心得之事。心を花車第一之事。町人若衆心得之事。人に物を借遠慮之事。人に恋慕せられし時心得之事。早く兄分を定むべき事。何事も兄分にとふべき事。人に状つけられし時之事。手跡吉若衆心得之事。万食物心得之事。匂ひをとむる事。若衆床入之事。)〔古典文庫複製〕
◎男色十寸鏡 : ゑ入 (古典文庫 ; 第37冊) 西鶴学会 編 1950/p-42, 1行目〜p.44, 3行目
p.19 西鶴
(出典なし)
西鶴のいわゆる「野郎もてあそびは散りかかる花の下に狼の臥したる風情」
〇194/好色一代男 八冊 元和二年(一六八二) 大坂 荒砥屋可心板
井原西鶴。巻一、袖の時雨は懸るがさいはい。巻二、はにふの寝道具。出家にならねばならす。巻四、夢の太刀風。巻五、命捨ての光物。〔帝国文庫。浮世草紙。愛鶴書院本八冊。近代文学。古典全集。名著全集。古典文庫複製本(江戸板)。定本西鶴全集。岩波文庫。〕〔附〕読一代男輪講(南方熊楠)。彗星第二年第十号(昭和二年十月)、第三年第一号(昭和三年一月)、第四年第四号(昭和四年四月)、「西鶴輪講鶴輪講好色一代男」(三田村鳶魚編、昭和二年九月春陽堂)八冊。)
◎近代日本文学大系 第3巻 (井原西鶴集)(国民図書、昭2)巻5「命捨てての光物」/p.80, 11行目
p.20 太宰春台
(出典なし)
「悲哀は淫心をそそる」(太宰春台)
※出典未詳。湯浅常山の『文會雜記』に、「淫心を動かすものはかなしみの聲より引動す物なりと春臺の云れし由、君修の話也。」とある(web上の参考)。
p.20 弘法大師・三教指帰
「五穀は血を腐らせるの毒」(弘法大師・三教指帰)
◎弘法大師全集(壷井国三 編、壷井老舗、明33.7)巻中/p.13, 12行目〜p.14, 1行目
※上記『全集』には「五穀者腐腑之毒」とあり、「腑」は「血」でなく「内臓」のことか。
p.21 男色大鑑巻五
「いつ迄も此のままの児子ならば目出たかるべし、若衆と庭木と大きくならぬものならばと、物ずきのよき遠州も申されしとなり」(男色大鑑巻五)
○223/男色大鑑(本朝若風俗) 八冊 貞享四年 大阪 深江屋太郎兵衛、京 山崎屋市兵衛、江戸 万屋清兵板
井原西鶴。巻一、色はふたつの物あらそひ。此道にいろはにほへと。垣の中は松楓柳は腰付。玉章は鱸に通はす。墨絵につらき釼菱の紋。巻二、形見は弐尺三寸。傘持てもぬるる身。夢路の月代。東の伽羅様。雪中の時鳥。巻三、編笠は重ての恨み。嬲りころする袖の雪。中脇指は思ひの焼残り。薬はきかぬ房枕。色に見籠は山吹の盛。巻四、情に沈む鸚鵡盃。身替りに立名も丸袖。待兼しは三年目の命。詠めつゞけし老木の花の比。色噪ぎは遊び寺の迷惑。巻五、泪のたねは紙見せ。命乞は三津寺の八幡。思ひの焼付は火打石売。江戸から尋て俄坊主。面影は乗掛の絵馬。巻六、情の大盃潰胆丸。姿は連理の小桜。言葉とがめ耳にかゝる人様。忍びは男女の床違ひ。京へ見せいで残りおほいもの。巻七、蛍も夜は勤めの尻。女方も為なる土佐日記。袖も通さぬ形見の衣。恨見の数をうつたり年竹。素人絵に悪や金釘。巻八、声に色ある化物の一ふし。別れにつらき沙室の鶏。執念は箱入の男。小山の関守。心を染し香の図は誰。巻一の一に男女両色優劣論あり。此書「本朝若風俗」と改題せし本もある由。また「玉川心淵集」四巻あり。大鑑自大五巻至第八巻と同文。〔小寺玉晁「難廼為可話」惜玉文庫(明治二十四年二月古書保存会)は「本朝若風俗」と題す。帝国文庫。浮世草紙。古典全集。名著全集。古典文庫複製本。〕
〔附〕「西鶴輪講男色大鑑」(三田村鳶魚外七人)江戸読本自第三巻第一号(昭和十四年十二月十日)至第八号(昭和十五年七月十日)中絶。
◎西鶴全集 上巻 (帝国文庫 ; 第23,24編、尾崎紅葉, 渡部乙羽 校訂、博文館、1894) 男色大鑑 巻5 面影は乗掛の絵馬/p.663, 12〜14行目
p.23 三田村鳶魚
(出典なし)
柳腰というものが、元来は若衆の「ほそやかなる腰の辺りの模倣」に出ていることを指摘したのは、三田村鳶魚だったと思うが、
※『書志』に鳶魚の「775/柳腰の研究」があるが未詳。
p.23 江戸から東京へ(矢田挿雲)
『江戸から東京へ』(矢田挿雲)の中には、次のような話が出ていた。さる高名な国学者とか儒者とかが、たまたま一夕招かれた宴席で、酒つぎ役に呼ばれていた「蔭間」に眼をとめ、愕然として、「あれは何者か」との問いを発したというのだ。さすがに老先生は、自分が学問道徳という男性ダンディズムの一方の旗がしらであっただけに、□(レン/戀の心が女)童の美を、その本質的部分において感じ取ったのだと思われる。
○786/江戸から東京へ 九冊 自大正十年三月至大正十四年六月 金桜堂書店、東光閣書店版
矢田挿雲。第三冊、四九、梅若の故事。九五、辻講釈の元祖。第四冊、一一二、堀田原の由来。第六冊、六九、吹上の御前公事。第七冊、一五、梅若丸異説。第八冊、四八、ガゲマ盛衰記。〔現代大衆文学全集。春陽堂文庫。〕
◎(送信サービスで閲覧可能)江戸から東京へ 第4巻(矢田挿雲 著、再建社、1953)/p.171, 5行目〜p.172, 6行目
※上掲書によると、主人公は「国学者」や「儒者」でなく、「水野越前」。
p.24 宗祇法師・若衆短歌
「見るからに誰をも心を悩ますは、かたちは余りすぐれねど、身持やさしくはなやかに、心気高くおほやうに、手足のはづれ美しく、常に空焼きたきしめて、身をも髪をもにほやかに、ふりも心も人なれて、心にあふもあはぬをも、あいあいとしておとなしく、月を哀れみ花ながめ、ただ何事もいろふかく、おもひ入りたる人をこそ」(宗祇法師・若衆短歌)
〇140/宗祇法師長うた
若衆身もち、よき女房の身もち、あしき女房の身持、宮つかへによき女房、宮つかへあしき女房の五篇の長歌を収む。中に就いて「若衆身もち」は「いぬつれづれ」巻末に掲ぐる「若衆短歌」と同文なり。「いぬたんか」等とは全くの異文なり。本文は「みるからに誰もこゝろをなやますは」云々にて始まる。「宗祇法師長うた」は続群書類従巻九四六の「仮名教訓」の内に在り。「実隆公記」永正六年二月十六日の条に「歳阿為室町殿御使者来、若衆教訓之短哥宗祇作云々、可書進之由也、畏奉之由申之」と見えたるは、此歌を指せるにや。右の若衆短歌は文は異同多けれど既に実暁記に記載せられ、元亀三年閏正月十八日の書写奥書ありといふ。(後藤丹治氏「中世国文学の研究」第八章宗祇の教訓歌)因に文政五年の模刻本「そうぎのたん歌」(横本一冊上野図書館蔵)「そうぎのたんか」(慶長十五年奥書、蓬左文庫蔵)には若衆身もちの一篇無し。
◎江戸時代文芸資料 第四 (国書刊行会刊行書)「いぬつれづれ」巻末「若衆短歌」/p.18, 下段5〜13行目
