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第3章 高野六十那智八十

p.283 南方翁
(出典なし)
パリではしばしば走使いのメッセンジャーボーイが自動車内へ引きずり込まれるということを、南方翁の書簡中で知って、(以下略)
※『南方熊楠全集9』(p.18)に、「山岡明阿の『逸著聞集』に、花園右大臣有仁(これも後三条帝(?)の皇子、人臣に下りしなり)が車の牛を使う少年を車の側に随身なき折を伺い、車中に召してすばやくきこしめしたことを記す。パリで今日も自働車使いの美少年を車中で犯すこと多きごとし。」とあり。
※(◎送信サービスで閲覧可能)乾元社版/p.293, 15行目〜p.294, 3行目

p.283 老子の「三宝」
(出典なし)
老子の「三宝」は、「慈」と「倹」と「敢えて天下の先とならず」とである。
◎(送信サービスで閲覧可能)世界の名著 第4(中央公論社, 1968)/p.138, 上段19行目〜下段2行目

p.290 林羅山
(出典なし)
林羅山は『徒然草』第四三段及び第四四段を取上げて、「これは東坡が季節を尋ねて風火洞に遊びし景気あるやうに覚え侍る」とやっている。
〇39/徒然草(既出、p.110)
◎(送信サービスで閲覧可能)国文註釈全書 〔第13〕「徒然草野槌」(室松岩雄 編、国学院大学出版部、明治42)/p.63, 下段12〜14行目
※43段は、『書志』が掲げている「春のくれつかた」、44段は「あやしの竹のあみ戸のうちより」のこと。

p.290 西鶴
西鶴は、神武帝が「此国、蜻蛉のとなめせる如し」と洩らしたのが秋津島根の初まりだとヨタを飛ばし、
〇223/男色大鑑(既出、p.21)
◎男色大鑑 : 本朝若風俗 第1卷(尾崎徳太郎 訂正、古書保存會、1891)/p.1, 4〜5行目
※p.219の西鶴『本朝若風俗』序文に出てくる「万の虫迄も若契の形をあらはすが故に日本を蜻蛉国ともいへり」のこと。
※西鶴は、「天照神代のはじめ」のことを言っており、神武帝が洩らしたとは言っていない。

p.290 平賀源内
平賀源内は「牛若は天狗に絞められ、敦盛は一ノ谷の松原で熊谷に云々」と書いている。
〇476/根南志具佐 十冊 前編宝暦十三年、後編明和六年 江戸、岡本理兵衛。本屋又七板
天竺浪人(平賀源内)。俳優荻野八重桐の溺死一件を綴れり。〔帝国文庫。百万塔。随筆大観。滑稽全集。平賀源内全集。〕
◎根奈志空佐 前篇 上(平賀源内 (風来山人) 著、霊湖堂、明18.3)/6丁左9行目〜6丁右1行目
※上記『根奈志空佐』は、『書志』の『根南志具佐』とは表記が異なる。
※タルホの引用箇所は、『書志』掲載の部分とは異なる。
※上記『根奈志空佐』では、おおよそ「熊谷の直実は、無官の太夫敦盛を須磨の浦にて引こかし、ハリハドツコイなされけるとうたはれ、牛若は天狗にしめられ」と読める。
※「少年読本」(1930年)に、源内のこの一文への言及あり。

p.290 海人藻芥(恵命院宣守撰)
「凡彼御代(鳥羽院)以前ハ男眉ノ毛ヲ抜キ鬚ヲハサミ、金ヲ付ル事一切無之云々」(『海人藻芥』恵命院宣守撰)
〇61/海人藻芥 一巻 応永二十七年(一四二〇)
恵命院宣守。堂上門跡の典礼故実を記したる書なれど、取分け児童子に関する記述最も詳細を極めたり。〔類従四九二〕
◎海人藻芥 3巻(恵命院宣守、銭屋五郎兵衛[ほか1名]、元禄7 [1694])/巻之下p.17, 4〜6行目

