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『少年愛の美学』における『男色文献書志』の役割

 『少年愛の美学』は、タルホの作品の中でも引用文献が非常に多いことが特徴です。中でも日本の文献──『男色大鑑』『醒酔笑』『若衆短歌』『古今若衆序』等々──が多くの割合を占めていることに気づかされます。タルホは日頃からこれらの古典籍に親しみ、それぞれの内容を自家薬籠中の物として、作品中に縦横無尽に引用しているかのような印象を受けます。もしもそうだとすると、それはどのような方法で為されたのだろうか。集めた文献(もしくは複写した文献)に付箋を付けたり、あるいは必要箇所を抜き書きしたノートを作ったりしていたのだろうか。そもそも、少年愛関係の文献をどのようにして集めたのだろうか。手許に本を置かない、ノートなど作らない流儀のタルホが、果たしてそんなことをしたのだろうか、等々、こうした疑問がずっと筆者の頭の片隅にありました。
 そんなとき、長い間ほったらかしにしていたある本のことを思い出しました。岩田準一編著『男色文献書志』(以下『書志』)です。この本は大昔、渋谷道玄坂にあった文紀堂という古書店で見つけて買ったことを覚えていますが、その後ほとんど開いてみることはありませんでした。実は今回、筆者は『少年愛の美学』の中の引用文献が、その『書志』にどのくらい収録されているか調べてみようと思い立ったのです。

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 『書志』の初版は昭和31(1956)年に刊行されたようですが、筆者が買ったのは、初版の内容に「男色異称集」を付録として加えたもので※1、昭和48(1973)年刊となっています。ちなみに、その後『書志』と同じ岩田準一による『本朝男色考』とを合本したものが、平成14(2002)年に原書房から刊行されています。
 『書志』は、その数1000を超える※2男色関係の日本の文献を年代順に並べた目録で、それぞれに書誌的な資料と解題を付した一大労作です。今回、タルホが『少年愛の美学』の中に引用した日本の文献と『書志』とを比較対照した結果、そのうちの多くが『書志』に掲載されたものであることが判明しました。中には、『書志』の記述をそのままパラフレーズしただけのものもいくつかありました。むしろ『書志』があったからこそ、『少年愛の美学』があのように数多の引用文を掲げる形式を取り得たのだ、ということが分かったのです。『少年愛の美学』は大いに『書志』の恩恵に与っていたわけです。
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 さて、タルホには「少年読本」(1930年1月「グロテスク」発表)という初期の作品があります※3。この作品のスタイルは『少年愛の美学』とは全く異なりますが、この「少年読本」は将来の『少年愛の美学』の萌芽が見られるような作品で、その原点ではないかという気もするのです。『少年愛の美学』でも引用されている〈稚児之草子〉〈村山槐多〉〈醒睡笑〉〈平賀源内〉〈木下杢太郎〉などといったアイテムも、すでにここに登場しているからです。
 その後、戦後になって間もなく、タルホは江戸川乱歩と対談を行い、その方面におけるお互いの蘊蓄を披露し合います(「E氏との一夕」※4)。もっとも、ここで蘊蓄を傾けているのはむしろ乱歩のほうで、タルホは、〈謡曲〉〈「賤のおだまき」の平田三五郎〉〈秋の夜の長物語〉〈鳥辺山物語〉〈幻夢物語〉などを持ち出して応酬する程度です。
 「いつか江戸川乱歩が、湯島の待合で、法律家の浜尾四郎と鳥羽の岩田準一を引き合わしてくれた」(「滝野川南谷端」※5)とあるように、乱歩は、タルホに岩田を引き合わせてくれた恩人です。ただし、この会合がいつ行われたのかはっきりしません。明石に帰省した昭和6(1931)年前後ではないかと思うのですが、そうだとすると、上の乱歩との対談からは15、6年前、上記「少年読本」とほぼ同時期のことになります。少なくともその頃から、そういった方面への関心でお互いに認め合う間柄だったことになります。
 この対談「E氏との一夕」は、4年後の昭和26(1951)年になって、「作家」誌上でタルホ自身によって大幅な増補・改訂がなされています。その中で特に目を引くものが3つあります。
 1つは、乱歩が学者らと醍醐三宝院の所蔵品の考証に出向いた折、絵心のある者を伴って、『稚児ノ草紙』を模写させたと察しられる絵を見せてもらったことがある、と述べていることです。そのときから「十数年が流れた」と言っていることから、その絵を見たのは、ひょっとして先の会合のときかもしれません※6
 2つ目は、対談に際して、乱歩が今東光(春聴)著『稚児』の種本だという写本を持参してきた、というエピソードが新しく付け加えられています。これは『少年愛の美学』の末尾に取り上げられている「弘児聖教秘伝」についての話です。
 3つ目は、対談時点での、岩田準一についての詳しい情報を披露していることです。それを以下に引用しておきます。