p.25 若衆短歌
「身をも清めずかねつけず、楊子つかはずむざむざと、物知り顔のりこうして、そら歌唄ひうそぶきて、賤しき子供と伴ひて、それに倣へばいふ事も何かやさしきことあらん」(若衆短歌)
〇140/宗祇法師長うた(既出、p.24)
◎江戸時代文芸資料 第四 (国書刊行会刊行書)「いぬつれづれ」巻末「若衆短歌」/p20, 4〜8行目
p.25 戯言養気集
大小の稚児利鈍の事──
天正八年春、貞安、安土城へ出仕、信長は「世間多く小ちごを利口に、大ちごをおろかのように云うのはどんなものだろう。小さい時に利根ならば大きくなるほど増々利発になる筈だが」貞安「陽道が近くなるせいでしょうか」嵯峨の策彦和尚というのに問われると、「愚僧もそうだと思います。小ちごはまだ里心があるから武家の利発、不覚、身にも心にもつきそうていますが、すでに寺に馴染むと長袖のぬるい振舞を見馴れ聞馴れて、横着になるからではないでしょうか」信長殊の他満足して、「尤もの答じゃ。出家にもそれぞれ気質がある。佐久間の家来は大たいしとやかで分別もありそう。滝川は士風がきっちりしていて丈夫にあるようだし、柴田はどこかむたいにおし破りそうなり」(戯言養気集)
○114/戯言養気集 二冊 元和年間刊
巻上、山寺の下ほうしお児さまへ。おちごさま山上一のとある二和尚と。人によりことばなんどをば。又さるわかしうねんじやとねて。かうやひじりさるわかしうに。お長と云わかしうに。ある人わかしうを見て。小児さま里に久しく。一条辺によきわか衆有。小児ねんじやの弁殿へ。〔未完随筆百種。〕
◎変態文献叢書 追加 第2巻/p.33, 5〜16行目
p.26 大伴家持・万葉集巻第四・藤原朝臣久須麻呂に寄せる
「花さきがたき梅」(大伴家持・万葉集巻第四・藤原朝臣久須麻呂に寄せる)
◎日本古典全集 萬葉集略解 2(与謝野寛 等編、日本古典全集刊行会、大正14-15)/p.207, 7〜11行目
※歌の全文は、「うらわかみ はなさきがたき うめをうゑて ひとのことしげみ おもひぞわがする」。
p.26 春風のおとにし出なば……
(出典なし)
「春風のおとにし出なば有りさりて今ならずとも君がまにまに」
◎日本古典全集 萬葉集略解 2(与謝野寛 等編、日本古典全集刊行会、大正14-15)/p.208, 1〜4行目
※先の「花さきがたき梅」の歌を「向うに廻して」とタルホは言っているが、この「春風のおとにし出なば…」は久須麻呂でなく、同じく家持の歌。
p.26 葉隠
「衆道の極意は死ぬことに候」『葉隠』が云っているのもそこである。
◎葉隠 : 鍋島論語(中村郁一 編、葉隠記念出版会、大正5)第一巻/p.70, 3行目
※原文は「命を捨つるが衆道の至極なり」。
※p.206にも当該箇所を含む引用あり。
※『葉隠』には、「武士道と云ふことは、即ち死ぬことゝ見付けたり。」(同上書、第一巻/p.17, 8行目)というのがあり、混同しやすい。
p.26 弁の草紙
弁の君とついに相思う仲になった法師大輔は、閨に散らばった少年の髪の毛を掻き集め、懐紙に包んで喜んでいたが、嬉しさの余りわずか七日目に世を去り、弁昌信も又歎きの床に臥して、これも十五歳を一期として念人の跡を追った。(弁の草紙)
○100/弁の草紙 一巻
〔真鏡坊昌證〕。日光山の稚児千代若丸剃髪して弁昌信といふ。一山の僧衆之を愛でぬはなし。大輔といへる法師一しほ深く思を寄せて遂に相思ふ仲となりしが、余りの嬉しさに大輔は思詰めて七日目に世を去る。弁昌信はいたく悲嘆して病床に臥しこれも齢十五を一期として愛人の跡を追へりといふ。此物語を事実なりとする「弁草紙考」(平泉澄、歴史地理第三十七巻第一号)あり。〔室町時代小説集。文学大系。新釈日本文学叢書。岩波文庫。旅と伝説十の八。雄山閣文庫。新編室町時代小説集。〕
◎室町時代小説集(平出鏗二郎 編校訂、精華書院、1908)/p.157, 8行目〜
※『書志』の冒頭にある「真鏡坊昌證」は、「真鏡坊昌澄」の間違いではないか。上掲書p.160, 3〜4行目参照。
p.26 徳川十五代史・第一篇
「慶長十八年八月二十五日、浅野紀伊守幸長、衆道を好みて疾を致して卒す」(徳川十五代史・第一篇)
○699/徳川十五代史 十二編十二冊、明治二十六年九月(一八九三) 博文館版
麻績斐。桜井美成纂定。附録雲井龍雄伝(纂定者著)。雲井龍雄其師安井息軒より血気を防遏する一策として衆道を勧めらるゝ記事あり。(漆山氏)
◎徳川十五代史 巻之1, 2(内藤耻叟 編 博文館 明25-26)/p.183, 2〜3行目
p.27 明和六、略縁起出家形気巻一
「とても若衆と仏壇とは置き所のないのはお定りじゃ」(明和六、略縁起出家形気巻一)
○497/略縁記出家形気 五冊 明和六年 京、八文字屋八左衛門板
八文字自笑(二世)。別に「当世法談出家気質」と題する本あり(浮世草子目録)。巻一の三、寄橋姫衆道。巻四の二、寄長生上人。(平井氏)〔帝国文庫。〕
◎気質全集 (帝国文庫 ; 第30編)博文館、1895/p.334, 1行目
※『書志』にある「略縁記出家形気」は、『帝国文庫』を見ると、タルホが記しているように「略縁起出家形気」となっているので、誤記だろう。
p.28 醒睡笑・巻五
「橋立の松のふぐりも入海の波もてぬらす文殊しりかな」(醒睡笑・巻五)
○117/醒睡笑 八巻 寛永五年刊(一六二八)
安楽庵策伝。此書板本数種ありて本文また異同あり。後のものは増補あり。爰には増補本に拠れり。巻一、三井寺に貧しき僧。巻二、若衆あり念者にむかひて。念者が若衆にむかひて。巻三、根来にて岩室の梅松。巻四、比叡山にて。児に髪をゆひてまゐらする侍従。或僧若衆のかたへ。或者恋慕したる若衆の東国に下るを。巻五、住吉の花のさかりに。博奕の上手二人。小者を語らひて若衆にもち。山の一院に児三人あり。住吉ときく松原に。堂前にふりたる松一本あり。山に児三人あり。巻六、叡山西塔に児達よりあひて。尾州に笠寺の観音とて。児を請じて謡うつ舞うつすれども。ある時宗長笠寺に参られし。師が児によりより。大児を誰人の賞翫しけるにや。児のとまりに来て。児といねたるに。児を請じて。児を呼びて伽の人など集め。若道不知七篇。時宗の寺に長阿弥といふ喝食あり。赤根のうらに島の表の小袖きたる。武士たる人若衆と知音せられけるを。貧なる僧の。情ふかき児のもとへ。物事心がけある人へ。若輩なる僧。巻七、小者のみめよきが。若衆と二人いねてありし法師が。おどけもの縁を行きちがふとて。人ありていふやう。巻八、宗長紫野に居住の時。珍客は若衆なりし。よき若衆をともなひたる僧を見て。若衆ぐるひをするというて。〔百万塔。続帝国文庫。有朋堂文庫。滑稽全集。近代文学。随筆大成。第一輯東方叢書。〕