p.290 雍州府志(黒川道祐撰)
「鳥羽院時、甚だ男色を重んず、故に堂上男子十六七歳に及べば眉毛を剃り、別に突墨を以て隻眉を造り、白粉を以て面顔を粧ひ、鉄漿もて歯牙を染め、臙脂を爪端に傅け、専ら婦人の粧を為す云々」(『雍州府志』黒川道祐撰)
〇211/雍州府志 十巻 貞享三年刊(一六八六)
黒川道祐。巻七、土産門の下、眉作、髪ノ心。巻八、古蹟門の上、聴松院、芝居、相逢杜。〔続々類従。京都叢書。〕
◎(送信サービスで閲覧可能)京都叢書 : 新修 第3巻(光彩社、1968)/p.406, 下段6〜8行目
※上掲の『京都叢書』によれば、「鳥羽院時」でなく「後白河院時」。

p.291 『犬つれづれ』下巻
これが、『犬つれづれ』下巻に見える不破万作のエピソードの一つである。
〇137/いぬつれづれ(既出、p.31)
◎江戸時代文芸資料 第四 (国書刊行会刊行書、1916)「いぬつれづれ」/下段p.15, 11〜15行目

p.294 蕪村『妖怪図譜』
蕪村の『妖怪図譜』というのに、眼も鼻も口も耳もなく、只お尻に爛々とした一ツ目玉を光らせた「ぬっぽり坊主」が描かれている。
※『妖怪図譜』は、『妖怪絵巻』が一般的。
web上の(参考)

p.299 『田夫論』一巻(寛永年間刊)
『田夫論』一巻(寛永年間刊)は、若衆狂いに産を傾けて命を捨てるのも別に惜しいとは思っていない連中が、夏の夕方に軟派の一隊に喧嘩を吹っかける。
〇131/田夫物語 一冊 寛永年間刊
男女両色の優劣を諍ふ物語なり。両色優劣論の最初歟。〔雑誌早大「国文学研究」復刊三号〕
◎仮名草紙 上巻 再版(水谷弓彦 編、太洋社、大正14)/上巻p.25〜p.26
※上掲『仮名草紙』では、『田夫論』でなく『田夫物語』。

p.305 北原武夫
 (出典なし)
「男性の性的欲望というのは、恐怖と同じくすべて想像力によって生起するものであって、(以下略)」
※出典未詳。

p.308 南方翁
 (出典なし)
南方翁の「浄の男道」にしても、火と煙の内包を俟って初めて信用される。
※(『南方熊楠全集9』p.5)に、「およそ男色と一概にいうものの、浄と不浄とあり。古ギリシアなどにはこれを別つことすこぶる至れり。(浄とは東洋で五倫の一とせる友道の極致に過ぎず。)」とあり、また同p.15に、「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のものに御座候。」とある。
※(送信サービスで閲覧可能)乾元社版/p.291, 3行目

p.323 西鶴
 (出典なし)
「散りかかる花の下に狼が寝てゐる如し」西鶴が宮川町の蔭間遊びについて云った言葉である。
〇194/好色一代男(既出、p.19)
◎近代日本文学大系 第3巻 (井原西鶴集)(国民図書、昭2)巻5「命捨てての光物」/p.80, 11行目

p.324 若衆短歌
「今にとしより腰かがみ、しわうちよつて眉白く、耳も聞えず目も見えず、鼻うちたらしなることを、我人いかでのがるべし、身も清らかに美しく、人のこひしと思ふとき、よの思ひ出になさけあれ」(若衆短歌)
〇140 /宗祇法師長うた(既出、p.24)
◎江戸時代文芸資料 第四 (国書刊行会刊行書)「いぬつれづれ」巻末「若衆短歌」/p20, 上段10〜15行目