「この最後の岩田氏の研究7)は、往年、「紀泉科学」に二年に亘って連載されたが、室町時代まできて中絶している。そこまでが三百ページくらいの本になる、とE氏は云っている。綿密正確、日本同性愛文学史として先例のない業績であるが、岩田氏は戦時中惜しくも病歿した。──なお、この「本朝男色考」といかなる関係におかれているものかは不明であるが、すでに十五六年前、岩田氏から私宛に紹介があり、それは、現代日本文学にあって同性愛作家として、綿貫六助と稲垣足穂を逸するわけに行かないから今日まで貴下がものされた少年愛を扱った創作の題名、ならびに発表機関と年月を可及的詳細に知らしてほしいというのだった。……(中略)今回文献表※8は分厚い本になるので、職人を自家に呼んで、岩田自身監督の下に精巧なトーシャ版で五十部を作製し、そのうち十部をおも立った知友ならびに全国図書館に配布、残部は家蔵しておくつもりだとのことであった。計画はいよいよ刷る所まで運んだと推測されたが、パッタリ音信不通となり、ついにそのままとなった。先の未完結編※9と合わし、篤志家を俟って上梓、もって後世に伝えたいものだ。E氏ならびに私の切望である。」

 ここで「パッタリ音信不通」になったのは、岩田準一が昭和20(1945)年に病歿したからで、つまりその死によって、『書志』の原稿はそのまま遺稿として残されたことになります。
 筆者の手許にある『書志』の巻頭に置かれた乱歩による「序」(「昭和二十七年二月記」〔稀書第二号より〕と注記あり)によると、昭和22(1947)年に岩田準一の未亡人から『書志』の稿本を預かったとあります。それは「E氏との一夕」と同じ年になります。そして、その稿本は「稀書」という雑誌に連載することになったとあります。それは昭和27(1952)年の話ですが、実際にどの程度の分量が活字になったのかは分かりません※10
 こうして未だ『書志』が日の目を見ない状況が続いていた中で、タルホは昭和29(1954)年に、最初のまとまったエロティシズム論「A感覚とV感覚」を発表します。しかし、この作品は後の『少年愛の美学』と同様のテーマを扱っていながら、かなり趣が異なります。ここには引用文献はほとんどなく、西鶴の『好色五人女』第五話※11が登場するぐらいです。
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 さて、ここまで年代を追いながらくどくど書き記したのは、岩田準一の『書志』が刊行されたのが、昭和31(1956)年だったということを再確認するためです。これまでの話は、『書志』が刊行される以前、すなわち「前史」として位置づけたい、ということを示したかったのです。
 タルホがいつ『書志』の上梓を知ったのか分かりませんが、おそらく刊行後それほど間を置かないうちに手にしたのではないかと思います。「E氏ならびに私の切望である」と言っていた文献目録が、乱歩の尽力によって刊行されたことを、タルホ自身も大いに喜んだはずです。そして『書志』に目を通したタルホはすぐに、「よし、これで何か書ける!」と思ったことでしょう。それまで断片的に知るしかなかった文献が、『書志』の刊行によって、圧倒的な数の文献に、しかも書誌的な資料を付した形で接することが可能になったからです。つまり、これ以降のタルホの「少年愛」関係の作品と対比したとき(それは『少年愛の美学』に限りませんが)、それまでの作品は「前史」でしかなかった、と言えるぐらいの出来事だったのではないかと思います。
 それを念頭に置いてタルホの作品を見てみると、『書志』刊行後に発表された最初の「少年愛」(A感覚)関係の作品は、昭和32(1957)年の「Prostata〜Rectum機械学」(「作家」)であり、そして昭和33(1958)年の「ヒップ・ナイドに就いて」(「作家」)がそれに続きます。この後者こそ、後の『少年愛の美学』の初出作品に相当します。
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 この「ヒップ・ナイドに就いて」には、それまでの作品と違って、出典を明示した形で引用文が多数例示されています。これは後の『少年愛の美学』のスタイルで、明らかに『書志』を参考にしたことが窺われます。もちろん、『書志』以外にも、それまで蓄積したタルホの文献知識と、ここで新たに収集したであろう知識とが、そこに投入されているのは言うまでもありません。
 作品の中から、それ以前には取り上げられたことがなく、『書志』の登場を俟って初めて引用されたと思われる日本の文献をざっと拾い出してみましょう。