◎滑稽本集(国民文庫刊行会 編、1912.10)/p.677, 6行目
※タルホ引用の歌は、巻5の「堂前にふりたる松一本あり」の段落にあり。
p.28 古今若衆序・細川玄旨法印幽斎
「久堅のあめにしてはすばる星、あまのはしだてにては文殊しりよりはじまり、あらがねのつちにしては、弘法大師よりぞおこりける。千早ぶる神代には、しりのあなもひろからず堅固にして、人の心も出がたかりけらし。人の世となりて弘法大師より三束あまり一つぶみはいれける。かくこそ穴をめで、ねづみをうらやみ、ふのりをあわれみ、つばをかなしむ心、ことわざおほくさまざまにありける云々」(古今若衆序・細川玄旨法印幽斎)
○101/古今若衆序 一巻 天正十七年(一五八九)
〔細川玄旨〕。当時の児小姓評判記の如きもの。好色本目録に曰く「古今若衆一冊刻梓年号なし、男色の事を古今の序にならひて作れり、巻中に天正の年号あり、「我衣」といふ随筆の追加に此文を載せて細川幽斎の作と記したり。末に載たる歌は雄長老狂歌百首なり、後人彼と是と取合せて刻梓せしものなるべし。」天和元年板「書籍目録大全」に「古今若衆一冊」と見ゆ。〔三十輻。軟派珍書往来。〕
◎三十輻 第4 (国書刊行会本、大田南畝 編、大正6)/p.479, 上段11〜下段4行目
※タルホ引用中の「三束あまり一つぶみ」は、『三十輻』本では「三束あまり一つぶせ」となっている。『大辞林』によると、この「ぶせ」は「伏せ」のことで、「矢の長さをはかるのに用いる語。一束(いっそく)、すなわち手の親指以外の四本の指で握った長さに足りない場合に、指一本の幅に当たる長さを単位としていったもの。「三人張に十五束三伏せ、ゆらゆらと引渡し/太平記一六」」とあるので、これに相当する語で、「一つぶみ」は誤記であろう。
p.29 増鏡第十六、秋のみ山
「この殿(関白藤原家永)若くおはします頃は、女にもむつまじくおはしまして、この右大臣殿(経忠)などもいでき給ひける。中頃よりは男をのみ御倖にふせ給ひて、法師の児のやうにかたらひ給ひつつ、ひとりふたりづつ、いと花やかに時めかし給ふ事けしからざりき、左兵衛督忠朝といふ人もかぎりなく御おぼえにして、七八年ほどいとめでたかりしが、時すぎてその後は、成定といふ諸大夫いみじかりき、この頃は、又隠岐守頼基といふもの、童なりし程よりいたくまとはし給ひて、きのふけふまでの御召人なれば、御ぐしおろすにもやがて御供仕うまつりけり、病おもらせ給ふほども、夜昼御傍はなたずつかはせ給ふ、既にかぎりになり給へる時、この入道(頼基)も御後にさぶらふに、よりかかり給ひながら、きと御覧じかへして、あはれもろともにいでゆく道ならば嬉しかりなむ、と宣ひもはてぬに御息とまりぬ、右大臣殿も御前にさぶらはせ給ふ、かくいみじき御気色にて果て給ひぬるを心うしとおぼされたり、さてその後かの頼基入道も病づきて、あと枕も知らずまどひながら、常は人にかしこまるけしきに衣ひきかけなどしつつ、やがて参り侍る参り侍る、とひとりごちつつ程なくうせぬ、粟田の関白のかくれ給ひし後、夢見ずとなげきし者の心ちぞする、故殿のさばかり思されたりしかば、とりたまふなめりとぞいみじがりあへりし」(増鏡第十六、秋のみ山)
○35/増鏡 三巻 建武中興後間モナク成立(一三三四)
巻上、内野の雪(二品法親王地蔵菩薩に似させたまへるといふこと)。巻下、秋のみ山(関白家平のこと)。〔国史大系。有朋堂文庫。国文叢書。文学大系。岩波文庫〕
◎日本文学大系 : 校註 第12巻(国民図書、大正14-15)/p.805, 5行目〜p.806, 3行目
※『文学大系』は『国史大系』と異同あり。
p.30 元禄十六年板・松の葉
いとし若衆と小鼓は
締めつゆるめつ調べつつ
寝入らぬ前に
なるかならぬか
なるかならぬか (元禄十六年板・松の葉)
〇366/松の落葉 六冊 宝永七年 京、井筒屋庄兵衛、万木治兵衛板
此書元禄十七年板「落葉集」(七冊、大木扇徳編)の改竄にして宝永六年板「松竹梅」五冊の増補改題本なり。(日本文学書目解説上方江戸時代)首巻の二十、桜つくし。巻四の五十二、権之助踊。六十四、しててん奴踊。八十四、梅の木踊。巻五の四十五、おつゞら馬。〔新類従。有朋堂文庫。日本歌謡集成。岩波文庫〕
◎近代歌謡集 (有朋堂文庫、藤井紫影 [校]、昭2)/p.175, 1行目
※『書志』が掲げているのは「宝永七(1710)年板・松の落葉」だが、タルホが引用しているのは「元禄十六(1703)年板・松の葉」。上の『近代歌謡集』(有朋堂文庫)でも、「松の葉」と「松の落葉」の奥付で、それぞれの刊行年が確認できる。
※「すばりと文殊」(1968年)に、「江戸初期を主とした抒情小曲集で、元禄十六年刊の『松の葉』に、こんなのがあることを吉田精一氏に教えてもらった。」とある。
p.30 醒睡笑
すばり──
よしくもれくもらば月の名や立たんわが身一人の秋ならばこそ
よしすばれすばらば若衆なや立たん我身一人のすきならばこそ(醒睡笑)
○117/醒睡笑(既出、p.28)前の2首のみ
◎滑稽本集(国民文庫刊行会 編、1912.10)『醒睡笑』巻6/p.698, 14,15行目
※『醒睡笑』は前の2首のみ。「咲かねる梅花の口やすばる星」「明月やなほちぢけたり昴星」の出典未詳。
p.31 いぬつれづれ
問「此頃の人々のいろいろ沙汰しても遊び給ふ若衆狂ひといふ事は、何を以て風流となしたまふや。
答「心の情を花として、互の思ひ入り深きをもつて風流とす。
問「此道を若きより好かで遂にその心を知らず。いまだ六七十に至るまで、人の上をよくみるに、ただ尻のしたしきのみと思ふはひが事にや候らん。
答「かつてそれにては非ず。一とせ二とせの中にも、僅か一ど二ど、あるひは一どもなき事あり。されどもその事を思はず、ただ心ばかり情なり。
問「心の情ばかりを風流の花とせば、互に年寄、命の終るまでも言ひかはし、事たがはず親しかるべきに、必ず此道の知音、末を遂げて仲のよきは稀なり。品かはり肌こはごはしくなれば、心に秋風立ちて、いはれぬ恨みなどいひいで、はては物をも言はずなりて、行ききもたえだえになり。されば年若き時ばかりの物と見ゆるは、ただいかにもして、やはらかなる時の尻ばかりなるべし。その事をいはず、よき様にとりなしていふなるべし。野山、四阿、舟のうちにても、尻をしたる人をば命のある中は思ひ出ると見えたり。たとひ二ども三どもいひわたり、数多たび話しても、心の情ばかりは忘れ易し、と見えたるは如何に?