p.324 薬師寺与一
 (出典なし)
永正元年(一五〇四)九月四日、細川政元の被官摂津守護代薬師寺与一は淀城で敗れて、切腹した。その辞世に、「冥途にはよき若衆の有ければ思立ちたる旅衣かな」
※この薬師寺与一は、元長でなく、その子・元一のこと。ネット上の辞書では、「地獄にはよき我主のあるやとて今日おもひたつ旅衣かな」とあって、「我主」と「若衆」とを掛けているようだ。

p.324 よだれかけ・巻六
「むべなるかな、年老いたるものも此のみちにはまどふによりて、男色はおいをやぶると戦国の文にも見えたり」(よだれかけ・巻六)
〇161/よだれかけ(既出、p.34)
◎江戸時代文芸資料 第4(図書刊行会、大正5)/p.55, 上段15〜17行目
※「男色」は伏せ字になっている。

p.324 逸周書・巻二
「美男破老」
◎逸周書 10卷 校正補遺 1卷 [1]((晉) 孔晁 注, (清) 盧文(弓偏に召)校、彦根藩弘道館木活字印、天保2 [1831])/巻第二,武称解第六, 7行目

p.325 方丈記
「また麓に一つの柴の庵あり、すなはちこの山守が居る所なり、かしこに小童あり、時々来りてあひとぶらふ、もしつれづれなる時は、これを友として遊びありく、かれは十六歳われはむそぢ、その齢ことの外なれど、心を慰むることはこれ同じ」(方丈記)
◎有朋堂文庫 〔第7〕(塚本哲三 等編、有朋堂書店、大正元)/p.311, 5〜7行目

p.328 丸山薫

p.328 『方丈記』
『方丈記』著者の日野住いに、勤行の声をかき乱したのは門前に遊ぶ里わらべであった。
※p.216の「西鶴が書いている。『鴨長明は日野山の住いで、朝夕に門べで遊ぶ里わらべの声を聞いて、さぞかし誦経のリズムを邪魔されたことだろう』と。」を指しているのだろう。

p.329 鞍馬天狗
彼らだって、謡曲『鞍馬天狗』に倣って山伏姿に身を調えて。あら痛はしや和上臈は……とやりたいのは山々であるが、これには背景が必要だ。
〇44/鞍馬天狗(既出、p.232)
◎観世流謡曲本 12 鞍馬天狗(観世元滋 訂、桧大瓜堂、大正6)/左p.1行目
※「あら痛はしや和上臈は」は、「流石に」が抜けか。

p.329 伝教大師
 (出典なし)
伝教大師の「わがたつ杣に冥加あらせ給へ……」
※「阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ」は、延暦7(788)年、最澄が比叡山に根本中堂を建立したときに詠んだ歌という。

p.330 蕪村
春の夜や狐の誘ふ上童(蕪村)
◎蕪村俳句全集 : 季題別(半田良平 編、紅玉堂書店、大正14)/p.10, 下段7行目

p.331 Y・K氏

p.332 Y・K君

p.333 『蘿洞先生の話』
この『蘿洞先生の話』に思い合わせて、私にはひとりで吹き出される一事がある。
◎赤い屋根(谷崎潤一郎 著、改造社、大正15)/蘿洞先生

p.334 澁澤龍彦

p.336 南方翁
 (出典なし)
山若衆について南方翁が注目していた。山小屋に共住いして昼夜の助手をつとめる少年のことである。
※出典未詳。

p.337 文明一四、井尻又九郎忠助・若気勧進帳
「其年齢則上自七歳至二十五、是諸家通用之道也、雖然高野六十那智八十、禅家不論年齢」(文明一四、井尻又九郎忠助・若気勧進帳)
〇76/若気勧進帳(若道之勧進帳) 一巻 文明十四年(一四八二)
井尻又九郎忠助。〔続類従九八一。三十幅。軟派珍書往来。〕
◎三十輻 57-58(写)/井尻又九郎善道之勧進帳,左2〜4行目