1.「小倉城主小笠原右近がペットを失い……」(※『鵜之真似』より)
2.『「男色二倫書」よだれかけ・巻四及び六』(※巻四は巻五の誤り)
3.『往生要集(衆合地獄の条)』
4.「『万葉集』巻四の終りに、大伴家持と藤原朝臣久須麻呂とのあいだに交された相聞歌」(※『書志』には万葉集は収載されていないが、『本朝男色考』には、この歌への言及あり)
5.『続門葉集』(※続門葉和歌集)
6.『男色山路の露』
7.山崎俊夫『夕化粧』
8.「最上川のぼればくだる稲舟の」(※『賎のおだまき』より)
9.『井尻又九郎若衆ノ勧進帳』(※「若衆」は、「若気」または「若道」)
10.『犬子集』
11.『贋筑波集』(※「贋」は「鷹」の誤りか)
12.『傾城禁短気・二ノ巻』
13.『近松の浄瑠璃・薩摩歌』

 このうち、4、10、11、13以外は『書志』収載の書目で、中でも1と5は、『書志』の解題をそのままパラフレーズしたものです。
 「ヒップ・ナイドに就いて」はその後、「増補・HIP-NEID」「少年愛の形而上学」「Principia Paedophilia」と増補・改訂を繰り返しながら引用書目も増えていき、最終的に『増補改訂 少年愛の美学』においては、別ページに掲げたように、『書志』に収載された文献が延べ100か所以上にわたって引用されることになります。ただし、書目別に勘定すれば60種ぐらいですから、『書志』に収められた書目数1093からすれば、ほんの5〜6%に過ぎません。


【註】
※1/同書にある江戸川乱歩の「序」には、「(昭和二十七年二月記)〔稀書第二号より〕」と付記してあるので、転用したもののようだ。また、本編とは序文の活字の書体が違うので、この版の刊行に際して付け加えられたものだろう。
※2/書目の通し番号は、1093まである。
※3/『多留保集4』収録、後に「新・犬つれづれ」と改題・改訂。
※4/「くいーん」(昭和22〈1947〉年)掲載、『タルホ事典』(昭和50〈1975〉年)収録。後に「作家」(昭和26〈1951〉年5月)にて改訂、『多留保集4』収録。『足穂拾遺物語』(高橋信行編、青土社、2008年)の解題に初めて、その初出タイトル「そのみちを語る・同性愛の・」と「昭和22・12」の月号が記載された。「E氏との一夕」の改訂プロセスについては、同書の解題を参照。
※5/「南方学の密教的な貌」にも同様の記述あり。
※6/「『稚児之草子』私解」(昭和38年、「作家」初出)に、「もう二十年以上の昔、この巻物の絵の模写のひと揃いを、池袋奥の江戸川乱歩邸で見せて貰ったことがある。」と述べているので、湯島の会合とは別の機会だったかもしれない。
※7/『本朝男色考』のこと。
※8/『男色文献書志』のこと。刊行されたこの『書志』には、タルホの作品が21編取り上げられている。「この「本朝男色考」といかなる関係におかれているものかは不明」と述べているが、岩田は「男色考」でなく、『書志』に収載するために、関係するタルホの作品データを求めたわけある。
※9/『本朝男色考』のこと。この論考は、昭和48(1973)年になってようやく「私家版」として刊行された。同書はその後、『男色文献書志』と合本されて平成14(2002)年に原書房より刊行。
※10/『足穂拾遺物語』(2008年)に収録された「岩田準一・後岩津々志」によると、タルホは「稀書」を5号分所持していたようだ。この文章は、毎日新聞の昭和29(1954)年2月12日に発表されたようなので、『書志』刊行前のこの時点で、活字の文献目録を、ある程度まとまって手にしていたことになる。
※11/「第五話」は「巻五」の誤り。ただし、「群像」発表の初出を見ることができないので、初出にも引用されていたかどうか未詳。
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 さて、問題はタルホがどのようにしてこれらの文献の中身を見ることができたのか、ということです。『書志』に収められているのは目録に過ぎないからです。
 その問題を考えるに当たって、最も有力な手掛かりとして、次の記述が挙げられます。