答「………
暫くして、「それは汝がいよいよ此道を知らざる故なり」と云ひ棄てて逃げてしまつた。(いぬつれづれ)
○137/いぬつれづれ 二巻 承応二年(一六五三) 高田弥兵衛板
衆道の随筆集なり。末に「若衆短歌」を附載す。京大国文研究室に元和五年書写巻子本あり。それは本文は異同多く、「若衆短歌」を缺いてゐる。〔江戸資料。〕
◎江戸時代文芸資料 第四 (国書刊行会刊行書、1916)「いぬつれづれ」/p.17下段12行目〜p.18下段2行目
※タルホは、この一節を整理して問答のセリフに改変している。
※いくつか異同が見られるが、特に「やはらかなる時の尻ばかりなるべし」は、上の『江戸時代文芸資料』では「やわらかなる時したきばかりなるべし」、また「たとひ二ども三どもいひわたり」は「たとい一とせ二とせいひわたり」とある。
p.32 雨月物語
『雨月物語』中の青頭巾のNekrophagie(死屍愛好)は、実は中国文学の翻案によるもので、そういう伝統は我国には存しない。
○522/雨月物語 五冊 安永五年(一七七六) 京、梅村利兵衛。大坂、野村長兵衛板
上田秋成。巻一、菊花の約。巻五、青頭巾。〔帝国文庫。名著文庫。国民文庫。秋成全集(国書刊行会及富山房)。有朋堂文庫。名著全集。近代文学。いてふ本。岩波文庫。〕
◎有朋堂文庫 〔第36〕(塚本哲三 等編、大正6)雨月物語、巻之五/p.311〜
※「雪中に埋めた少年の死体の臀部だけを出して、その焦点に蝋燭を差し込んで火を点じるようなことは、日本人は到底思い付かない。」の出典未詳。
p.33 小倉叢書・鵜之真似
小倉城主、小笠原右近がペットを失い、「前髪を見れば悲し」とあって、残りの小姓たちをみんな元服させた。(小倉叢書・鵜之真似)
○647/鵜の真似 一巻
児島礼重。古へ御小姓の面々は前髪長し。(小倉城主小笠原右近小監忠雄寵童の死により前髪を見れバ悲哀深しとて小姓達を元服せしめし事を記す)(南方氏)〔小倉叢書(大正十五年三月小倉市静観堂刊)〕
◎〈国会図書館デジタルコレクションになし〉
※タルホの文章は、『書志』の解題をリライトしたもの。
※本書は、『小倉藩歴史叢書・鵜の真似』として2004年に復刊(鵬和出版)されている。ただし著者名は「児島」でなく「小島」。
p.34 よだれかけ・巻五
「本朝にかく此道さかんになり侍るは、伝教弘法二大師渡唐の時、天親菩薩にならひ奉りて、帰朝後の事なりと理尽抄には書けり」(よだれかけ・巻五)
○161/よだれかけ 六巻 寛文五年(一六六五) 中野太郎左衛門板
楳条軒。承応二年の作にかゝる。巻五、巻六の両巻を一名「男色二倫書」となす。男女両色の優劣論あり。(平井氏)〔江戸資料。珍書刊行会本。〕
◎江戸時代文芸資料 第四 (国書刊行会刊行書)「よだれかけ」巻5/p.52, 上段14〜17行目
p.34 『往生要集』衆合地獄の条
恵心僧都著『往生要集』衆合地獄の条には、「此大獄ニ十六ノ別所アリ。其中ニ一処アリ。悪見所ト名付ク。他人ノ児子ヲ強逼シテ邪行ヲ侵シ、叫バハリ泣カシムルモノ、此処ニ堕チテ苦ヲ受ク。自ラノ児子ヲ見ルニ、地獄ノ中ニアリ。獄卒、鉄杖、鉄錐ヲ以テソノ陰中ヲ刺シ、モシクハ鉄鉤ヲ以テソノ陰中ヲ抉ル。既ニ自ラノ児子ノカクノ如キ苦事ヲ見テ、愛心悲絶シテ堪エ忍ブベカラズ。然レドモコノ愛心ノ苦ハ、自ラガ火ニ焼カルル苦ニ比ブレバ、未ダ十六分ノ一ニモ及バズ。愛心ノ苦ニ逼ラレ已リテ、又我身ノ苦ヲ受クルナリ。先ヅ獄卒コノ者ヲ例ニナシ、銅ヲ湯ニ沸シテ糞門ニ灌ゲバ、身内ニ流レ入リ、遍ク五臓六腑ヲ焼イテ口鼻ヨリ流レ出ルナリ。具サニ身心ノ苦ヲ受クルコト無量百千年ノ中ニ止マズ。又、多苦悩所ト云フ処アリ。男ガ男ニ愛着シテ邪行ヲ犯シタル者、此処ニ堕チテ苦ヲ受クルナリ。本ノ男子ヲ見レバ其身悉ク熱炎トナリ、来リテ其身ヲ抱クニ、此男身体皆焼カレテ熔ケ散リ、死ニ終リテ又生キ返リ、極メテ畏怖ヲ生ジ、走リ避ケテ険シキ岸ヨリ落チケルヲ、炎ノ嘴アル烏、炎ノ口ノ野干アリテ、コレヲ啄ミ且ツ喰フ云々」(以上漢文)
○2/往生要集 三巻 永観三年(九八五)成立不詳
源信。巻上、衆合地獄の悪見処多苦悩の苛責を抒して衆道を戒むる記事あり。〔仏教全書。浄土宗全書。岩波文庫〕
◎浄土宗全書 第15巻 再版(浄土宗典刊行会 編、昭和3-9)往生要集・巻上/p.3, 下段6〜p.4, 上段1行目
◎恵心僧都往生要集 上(法蔵館、明44.6)/p.17, 5行目〜p.19, 1行目
※タルホは、引用箇所について(以上漢文)とわざわざ付記しているので、漢文体の『浄土宗全書』を掲げた。併せて和文体の『恵心僧都往生要集』も参考とした。
p.35 日本書紀巻九・神功皇后記
小竹祝と天野祝との交情が初まりだ、という説がある。この場合は、前者の死を悲しんで、後者が念友のなきがらの上に打ち重って自害する。ここにはネクロフィリーの連想があるが、同じ穴に合奏したので、辺りの土地は、陽の光を受けず夜の如く暗黒になった。棺を改めて別々にして初めて日輝き、昼夜に分たれたと。(日本書紀巻九・神功皇后記)
◎日本書紀 : 訓読 上巻 (日本古典全集 ; 第3期 [第18])(正宗敦夫 編纂校訂、日本古典全集刊行会、昭和7)巻第九/p.148, 9〜12行目
p.35 拾遺和歌集・雑の部
「山伏も野ぶしもかくて試みつ今は舎人の閨ぞ床しき」(拾遺和歌集・雑の部)
◎二十一代集 第2(太洋社 編、大正15)雑下/p.98, 7行目
p.35 狂言『老武者』
(出典なし)
堂本正樹氏(舞台演出家)によると、狂言の『老武者』では、お児の侶をして鎌倉へ行く途中、藤沢の宿へ着いた三位と称する従者が、「このお児は恥かしがり屋だからなるべく奥まった部屋へ案内してくれ」と注文する。(以下略)
〇59/老武者
狂言〔狂言全集。国民文庫。有朋堂文庫。文学大系。富山房百科文庫〕