p.337 犬子集
「六十になれど心は若やぎて、高野も今は恋の最中」(犬子集)
◎(送信サービスで閲覧可能)俳諧文庫 第3編(博文館、明治30)/p.64, 下段9〜10行目
※「犬子」は「えのこ」。

p.337 贋筑波集
「八十になる年は恥かし、那智辺にさもこそ恋のはやるらめ」(贋筑波集)
△香川大学中央図書館「鷹筑波集」第四/右2〜3行目
※「鷹(たか)」を「贋(にせ)」と読み違えたか。

p.337 傾城禁短気・二ノ巻
「男色の至つて面白きは年行きの若衆なり。高野六十那智八十といふ事をしらずや」(傾城禁短気・二ノ巻)
〇370/色道大全傾城禁短気 六冊 宝永八年 京、八文字屋板
江島其磧。巻二、野傾の両宗安土論。身揚りはくつわの方便品。異香薫ずる女郎の内懐。女宗にあふて衆道門尻から閉口。男女両色優劣論なり。〔帝国文庫。名著全集。近代文学。評釈江戸文学叢書。〕
◎近代日本文学大系 第5巻 (八文字屋集)(国民図書、昭和3)/p.563, 3〜4行目

p.337 近松の浄瑠璃・薩摩歌
「近年高野山に相勤め小姓廻しは致せしが、高野六十那智八十、きんかん頭の若衆にて……」(近松の浄瑠璃・薩摩歌)
◎源五兵衛おまん薩摩歌 : 一名・五大力(近松門左衛門著、住沢正新堂、明27.8)/p.2, 11〜12行目
※上記『源五兵衛おまん薩摩歌』に出てくる「天窓」は、「頭」の意。

p.341 花月
来し方より今の世まで絶えせぬものは恋といへる曲者、げに恋は曲者、くせものかな、身はさら、さらさら、さらり、恋こそ寝られね
かやうに狂ひめぐりつつ心乱るるこのささらを、今日を限りにさっと棄てて、
あれなるおん僧につれまいらせて仏道の修行に出づる
〇45/花月
世阿弥。謡曲〔国民文庫。謡曲叢書。有朋堂文庫。文学大系。名著全集。〕
◎謡曲集 下巻 (有朋堂文庫)(野村八良 校訂、1914)/p.76, 8〜10行目,p.79, 11行目〜p.80, 2行目

p.341 堂本正樹
(出典なし)
堂本正樹氏(前出)などは、花月は飛子(とびこ)の初期形態でないかと云っている。
※出典未詳。

p.345 澁澤龍彦

p.354 南方熊楠翁
(出典なし)
ある時、倫敦の英国学士院の若手連中のあいだに、「東西の書典に曾て見ざる淫法一つだにありや?」が論議されていた席上へ、青年南方熊楠が顔を出した。
※出典未詳。

p.361 今春聴著『稚児』
弘児聖教秘伝私一巻(恵心述大永四年写)
児灌頂私一巻(宝徳二年写・大永四年伝写)
児灌頂私記一巻(足利時代写)
児灌頂式(文明五年写)
児灌頂次第一巻(文政元年写)
〇1064/稚児 日本評論 第十一巻第三号 昭和十一年(一九三六)三月 日本評論社発行
今春聴。叡山の美童を繞る恋愛に取材したる物語の中に、恵心僧都撰述と称する「弘児聖教秘伝」の一書を紹介せり。
※『底本 稚児』(今東光、防長史料出版社、昭和52年3月)によると、谷崎潤一郎による手書き原稿の「序」(昭和丙戌〈21年〉)、緒言、稚児本文、跋文(昭和21年)、跋文後記(昭和48年)という構成になっている。
※「さしずめ今氏の小冊子のパラフレーズに拠って、サンプルをでっち上げるより他はない。」と述べているように、引用というより、リライトである。





『少年愛の美学』における『男色文献書志』の役割
■附録/『少年愛の美学』における引用文献一覧
第1章 幼少年的ヒップナイド
第2章 A感覚の抽象化


も く じ
CONTENTS