「いまは小樽に落付いているが夏休みには東京からやってくる大学生がいた。クラフトエビングとか、エリスとかモルとかいう性科学者は決ったように遠方に篤実な協力者を持っているものだが、K君も私にはちょうどそんな立場の読者である。彼は文献さがしが得手で、『前立腺=直腸』以後のエッセーには彼の好意による資料がふんだんに使われている。」(「東京遁走曲」)

「木ノ内洋二は、A感覚エッセーの愛読者として、一番最初に私をたずねてきた東京の大学生である。」(タルホ=コスモロジー)

「『稚児之草子』私解(二月第一七〇号)/この草子の伏字を埋めたのが見付かったと云って、小樽の木ノ内洋二がその写しを送ってくれた。」(タルホ=コスモロジー)

 これらを読み合わせると、「文献さがしが得手」なK君とは、木ノ内洋二氏であることが判明します。この木ノ内氏は、『少年愛の美学』では「Y・K君」として何度も登場する人物です。
 「『前立腺=直腸』以後のエッセーには彼の好意による資料がふんだんに使われている」とあるので、『前立腺=直腸』とは先に挙げた『Prostata〜Rectum機械学』(昭和32年)のことですから、次の「ヒップ・ナイドに就いて」(昭和33年)も当然そこに含まれるはずです。つまり、『書志』刊行後のA感覚エッセーには、彼が集めた資料が数多く使用されているということになります。
 では、どのような方法でタルホのもとに資料が集められたのか。タルホはすでに京都に移っていましたが、たとえば、『書志』の解題を読んで、興味を持った文献を木ノ内氏に通知して探してもらう。彼が当時東京の大学生であれぱ、国会図書館に行って調べるとか、神田の古書店で探すとかの方法が考えられます。『書志』には、当該文献が収録されている全集名や叢書名が記されているからです。
 しかし、そう考えるには困難な点があります。というのは、昭和30年代初めのコピーというのは、現像液を使用するいわゆる「青焼き」といわれる時代で、図書館で多くの資料を簡単に複写できるものではなかったはずです。今のようなコピーのもととなったゼロックスが出てくるのは1960年代になってからで、一般に普及するのはもっと後だからです。「小樽の木ノ内洋二がその写しを送ってくれた」という「『稚児之草子』私解」は1963年発表の作品ですが、「写し」というのは果たしてどんな方法だったのか。
 一方、古書店で入手するという方法についても、文献の多くは浩瀚な全集・叢書に収録されているものが多く、その中から必要な一部だけを抜き出して購入するのは難しいはずです。といって端本の中から探すのでは埒が明かないでしょう。
 あとは、南方熊楠ではありませんが、木ノ内氏が文献を片っ端から書き写したかです。しかし、タルホが引用する箇所は、文献全体のうちのほんの数行です。たとえ巻数を指示したとしても、それだけの種類の文献全体を、そのために予め書写するとは到底考えられません。
 資料集めに実際どのような方法が取られたのか、当事者の木ノ内氏に聞いてみたいものです。
 いずれにしても、タルホはその数行を抽出するために、数多の文献に目を通したことは間違いありません。それに費やした時間だけでも相当なものだったはずです。今回、〈国会図書館デジタルコレクション〉によって、引用文献をネット上で閲覧して、その思いを一層強くしました。「プリンキピアが仕上るまでどうか死なないように」と念じる気持があった」(タルホ=コスモロジー)と述べているように、『少年愛の美学』の完成に心血を注いでいた様子を、引用文献調査の上からも想像することができたのでした。
 今回、その〈デジタルコレクション〉のページにリンクを張りましたので、タルホの引用箇所の跡を確認することができます。
 今回調べたのは、『書志』を基にした日本の事例を扱った文献のみですが、もちろんクラフトエビング、エリス、モルといった外国人の翻訳文献についても、調査が必要なのは言うまでもありません。




■附録/『少年愛の美学』における引用文献一覧
第1章 幼少年的ヒップナイド
第2章 A感覚の抽象化
第3章 高野六十那智八十


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