◎狂言記 下 (有朋堂文庫)(野村八良 校、大正15)/p.80〜84
※出典未詳。
p.36 八尾
(出典なし)
なお『八尾』というのは、一人の亡者が火吹男の面をつけ、八尾の地蔵さんの文を棒の先にかざして立ち現われる。(以下略)
◎狂言記 下 (有朋堂文庫)(野村八良 校、大正15)/p.244〜246
※上記『狂言記 下 (有朋堂文庫)』では、「八尾地蔵」というタイトル。
p.37 万葉集巻四/大伴家持と藤原朝臣久須麻呂とのあいだの贈答歌七首
すでに『万葉集』巻四の終りに、大伴家持と藤原朝臣久須麻呂とのあいだの贈答歌が七首載っている。
◎万葉集 : 校訂頭註 上巻(藤村作 編、至文堂、昭和4)/p.117, 1〜10行目
※p.26に同様の言及。
※収録本は多々あるが、上記のテキストから当該箇所を以下に掲げる。
〈大伴宿祢家持報贈藤原朝臣久須麻呂歌三首〉
春の雨は、弥頻き降るに、梅の花、未だ咲かなく。いと若みかも。
夢の如、念ほゆるかも、愛しきやし、君が使の、数多く通へば。
うら若み、花咲き難き、梅を植ゑて、人の言繁み、思ひぞ吾が為る。
〈又家持贈藤原朝臣久須麻呂歌二首〉
情ぐく、念ほゆるかも。春霞、たなびく時に、言の通へば。
春風の、声にし出なば、在りさりて、今ならずとも、君が随意
〈藤原朝臣久須麻呂、来報歌二首〉
奥山の、磐蔭に生ふる、菅の根の、懃吾も、相念はざれや。
春雨を、待つとにしあらし。吾が宿の、若木の梅も、未だ含めり。
p.37 垂髪往来(建長五・1253)
『垂髪往来』(建長五・1253)は、蹴鞠、研学、舟遊び、連歌、童舞、雪見などの機会における美童の讃美である。
○23/垂髪往来 一巻 建長五年(一二五三)
釈門未愚宝の奥書。慶安四年十一月八日権大僧都綱教〔厳カ〕書写。十二箇月分に分ち正月毬杖、二月蹴鞠並に勤杯、三月研学の稚児、四月八幡宮寺大般若供養に於ける芸能の童、五月賀茂競馬見物、六月舟遊並に游泳、七月相撲会見物、八月別墅遊覧、九月連歌、十月舎利会の舞童、十一月雪見、十二月寵遇争ひ等に就きて美童の讃美を恣にせる往来集なり。
◎(送信サービスで閲覧可能)日本教科書大系 往来編 第2巻 (古往来 第2)(石川謙, 石川松太郎 編、講談社、1967)/p.235〜
※タルホの記述は、『書志』の解題を要約したもの。
※『書志』に収載書の記述がないので、底本を参照できなかったためか。
p.37 続門葉和歌集(嘉元三・1305)
『続門葉和歌集』(嘉元三・1305)は、宛ら少年愛歌集であって、総歌数一千首のうちの百六十八首が、醍醐寺の稚児五十七名の詠となっている。
○31/続門葉和歌集 十巻 嘉元三年(一三〇五)序
醍醐寺憲淳編。総歌数壱千首。就中稚児の歌詠百六十七首、醍醐寺の児五十七人の詠なり。〔類従一五四〕
◎群書類従 第204-205冊(巻154上下)/巻第一〜
※タルホの記述は、『書志』の解題の言い換え。数のデータだけなので、解題の引用で済ませたか。
※ただし、『書志』の「百六十七首」が、タルホでは「百六十八首」となっている。
p.37 稚児之草子
元亨元年(1321)には、『稚児之草子』が、いわゆる「児物」の先駆として現われる。
〇32/〔醍醐男色絵〕(既出、p.14)
p.37 秋夜長物語
(書名のみ)
○43/秋の夜の長物語(既出、p.16)
p.37 幻夢物語
(書名のみ)
○70/幻夢物語 一巻
此書嘗ては絵詞として「夜嵐」とも号したり(実隆公記)。幻夢といへる沙門叡山にて折から上京する日光山の稚児花松を見染め、帰国の後も慕うて東国へと旅立ちしが、花松は其間に父の仇を報じて既に世に亡し。それを知らずして亡霊と相会し、一夜を娯しく連歌の興行して明かせり。その際に紀念として懐紙と一管の笛を渡されしが、花松の死せるを知つて高野山に入つて念仏三昧の身となり、そこに於いて花松が父の仇の子に遭遇し、倶に念仏修行をしたりといふ。三国伝記、巻十二の第十五話、芸州西条下向僧逢児霊事は此物語と同じきなり。〔続類従五〇九。続集覧。第壹輯東方叢書。〕
◎続史籍集覧 第6冊(近藤瓶城 編、近藤出版部、昭和5)/p.61〜p.87
p.37 嵯峨物語
(書名のみ)
○80/嵯峨物語 一巻
紀中将康則未だ松寿君と称べる少年の頃嵯峨に住む一条郎とわりなき契を結ぶ。偶々少年は父の死に遭ひたるため元服して宮仕する身となる。悲嘆のあまり一条郎は文を送つて心事を愬ふるに次の年の八月今は中将となれる以前の松寿君の来訪を受けて心ゆくまで語り明かし、其後は旧情を戻して互ひに行交ひ繁くなりしといふ。〔続類従五〇九。続集覧。序文は「未刊中世小説」四(古典文庫)に収載。〕
◎続史籍集覧 第6冊(近藤瓶城 編、近藤出版部、昭和5)/p.111〜p.129
p.37 鳥辺山物語
(書名のみ)
○63/鳥辺山物語 一巻
武蔵国の学僧民部卿と京の少人藤の弁との情事を綴る。民部の帰国の後に心痛して弁の君は病む。急ぎ京に上る民部は途にて愛人の死を聞く。遽かに儚さを覚えて再び帰国せず。北山のほとりに庵をかまへて菩提を弔ふうち行方知れずになるといふ。〔類従二一一。続集覧。国文大観。文学大系。〕
◎続史籍集覧 第6冊(近藤瓶城 編、近藤出版部、昭和5)/p.89〜p.110
※上記『続史籍集覧』では、「鳥辺山物語」を「鳥部山物語」と表記。
p.37 松帆浦物語
(書名のみ)
○86/松帆浦物語 一巻
〔兼載〕(永正七年歿)。此書題簽を「松帆物語」とする寛永頃の整板本あり。宰相の君と藤の侍従とのはかなき恋物語。侍従を傍らより慕ふ左大将は二人の中を嫉み、自らの権勢をかりて宰相を淡路国へ追放する。侍従は宰相を恋侘びて思ひ人の流竄の土地へ赴きしに、其人既に世を去れり。□(人偏に及)て十六の齢を以て落飾を遂げて高野山に上るといふ。〔類従三一一。続集覧。国文大観。文学大系。古文ものがたり(畠山健)。〕
◎続史籍集覧 第6冊(近藤瓶城 編、近藤出版部、昭和5)/p.43〜p.60
◎日本文学大系 : 校註 第19巻(国民図書、大正14-15)/p.657〜
p.38 藤沢衛彦
(出典なし)
しかし天神様の細道じゃ、行きはよいよい帰りは怖い。これは、遠州の見付天神のことで、その奥ノ院の軟派猿神を指すのだそうである。(藤沢衛彦氏説)
※出典未詳。
※『書志』には、藤沢衛彦の「788/人買船」「793/稚児ヶ淵」「892/人商人考」を収載。
p.39 南方熊楠
(出典なし)
あの同じやるならでかいことなされ云々は、夙に明治初期の書生間で、相撲甚句の節まわしで歌われていたということが、南方熊楠翁によって指摘されている。
※『南方熊楠全集9』(平凡社)「岩田準一宛書簡」p.123に、「でかんしょう節の文句は知らねど、小生若きとき(明治十六年ごろ)、東京の書生等この唄をうたいし。「どうせなさるならでかいことなされ」、末句は〈しやれ〉を〈をほれ〉といいし。角力甚句の節なりし。」とあり。
※ただし、タルホは執筆時に平凡社版(昭和48年)を参照していない。ここでは参考に乾元社版(昭和26年)『全集9』/p.369, 4〜6行目から当該箇所を挙げておく。ただし(◎送信サービスで閲覧可能)。
※『書志』には熊楠の論考が数点挙がっているが、タルホが『少年愛の美学』で参照したのは主に「岩田準一宛書簡」ではないかと考えて参照したが、未詳のものも幾つか残った。
p.40 田岡嶺雲
(出典なし)
「其の職業化された所謂□(レン)童なる者は除外として、同性の愛は之を異性の恋に比すれば、柔婉の分子が少く峻烈な分子が多い、譬へぱ雛の節句の白酒と生一本の灘の銘酒との如き差別がある。異性の恋に於て男は情の沈溺を免れぬ。同性の恋に於ては寧ろ義の砥礪がある」(田岡嶺雲)
◎数奇伝(田岡嶺雲 著、玄黄社、明45.5)/p.126, 2〜6行目
※当該箇所は、上記書の(九)「初恋」の(2)「同性の恋」にあり。
p.40 春のやおぼろ(坪内逍遥)『一読三歎当世書生気質』
春のやおぼろ(坪内逍遥)著『一読三歎当世書生気質』十七冊の刊行は、明治十八年である。
〇687/一読三嘆当世書生気質 十七冊 明治十八年(一八八五)六月 東京、晩青堂刊
春のやおぼろ(坪内逍遥)。第九回。第十回。〔太陽第三巻第十二号(明治三十年六月)。明治文学名著全集第一編(大正十五年一月東京堂)。逍遥選集別冊。〕
◎現代日本文学全集 第2篇 (坪内逍遥集)(改造社、昭和4)/第九回,p.386〜p.393/第十回,p.393〜p.398
※タルホは言及していないが、『書志』が挙げている「第九回」と「第十回」の箇所を掲げておく。
p.40 山田美妙・新体詩集『少年姿』
ちょうど此頃に、山田美妙の新体詩集『少年姿』が発行された。平田三五郎、白菊丸、梅若丸、森蘭丸、印南数馬等々を取材にしたもので、後編には、日野阿新丸、楠正行等が取扱われる筈だったのが、その方は未完に終ったようである。
○689/新体詩華少年姿 一冊 明治十九年(一八八六)十月 東京、香雲書屋刊
山田武太郎(美妙)。平田三五郎。白菊丸。上田俊一郎。梅若丸。鳥屋福寿丸。蘭丸。大川数馬を謳へる新体詩集なり。外に考証数件あり。(平井氏)
〇690/続少年姿 一冊 東京、香雲書屋刊
山田武太郎。日野阿新丸、楠正行、佐々清蔵、山口小弁、堀三十郎を謳へる集。前記「少年姿」巻末の予告に見えたり。未刊に了りし歟。
◎少年姿 : 新体詞華(山田美妙 (武太郎) 著、香雲書屋、明19.10)/表紙
※タルホの文章は、『書志』689と690の記述を要約したもの。
※「「少年姿」巻末の予告に見えたり」は、p.78にて確認できる。
p.40 山崎俊夫『童貞』(大正五年頃、小川四方堂)
下って大正五年頃、山崎俊夫という、『三田文学』『帝国文学』『雄弁』『秀才』『文壇』などに創作を発表していた作家の、『童貞』と題した小説集が、小川四方堂から出ている。これは、少年側のデリケートな心理を取上げたもので、童貞、夜の烏、夕化粧、鬱金桜、きさらぎ、ねがひ、死顔の七篇が収録されている。岩田準一氏編のカタログでは、「悉く衆道情緒を以て書かれたる作品にて、稀有の小説集なるべし」との折紙がついている。
○759/童貞 一冊 大正五年(一九一五)一月 東京、小川四方堂版
山崎俊夫。童貞、夜の烏(童貞後日物語)。夕化粧。鬱金桜。きさらぎ。ねがひ。死顔の七篇を収む。悉く衆道情緒を以て描かれたる作品にて稀有の小説集なるべし。
◎童貞(山崎俊夫 著、小川四方堂、大正5)/扉
※タルホの文章は、『書志』の解題を援用したもの。
※「岩田準一編のカタログでは、……」もそこからの引用。
p.41 児玉花外・紺絣の少年と青葉の歌
(出典なし)
紺青の空晴れやかに
日本で染めた紺絣
紺の燕が少年を
慕うて低く飛べるかな(児玉花外・紺絣の少年と青葉の歌)
※出典未詳。
p.43 村山槐多
(出典なし)
げに君は夜とならざるたそがれの美しきとどこほり
げに君は酒とならざる麦の穂の青き豪奢
〇777/槐多の歌へる 一冊 大正九年六月 アルス出版
村山槐多。
◎槐多の歌へる(山崎省三 編、アルス、大正9)/p.40, 9行目〜p.41, 1行目
※「少年読本」(1930)年に、「村山カイタ」への言及あり。
p.44 伝木下杢太郎作詞
(出典なし)
君と呼ばれて顔赤め
音羽路上の語らひや
いまだ三五の幼な子が
心の血をば湧かしたる
記憶に残るそがかみの
誓ひし君に言問はん(伝木下杢太郎作詞)
※出典未詳。
※「少年読本」(1930年)に、「しかしこの方は「げに目覚ましき美少年……」にはじまる軍艦マーチの調子のものだ。」とある。
p.44 児玉花外
(出典なし)
金色なせる明星の
射るや桜の花びらに
其射るあとに少年の
眸の花にそそぐとき
花は散るなり雪の如(児玉花外)
※出典未詳。
p.45 大手拓次
(出典なし)
十六歳の少年の顔
うすあをいかげにつつまれたおまへのかほには
五月のほととぎすがないてゐます。
うすあをいびろうどのやうなおまへのかほには
月のにほひがひたひたとしてゐます。
ああ みればみるほど薄月のやうな少年よ、
しろい野芥子のやうにはにかんでばかりゐる少年よ、
そつと指でさはられても真赤になるおまへのかほは、
ほそい眉、
きれのながい眼のあかるさ、
ふつくらとしてしろい頬の花、
水草のやうなやはらかいくちびる、
はづかしさと夢とひかりとでしなしなとふるへてゐるおまへのかほ。 (大手拓次)
◎(送信サービスで閲覧可能)大手拓次詩集 (青春の詩集 ; 12)(神保光太郎 編 白凰社, 1965)/p.118〜119
p.45 萩原朔太郎
(出典なし)
「拓次が、愛する少年二人の姓名を組合わせてまで、美少年に傾倒していた初期の詩には、溢れるような高い詩想が窺われるが、中年以後異性に心を惹かれるようになってからはすっかり枯渇してしまった」(萩原朔太郎)
◎(送信サービスで閲覧可能)『藍色の蟇』(大手拓次 著 アルス, 昭11)の跋「大手拓次君の詩と人物」(萩原朔太郎)/p.563
※web上の(参考)
p.49 宗長日記
ちご小袖やなぎさくらをこきまぜてにやけのあたりはただ菊の花(宗長日記)
〇89/宗長手記 一巻 大永二年至七年(一五二二−一五二七)
柴屋宗長。数年に亘る連歌行脚の手記なり。伊勢路、大和多武峯、鈴鹿山のほとり、清見潟、熱田、下京の宿所、北野社、伊賀神戸のほとり、尾張津島、熱田の宮等にて児若衆に寄する感懐あり。また一休旧庵薪の報恩庵にて越年の連歌興行あり。また児若衆酒宴の招きを辞する情懐あり。また下野国那須助太郎愛せし童男の討死を嘆きて出家のこと。今川被官三浦弥太郎の愛せし斎藤四郎が主の死を嘆くを慰むることなどあり。〔類従三二六〕
◎群書類従 第408-409冊(巻326上下)/p.21, 6〜7行目
※タルホは『宗長日記』としているが、『書志』は『宗長手記』。
p.49 きのふはけふの物語
「若衆の御姿を見て、さてさてのこるところも御座ないとしみじみ賞むれば、そばなる坊主たち是をきき、仰せのごとく御かたちは天下一、おにやけは麝香入じやと云はれければ」(きのふはけふの物語)
〇115/きのふはけふの物語 二巻 寛永年間刊
巻上、山でらほうしさる御ちごに。よし野にての事なるに。有ひんそうが若衆に。ある若衆ねんじやと。巻下、おだの信長殿。さる寺へ参りけるに。おちごさま久々御里に。山寺のしやみが。山寺のそうしたしきだんなに。ぶだうなる坊主。若衆の御すがたを見て。ある若衆ねんじやと。又さる若衆ねんじや。かうやひじり若衆に。ある若衆もつての外に。御わか衆さまゆみや八まん。ある人うつくしきかつしきに。ある若衆のしつけを。〔続類従九八六。我自刊我。江戸資料。滑稽全集。近代文学。近世文芸資料1(古活字版・寛永整版の全文翻刻)。〕
◎江戸時代文芸資料 第四 (国書刊行会刊行書、1916)「きのふはけふの物語」下巻/p.30, 下段15行目〜p.31, 上段1行目
◎近代日本文学大系 第22巻(国民図書、昭和3)/p.815, 8〜9行目
※タルホは「おにやけは麝香入じや」としているが、『江戸時代文芸資料』では「おにやけはしゆごふ人じや」、『近代日本文学大系』では「おにやけはしゆがうにふぢや」となっている。
p.49 松屋筆記巻六十六
「今世のカゲマ垂髪のことをむかしは若気といへり。若気勧進帳あり。文明壬寅の冬の作也云々。今ニヤケ男などいふは男娼(ニヤケ)めきたる男のよし也」(松屋筆記巻六十六)
〇654/松屋筆記 壹百二十巻
小山田與清(弘化四年歿)。巻五十四の十五、前髪向フ髪。巻六十六の六十八、若気并男娼。七十九、喝食の髪。八十、江島児が淵并白菊投身。八十三、若衆垂髪喝食児若気。八十四、高野六十那智八十六尺中間小者火ノ番。八十八、念者遣人。九十二、男色をオカマと云事。九十四、男色密道若道。巻六十九の一、垂髪。巻七十の三、垂髪并棄髪。巻八十の六、一児二山王。巻八十一の九、己が陽物で穴をする。十八、□□□男子の化粧。巻八十五の十七、喝食。巻九十七の七十四、念人。巻百五の三十二、喝食宮仕を役す。巻百十五の百四、長唄道行。〔単行(明治四十一年七月国書刊行会)三冊。〕
◎松屋筆記 巻66(小山田与清)68「若気(ニヤケ)并男娼(カゲマ)」/59丁,左6〜7行目、右6〜7行目
p.55 野上豊一郎
(出典なし)
たとえば野上豊一郎博士が、あれほど能楽に詳しく、且つ好きなくせに、「ここに少年愛の影響は全く見られない」と断言しているようなのがそうである。
※出典未詳。
p.57 春山行夫
p.57 南方翁
(出典なし)
南方翁も、総じて西洋人が黄色に対して平気なことを書いていた。
※出典未詳。
p.63 芥川龍之介
p.64 稚児之草子
日本では此種の絵画としては、醍醐三宝院に伝わる絵巻物『稚児之草子』がある。
〇32/〔醍醐男色絵〕(既出、p.14)
p.64 往生要集・地獄篇
『往生要集』地獄篇の挿絵など、ボッシュ、ムンク、ベックリン、ピァズレーをして、跣で逃げさせることであろう。
〇2/往生要集(既出、p.34)
p.66 藤野一友
p.67 芭蕉
「名月や児たちならぶ堂の縁」(芭蕉)
◎新校芭蕉俳句全集(潁原退蔵 編著、全国書房、昭和22)/p.137, 3行目
p.67 福富草子
『福富草子』の挿絵は知らないが、屁合戦なら知っている。
◎福富草紙(写、文政元)/巻物
p. 67 『河童の尻子玉』(十返舎一九)
活字本のページに見付けたのであるが、原本は十返舎一九の『河童の尻子玉』か、『尻□〈手偏に挙の旧字〉げ御要慎』かにある筈だ。
〇560/河童の尻子玉 三巻 寛政十年(一七九八)
十返舎一九。(平井氏)〔続帝国文庫。屁(福富織部、大正十五年六月双文館刊)〕
◎落語全集 4版 (続帝国文庫 ; 第18編、石橋思案 校訂、博文館、1905)/p.936〜
p.67 『尻□〈手偏に挙の旧字〉げ御要慎』(十返舎一九)
〇561/尻□〈手偏に挙の旧字〉げ御要慎 三巻 寛政十年
十返舎一九。褌(福富織部、昭和二年五月成光館刊)
◎尾□〈手偏に挙の旧字〉御要慎 : 3巻(榎本屋吉兵衛、寛政10(1798))/絵入り
※〈デジタルコレクション〉の検索用書名は、「尻」でなく「尾」。
p.67 寛永版・醒睡笑
治部卿が児の手を取り、いろいろさまざまにことばを尽せども、ゆめばかりも領承せず、あげくにさかしくも児の利口こそ可笑しけれ、「わがしりは守護不入なり」と。治部卿、憎さのままの返答に、「それ程結構そうにな宣ひそ。守護不入のところから、さいさいぶの出たのをわれがよく聞き参らせたぞ」と。(寛永版・醒睡笑)
〇117/醒睡笑(既出、p.28)
◎滑稽本集(国民文庫刊行会 編、1912.10)/p.700, 12〜15行目
※上記『滑稽本集』では、「さいさいぶの出たのを」を「さいさい夫(それ)のでたを」としている。
p.72 江戸川乱歩
(出典なし)
幼少の頃、たとえば覚束ない夕暮時の戸外で、脇明けに手を入れて、ひとり佇んでいる折などに、我身のふとももの内側同士が擦れ合う感触に、なにか遠い天体に通じるような、それとも「死」を想わせるような、甘い、遣るかたのない寂寥の念を覚えた、と江戸川乱歩が回想記に書いている。
※出典未詳。『書志』には、乱歩の論考「1037/J・A・シモンヅのひそかなる熱情」「1048/槐多「二少年図」」「1055/ホヰツトマンの話」「衆道もくづ塚」「1068/サイモンヅ・カーペンター・ジード」を収載。
p.80 男色大鑑巻一
西鶴はさすがに芸術家だ。彼は、「女郎にふられての床と、痔の歌舞妓子としめやかに語る……」と、『男色大鑑』巻一の中に書き入れている。
〇223/男色大鑑(既出、p.21)
◎西鶴全集 上巻 (帝国文庫 ; 第23,24編)(崎紅葉, 渡部乙羽 校訂、博文館、1894)/p.560, 11〜12行目
※上記『西鶴全集』では、「歌舞妓子」は「歌舞伎子」。
p.85 小谷剛
p.86 丸山薫
p87 広島の若い詩人M君
p.93 古今四場居色競百人一首序
「往昔二柱のめぐり初めの打出しなりしを、鶺鴒の尾おもしろをかしきに感動して、今、人倫の一太極となれり。それを一転して、玄の又玄、衆妙の門、忽然としてしりへに有ことを、三国伝来つかふまつり云々」(古今四場居色競百人一首序)
〇(野郎評判記p.248)/古今四場居百人一首 一冊 元禄六年正月
童戯堂四転。鳥居清信画。「古今四場居色競」とも改題せり。〔演劇珍書刊行会本、米山堂本〕
◎古今四場居百人一首 下(稀書複製会 編、米山堂、昭和6)/59丁, 6〜9行目
◎変態文献叢書 追加 第2巻(文芸資料研究会、昭和3)/p.74, 15〜17行目
※『古今四場居百人一首 下』にある当該箇所は、タルホの言うように「序」でなく「後序」にある。
p.94 『中学世界』
(漫画)
p.105 『冒険世界特別号』明治四十二年八月号
「学生の暗面に蟠れる男色の一大悪風」
p.105 紅夢楼主人著『美少年論』
紅夢楼主人著『美少年論』(雅俗文庫版・和綴青表紙)が大正元年に発行されている。
〇745/美少年論(同性色情史) 一冊 大正元年 雅俗文庫版
紅夢楼主人。此書巻頭に序有るものは記念保存版として三部を作れりといふ。序無きものは稍々流布せり。第一、罪悪としての男色。第二、男色発生の動機。第三、男色の特徴。第四、男色関係の双方。第五、女性的傾向(エヅフエミネーシヨン)。第六、世界的男色(上)。第七、世界的男色(中)。第八、世界的男色(下)。第九、日本の美少年史。
※〈デジタルコレクション〉に見当たらず。
p.105 大阪時事新報
p.106 『東京朝日』明治三十五年三月二十九日
「麹町の少年殺し」
p.108 南方熊楠
(出典なし)
大英博物館で見たという菱川師宣の古版画のことを述べていたが、それは、公家官人ら立合いのP検査の二場面であった。
※『南方熊楠全集9』p.187に、「小生、在英中菱川師宣の古版画本を見しに、一人ありて、小男ながらことのほかの大物にて、楯板を七枚ばかり重ねたるを一物もて見事に打ち貫くを一同呆れ驚くところあり。次に、弁慶ごとき大入道を仰けに臥さしめ、公家官人等立ち会いて検査するにはなはだ小物なり。これも一同今さら吃驚のところなり。そのかたわらに、ちご一人と若衆小姓体のもの二人とこれを見おり。ちごは口に袖をあて艶羞の態を示す。かたわらの詞書きに、「チゴタチはあれを好こう」とありし。少年は一物の大なるを好まぬ意味なり。」とあり。
※(◎送信サービスで閲覧可能)乾元社版/p.326, 2〜6行目
p.110 徒然草第九十段
「いかが候ふらむ、頭をば見候はず」(徒然草第九十段)のやすら殿も例外ではない。
〇39/徒然草 二巻 元弘元年(一三三一)迄に成立
卜部兼好(観応元年寂)。春のくれつかた──。あやしの竹のあみ戸のうちより──。御室にいみじき児のありけるを──。大納言法印の召使ひし鶴丸──。〔収載書目略す〕
◎徒然草・方丈記・東関紀行 (修訂国文注釈全書)(大町桂月 著、隆文館、大正3)/p.74, 8行目
※タルホ引用の箇所は、『書志』解題の「大納言法印の召使ひし鶴丸──」の段にあり。
p.118 時実利彦教授
p.123 同性愛百人調査表
p.124 鹿火屋氏調査表 (『風俗科学』『あまとりあ』)
p.127 『奇譚クラブ』(昭三六・一)
■『少年愛の美学』における『男色文献書志』の役割
■附録/『少年愛の美学』における引用文献一覧
第2章 A感覚の抽象化
第3章 高野六十那智八十
も く じ
CONTENTS